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宝石の国と仮面ライダーガヴ ~市川春子と武部直美は「女性」をどう描き出してきたか~

なんだか、最近面白い漫画がどんどん終えていくようなここ2~3年。
ついに宝石の国の最終巻である13巻が本日11月21日に発売された。
それを機に宝石の国で一本、記事を書いてみようと思う。

『宝石の国』に見る高度な承認欲求の悲劇と女性像の再定義

市川春子の『宝石の国』は、美しいビジュアルと独特の世界観を備えた作品であるが、その背後には高度に発達した承認欲求の悲劇と、女性像に関する厳しい批判が織り込まれている。物語において、主人公であるフォスフォフィライトの存在に内在する矛盾が深く掘り下げられ、承認欲求が引き起こす虚無と搾取の構造が露呈している。『宝石の国』は、女性的役割を「母」「女神」「娼婦」「トロフィー」という典型に分類し、それらを露悪的に描写することで、現代社会における女性の地位や役割への批評を試みていると言えるだろう。


フォスフォフィライトと承認欲求の悲劇

フォスフォフィライトは物語を通じて「脆弱で空虚」とされる存在であり、その評価が承認欲求の悲劇を体現している。103話「無垢」では、フォスが石と対話する中で幸福を感じるが、自分の人間由来の「不純な部分」が石たちに悪影響を及ぼすのではないかと考え、金剛の兄機に「自らを消す方法」を求める。この問いに対し、兄機は「月人が胸のあたり(フォス)は取るなって。そこはフォスフォフィライト本来の純粋な部分があるから残したいとよ」と語る。この一見感動的な台詞が実際に示すのは、フォスが月人たちにとって「純粋で都合の良い存在」としての価値を保つことを期待されている現実だ。

月人のリーダーであるエクメアは、フォスを(雑誌掲載時では「役立たずで社会に馴染めず金剛ですら役割を与えられなかった」と評している。)「フォスフォフィライトは脆弱な体に不釣り合いな承認欲求だけを抱え金剛ですら仕事を与えられず自ら役割を作り出すこともできない空虚な存在だった」と評した一方で、その「純粋な部分」を保持し続けるよう望む。この矛盾した態度は、男性中心社会が女性に対して「愚かで優しく尽くす存在であれ」と要求しながらも、それを見下す構造と酷似している。このようにフォスは、承認欲求による搾取の象徴として描かれている。


女性像の四つの典型――「母」「女神」「娼婦」「トロフィー」

『宝石の国』では、女性的役割の典型が「母」「女神」「娼婦」「トロフィー」に分類され、それぞれが極端に描写されている。この表現は単なるミソジニーではなく、むしろ女性に課される役割の醜悪さを浮き彫りにするための批判的手法として見ることが出来る。

フォスが象徴するのは「母」の役割だ。彼は物語の中で月人と宝石の罪を受け入れ、大地の母のように全てを包摂し祈りによって無に返す存在として描かれる。しかし、その「母性」は他者の幸福を成り立たせるための犠牲として搾取されている。フォスが一万年にわたり孤独に苦しむ様子は、社会が女性に献身や犠牲を当然視し、その苦痛を直視しない構図を象徴している。フォスの「幸福」は、他者のために自らを犠牲にすることを前提としており、これは人権が存在しない「奴隷」としての側面を強調している。

カンゴーム(姫)は「娼婦」と「トロフィー」を体現するキャラクターだ。無性の戦士として男性的な強さを持っていた彼女が、エクメアとの関係を通じて性的な存在へと変貌する様子は衝撃的だ。特に10巻に描かれるエクメアとのキスシーンは、性的な消費としての彼女の役割を露骨に描き出し、社会における女性の性的消費のリアリティを過激に映し出している。また、カンゴームがフォスから簒奪された「トロフィー」として扱われる点も、女性が男性中心社会において所有物としての価値を付与される現実を象徴している。

またダイヤモンドは「女神」や「アイドル」としての役割を担う。彼女は月人たちから偶像として崇められるが、最も求めていたボルツからの承認を得られない。この空虚な構図は、偶像化された女性が、他者からの評価に依存する生き方の限界を象徴している。有象無象の支持は彼女を救うことなく、真の欲望を満たすこともない。


承認欲求が生む自己矛盾と搾取構造

フォスの存在意義を巡る矛盾した評価や、女性像の典型的な役割は、いずれも社会が押し付ける承認欲求の構造と搾取の仕組みを浮き彫りにしている。月人や宝石たちの幸福はフォスの犠牲の上に成立しているが、それは感謝される一方で、彼に具体的な救済を提供することはない。フォスの一万年にわたる孤独と苦悩は、承認欲求が自己充足を妨げ、他者に利用されることで空虚を生む現実を象徴する。

さらに、カンゴームやダイヤモンドに代表される女性像は、社会が女性に押し付ける役割の虚しさをあからさまに示している。「愚かで優しく尽くす女性が愛される」という価値観が、女性を搾取しつつその矛盾を見過ごす装置として機能しているのだ。


『平成仮面ライダー』から見る消費と搾取と自己解放

武部直美が手掛ける平成仮面ライダーは、表面的なエンターテインメントを超え、ジェンダーの不平等や承認欲求の構造、そして消費文化を鮮烈に批評する要素を備えていると見ることが出来る。その作品はどれも「過剰な責任を背負わされた母」「その役割を継ぐ少女」「未来を切り開く守る少年」という三層構造を通じて、女性像の再定義と救済不可能な現実を描きながら、視聴者や読者に未来への問いを投げかけているのは明らかだ。


死霊の母親――「過剰な責任」を負わされた女性たち

『仮面ライダー鎧武』の王妃、『ギーツ』のミツメ、『ガヴ』の井上みちるといったキャラクターたちは、「母」としての役割と社会的責任を過剰に背負わされた結果、物語の開始時点ですでに死んでいるか、救済不可能な状態にある。彼女たちはまるで東映社内における武部直美の「すり潰されたキャリア・ウーマン」のメタファーとして描かれ、現実世界での働く女性や家事育児を担う母親像を象徴している。

武部直美自身もまた、男性中心社会をサバイブしてきた女性である。
それは下記インタビューから汲み取ることができよう。

視聴率や、変身ベルトなど関連おもちゃの売れ行きは、常に大きなプレッシャーだ。物語や人物設定をこだわり抜いたシリーズであっても、満足な結果が出ないこともある。逆に「オーズ」では、ベルトが予想を超えて近年最多の75万本売れた。
「当たるかどうかは、放送するまでわからない。『これがいい』とスタッフと懸命に作ったのだから、必要以上に悩まないようにしています」 

14年前に長女を出産。育休を10カ月とった。育児は、言葉を持たない赤ん坊と向き合う孤独な作業でもあった。「母親も楽しめる番組を作りたい」と思うようになった。
だが復帰後、上司は「育児と仕事の両立は大変。プロデューサーはやめたら」。冗談じゃない。先輩に「一緒にやらせて」と掛け合った。

仕事が深夜に及ぶことが多く、休みも不規則。実家や夫と協力し、長女(中学2年)を育ててきた。小学校の6年間、研究員の夫が関西に単身赴任したため、夫の実家の裏にアパートを借り、仕事が終わるまで見てもらった。子守役がいない日は、職場に連れて行った。

子どもの頃、「仮面ライダー V3」や「ゴレンジャー」が大好きで、女の子向けアニメには見向きもしなかった。大学時代は、刑事ドラマ「特捜最前線」の脚本家に便箋(びんせん)10枚に及ぶファンレターを出して助手に。卒業前に正式な弟子入りを希望したが「女はとらない」と言われてあきらめ、東映に入社した。

朝日新聞「〈凄腕つとめにん〉送り出した「ヒーロー」=50人」より

と、ある通り苦労をしていることがわかる。また、東映という企業は2022年に仮面ライダーの制作に関わっていた元20代女性のアシスタントプロデューサーがセクハラや長時間労働により慰謝料など求め提訴するなどお世辞にも良い環境だとは言えなかったハズだ。2022年もこのような状況であったのだから、武部Pが入社した頃はもっと酷かったであろう。

その経験が反映されたこれらのキャラクターたちは、物語の中で「石棺」や「石像」、あるいはアクリルスタンドのように「記念碑」として扱われる。しかし武部は、彼女たちを歴史の中に閉じ込めることで物語を終わらせるのではなく、その主眼を「救済不可能な母」から「次世代の少女と少年」に移すことで未来への可能性を提示している。この構造は、過去を語り継ぎつつ未来を変えるという意志を体現しているのではなかろうか。

実際にその武部Pはこの東映の環境にメスを入れ始めている。
メインプロデューサーを務め、2023年に公開された映画「仮面ライダーギーツ 4人のエースと黒狐」では日本映画制作適正化認定制度(映適)の認定作品第1号として、映適マークが付与された。(※映適は映画制作における就業環境の改善を目的として設立された一般社団法人日本映画制作適正化機構(映適)が運営する制度であり、撮影時間や休日、契約などの観点から、映画制作現場が適正かどうかを審査し、認定された作品に映適マークが付与される。)
また、武部Pがメインプロデューサーを務める現在放送中の『仮面ライダーガヴ』でもスケジュールや撮影現場に余裕をもたらすために例年よりも早く撮影が開始され、大きな話題を呼び、メインプロデューサー、アシスタントプロデューサー、脚本家が女性陣で固められるという近年で類を見ない布陣が取られた。
この様に、女性に現場に属していても結果と継続力による内側から古い体質の会社を変えることが出来るのである。まさしく、内側からハックし、システム(いわゆるガラスの天井)を破壊している体現者であろう。


女神少女/継承――「未来」を担わされる存在

「死んだ母」たちの役割を引き継ぐのが、『鎧武』の高司舞、『ギーツ』のツムリ、『ガヴ』の甘根幸果といった若い女性キャラクターたちである。彼女たちは物語の序盤では脇役として登場し、主人公たちを支える存在に過ぎない。しかし、物語が進むにつれその重責が明らかになり、終盤では物語の中心に躍り出る。

彼女たちは「愛情規範」「純潔規範」「美的規範」に縛られた存在でもある。これらは明治維新以降の日本で少女像として確立されたものであり、夫への愛情、純潔の保持、美しい容姿といった規範が現代の少女たちにも影響を与えている。こうした規範のもと、継ぐ少女たちは物語上で「消費される対象」として描かれる危険性を孕んでいる。この点は、BLや腐女子文化がキャラクターを無意識的に「消費物」として扱う構造ともリンクしており、女性キャラクターの「商品性」が浮き彫りになる場面だ。


守る少年すなわち主人公――「母なるもの」の救済者

物語の主人公である「守る少年」たち――『鎧武』の葛葉紘汰、『ギーツ』の浮世英寿、『ガヴ』のショウマ――は、序盤では「母なるもの」を追い求める。そして終盤では、「継ぐ少女」を救うために行動する。興味深いのは、少年たちが少女をケアする存在として描かれる点である。彼らはしばしば少女と同等の役割を分担するか、あるいはその重責を完全に肩代わりする。

「守る少年」はメインの視聴者層である少年たちに自己投影を促し、「正しい選択」としてのケアを示す役割を果たしている。これは単なるヒーロー像の再定義ではなく、男性視聴者にジェンダー的責任を問いかける構造となっている。武部直美は、男性中心主義のカルチャーが女性を消費する現実を自覚的に捉え返し、その矛盾を克服する可能性を少年たちの行動に込めている。


キャラクター消費のグロテスクさ

『宝石の国』も武部作品にも、キャラクター消費文化への鋭い批評性が共通して見られる。フォスフォフィライトや仮面ライダーシリーズのキャラクターたちは、読者や視聴者に感動や共感を与える存在である一方で、作中では「記念碑」や「アクスタ」のように消費(モノの様に扱われている)され、消費される対象として描かれる。
特に武部直美のプロデュース作品には、「生身の人間を消費する文化」への自覚が色濃く表れている。彼女は『仮面ライダーギーツ』においてはリアリティショーのような現実の痛みを映し出しつつ、同時に現在放送中(執筆時の2024年において)の『仮面ライダーガヴ』においてはキャラクターを「アクスタ」として商品化することで、消費文化そのものを可視化する。

この手法は、伊藤剛の「キャラ論」や東浩紀の「データベース論」、大塚英志の「物語消費論」に通じるものであり、視聴者がキャラクターを無意識に搾取する構造を暴露している。武部直美が手掛けた作品における女性キャラクターは、消費の対象として位置づけられながらも、物語内での役割を通じてその矛盾を露呈させる。これは、BL文化や腐女子が「推し」を消費物として扱う構造とも重なるが、武部の作品はその搾取構造を超克し、次世代に対する願いを込める点で特異である。
特に、女性キャラクターが商品として消費される一方で、その痛みや矛盾が物語に刻まれることで、視聴者に「何を未来に継承するべきか」を問いかける装置として機能している。
さらに武部直美自身が「腐女子」的な創作手法を駆使し、既存の物語を上書きする形で新たな物語を生み出している点も注目に値する。彼女は「吸血鬼」や「人魚姫」といった童話を下敷きにすることで、男性中心社会へのカウンターとしての女性像を描き出している。このアプローチは、彼女が男性社会における厳しい競争をサバイブしてきた背景と無縁ではない。


明治以降の少女像とその再定義

武部作品には、明治期以降に形成された「少女」という概念が色濃く反映されている。山岡重行の『腐女子の心理学2 彼女たちのジェンダー意識とフェミニズム 第7章 腐女子とオタクの愛を巡る規範意識』(p174~175)では少女が生まれた背景をこのように分析している。

日本は明治維新により時代が明治へと移り変わった。その際に富国強兵をスローガンとした当時の政府は「学校」というものを作った。学校教育制度が制定されたことに伴い「少女」が誕生したのだった。富国強兵では男は兵士であり、女性はそれを回復し、国家に貢献することを間接的に求められた。
それによって「愛情規範」「純潔規範」「美的規範」が生まれた。

愛情→夫に愛情を捧げるべし
純潔→夫婦関係になる前に純潔を保つべし
美的→異性が好ましいとする容貌のするべし


山岡が指摘するように、日本社会は「愛情」「純潔」「美的」といった規範を少女に課し、それを社会的役割として機能させてきた。「愛情」「純潔」「美的」という三要素はこの女神としての女性像が反映されているものであり、それは個人が求めてなるものではなく国家が、周囲が求めることで形成されたものである。これは先ほど述べた「始まりの女」「創世の女神」にも当てはまるのではないだろうか?
武部の初プロデュース作『仮面ライダーキバ』では、主人公紅渡が王家の品性を背負わされる存在として描かれ、この規範が物語の基盤に組み込まれている。武部が描く女性キャラクターたちは、こうした規範や役割の中で葛藤し、それを受け入れるか打ち破るかという選択を迫られる存在だ。


自己解放と未来への願い

『宝石の国』も武部直美の仮面ライダー作品も、最終的に、女性が「誰かに愛されるため」ではなく、「自分だけの幸せを見つける」ことをメッセージを内包している。フォスが博物誌作成の道を選び取っていれば、彼は自己の内的充足を見出せたかもしれない。同様に、武部の作品は、女性が搾取的な役割から解放され、自らの道を切り拓くことの重要性を視聴者に伝えている。同様に、仮面ライダーシリーズの「守る少年」たちは、女性を搾取する側ではなく、ジェンダーの不平等を解消するための行動を選び取る存在として描かれる。

これらの作品は、過去の痛みを消費するだけでなく、それを未来への糧として視聴者に提示する。武部直美が描くのは、単なるヒーローはただの「変身」するヒーローではなく、自身と社会を「変身」をさせるヒーローなのである。両作品は新しい世界への想像力を持つ物語なのである。

フォス「あなたは動けず見えない構造です
まずは動けるようにしてさしあげましょう」
石「いやいや大丈夫」
フォス「でもすごく便利ですよ 何処へでもも自由に行けます」
石「君とは違うかもしれないけど 問題ないよ」
フォス「では私と同じ視界は如何です 土星の小惑星も正確に数えられます」
石「いやいや大丈夫 君のことは感じられるし 今の眺めは好きなんだ 君は親切で 僕に優しく語りかけてくれている 僕にはひとつも不満はないよ 君にとって完璧ではないかもしれないけど 僕は自分が良いと自信があるよ」

宝石の国13巻p17〜19 99話「始まり」より


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