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暮らしマルシェ vol.9

価値が入れ替わるとき

先月の蚤の市
@chordhayamaantiquesandbookcafe

これまで
ウエディングやケータリングのたびに買い集めてきた
膨大な食器たち。
そのほんの一部だけれど放出いたしました。
(なにせ運ぶのが大変で)

いつもなら、épice cake の水曜喫茶の日。
祝日だったことも重なり
自分達の”ゆっくりまったり”想定とはうらはらに11時の開店から怒涛の人出。

まるで追いはぎにでもあったように
(自分で売っておきながら失礼きわまりない!)
開店から1時間ほどでおおかたの品物がからっぽの状態に。

大切なものと、思い出がつまったもの

フリマと聞くと
なんだか限りなく無料(フリー)に近い安価で
不用品を放出するイメージだけれど
蚤の市(Flea=ノミ)って聞くと
ちょっとノスタルジックに感じるのはわたしだけ?

誰かの思い出がつまったもの
誰かが大切に使い続けてきたもの

ひと昔前なら
代々受け継いで使うことの多かった家具や食器は
使い捨ての概念がない時代の
長く使い続ける文化がもたらしてくれた
ちょっとしたご褒美に思える。

大切だけれどもう使わないもの。
気に入っているから捨てられないけれど
残念なことに今は
ただスペースだけとって
ホコリをかぶっているもの。

一族が時代を超えて同じ家に住み続ける住居スタイルではなくなった現代。
さらに小さな島国でありながら人口の多いこの日本で
核家族のうえ
一人暮らし、単身赴任などの住居を確保するには
欧米のような広いスペースを持つなんてむずかしく
結果的に各自でモノを所有するから
長く使おうという発想も薄れているにちがいない。

夏の終わりに80歳のお誕生日の食事会を開催したYさんが
”人生の終わりの準備”に
断捨離を始めているとおっしゃっていて

自分が生きている間は
お気に入りのものに囲まれて気分良く暮らしたいけれど
他人では処分に困るだろうもの
(思い出のある自分にしか価値がないもの)は
いまのうちから
大事にしてくれそうな人へ譲渡するものはゆずり
捨てるものは捨てるという。

この様子を見て思った。
大切にしてきたものには
そんなふうに時間を使い丁寧に行く末をうながせるんだな。

たとえ安価であってもぞんざいな扱いをうけないように
ちゃんと気に入って大事にしてもらえるように
どうやって引き継げるだろうかと考えて。

ケータリングはもうやめようと思い始めてからも
処分できずにいた食器たち。
それらもまた
私にとってはかけがえのない思い出がつまったもの。
だから、手放すにしても
顔の見えないフリマアプリでは難しい…

カタチあるものはいつか壊れる

食器なんかは、もちろん
移動させるたび割れたり欠けたり。

衣服なんかにしても捨てられなくて所持するものの
気づけば虫食いにやられてたり
(シルクやウールなど上質なものほど美味しいのか虫にやられる!)
湿気にやられてカビだらけになって
結局捨てるしかなくなった経験がある人も少なくないはず。

こんなことならもっと早くに誰かにあげておけばよかった。
どうせ捨てることになるならもっと早く処分すれば…

モノは使ってはじめて意味をなすもの。
そう考えると
押し入れや棚の中で
ふだんは忘れられているのでは
モノにとってこんな寂しいことはないはずなんです。

いいものだからもったいなくて使わない、じゃなくて
壊れないように気をつかうのは
だいじに扱うのと同義語でありたい。

だからこどもにも
自分の大切なものがわかる年齢に達したら
割れる食器を使わせるのは大切だなと思っています。
自分のお気に入りが壊れてはじめて
ていねいに扱うことを学ぶと思うから。

話がそれたけれど
カタチあるものは壊れるって
前提として持っていた方が生きやすいなと
つねづね考えてきました。

誰かがうっかり自分のものを壊しても
イライラしないですむ。

わざとじゃないから誰にもぶつけられない怒り
2度ともどってこない悲しみはあるけれど
壊れることも前提として持っていると
「うん。これまでありがとう。」と思える。

そう。
カタチあるものはいつか壊れる
を、意識していくと
変化をうけいれやすくなる。
つまり生きやすくなる。

”古い”が”新しい”に変わるとき

自分のなかでは使いふるされてしまったもの
何度も利用しすぎて飽きてしまったもの
当時はあんなに大切にしていたのに
いつのまにか押入れの奥にしまわれたもの。

今回の蚤の市で
こんなにたくさんの人が
こんなにテンション高く飛びついてくれる姿を見て
私にとって古くなったものが
息を吹き返す瞬間を見た気がしました。
(だって、丸太の切り株を欲しい人がいるなんて思ってもなかったw)

その後、手に入れた食器を使っている人の投稿をみるたびに
あぁ。あたらしい家であたらしい暮らしを
あの食器たちも手に入れたんだなと
活躍する場所を移したんだなと
なんだか子供の旅立ちのように感じたのでした。

そしてこれからも
=簡単に捨ててしまえるもの選びはしない=
という、モノを選ぶ基準は大切にしたいなと決意。

手放すことは終わりじゃない

仕事上必要で購入したとはいえ
どれも吟味して気に入ったからこそ選んだモノたち。
手放すには少しの抵抗があったのも事実でした。

この感情を執着というのかな。

でも
執着だけで手放さずにいると
結果ホコリをかぶって隅に追いやってしまうという愚行となる。

実際に手に入れた人がどれくらい喜んで
どんなふうに使ってくれてるのか
インスタなんかで垣間見ることのできる今だからなおさら
手放せて本当に良かったと思える。
そう。
食器を手ばなしたようで実は
自分の執着を手放したんだなと。

入れ替わるものと変わらないものがあって
価値が入れ替わる瞬間は
たぶん人生のなかで何度も訪れる。

今回はモノの持ち主が変わることで入れ替わったけれど
自分の立場や住む場所、年齢、コミュニティーなんかでも大きく変わるし
いつもゆらぎながら変化してきたと思う。

地方の都会から都心に移った時の価値観
都心から自然あふれる場所に引っ越しての変化
雇われて働くときと、人を雇う立場で違って見える双方の価値
年齢を重ねるにつれて移り変わる変化
知らなかった事実を知ることで変わる感じ方

そして
それらを経ても変わらない価値もあり
この蚤の市では
その変わらぬ価値がなんなのかを
じっくり感じ取る体験でもありました。

手放すことは終わりじゃなく
あたらしいはじまりを意味するっていうこと。
そうしてみると
”ゴミ”と定義しないかぎり
ゴミと呼ばれるものなんて本当はないとわかる。

たべもの(野菜や水産・畜産物)を扱うと
それ(ゴミはないこと)は理解できていたつもりなのにね。
改めて日々の暮らしを考えさせられました。

あの食器たちが
それぞれの新しい場所で
誰かの日々の暮らしを輝かせていることを
こころから祈っています。

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私の中で
この
”モノ”を新しい価値のある場所へ移動させるという行為が
自分の価値観や思考に
あらためてすごく影響を与えてくれたので
記録したいと思ったしだい。


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