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足利義教とコロッケそばに対する省察
嘉吉元年七月、赤松邸にて
嘉吉元年(1441年)六月二十四日、足利義教は京の街を薄い朝霧が覆う中、赤松満祐の屋敷に向かっていた。
その日、義教は重要な儀式を終え、赤松邸で開かれる私的な宴に出席する予定だった。
この時の宴とは嘉吉元年(1441年)4月、持氏の遺児の春王丸と安王丸を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝の結城城が陥落した、俗に言う結城合戦の祝勝の宴としてである。
定説ではこの祝勝の宴には満祐の嫡子である教康が松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称し、西洞院二条にある邸へ義教を招いたとされていた。
また、『嘉吉記』によると、「鴨の子沢山出来」と招いたという記述がなされており、何かしらの芸能が献上されたと考えられていた。
しかし、近年に発見された『宗全記』という山名持豊(後の宗全)が記したとされる日記には宴では芸能が献上されたのではなく、食であると記述されていた。『宗全記』には献上された品までも記載されており、「金衣揚ゲ蕎麦」と記述がされていた。
このことにより、前説が一気に塗り替えられることとなった。
赤松邸に到着すると、義教は薄暗い廊下を通り、満祐が準備した座敷に案内された。
質素ながらも美しく整えられたその部屋で、義教の目を引いたのは、膳の上に湯気を立てて置かれた一椀のそばだった。黄金色の衣をまとった揚げ物がそばの上に慎ましく乗せられている。
「これは何だ?」
義教は軽い驚きと興味を込めて尋ねた。
「殿、これは——『金衣揚げそば』にございます。」
赤松満祐が頭を垂れつつ答えた。その表情には微妙な緊張が漂っていた。
「金衣揚げそば、か。初めて目にするものだが……。」
義教はしばらく膳を眺めた後、箸を手に取り、そばを一口啜った。
湯気とともに立ち上る鰹出汁の香りが鼻腔をくすぐる。そばは見た目以上に滑らかで、喉越しも心地よい。程よく絡むつゆがそばにしっかりと染み込み、優しい味わいを口いっぱいに広げる。
「うむ、これはたまらんな。」
義教は頬を緩め、さらに揚げ物に目を移した。
「満祐、そもそもこの金衣揚げをどのようにして食べるのがよいのか?」
義教は興味深そうに尋ねた。
「それがしの知るところでは、幾つかの食し方がございます。」
満祐が嫡子教康は慎重に言葉を選びながら答えた。
「まず、この揚げ物をそばから一度取り出し、別皿にてそのまま味わう方法がございます。こうすることで揚げたての香ばしさをそのまま堪能できます。」
義教は箸で揚げ物を摘み、試しに一口噛みしめた。衣はサクッと軽快な音を立て、中からふわりとした山芋が現れる。そのほのかな甘みが口中に広がり、衣の香ばしさと絶妙に調和している。
「これは見事だ。」
義教は感嘆の声を漏らした。
「次に……」
教康は続けた。
「揚げ物をそばのつゆに沈め、しばらく置くことで、つゆが衣全体に染み渡り柔らかくなる様を楽しむ方法もございます。」
義教は言われた通りに揚げ物をつゆに沈め、しばし箸を休めた。つゆを吸った衣がほんのりと色づき、柔らかな質感になっている。義教はそれを口に運ぶと、つゆの旨味が衣を通じて増幅され、山芋の風味がより濃厚になったことに気づいた。
「うむ、これもまた趣深い。」
義教は一口一口をじっくりと味わい、何度もうなずきながら堪能した。
「最後に……揚げ物をそばと共にかき混ぜ、衣を全体に絡ませる食べ方もございます。この方法では、衣の旨味がそばに行き渡り、全く異なる味わいが生まれます。」
義教は笑みを浮かべながら、
「なるほど、そなたの説明はまるで料理指南のようだな。」
と言い、三つ目の方法も試してみた。
揚げ物を少し崩し、そばと絡めて啜ると、衣の香りと山芋のほのかな甘さがそば全体に広がり、これまでのどの食べ方とも異なる一体感が味わえた。
「これもまた良い。いや、この料理には深い奥行きがあるな。」
満祐は微笑みながらも、どこか緊張した面持ちを崩さなかった。
義教は膳に向かいながらしばし無言となり、ただひたすら食べることに没頭した。
つゆを啜る音、揚げ物を噛みしめる音、そばを啜る音が静寂な座敷に響いていた。
食べ進めるごとに顔がほころび、満足感に包まれている様子がありありと伝わる。
「満祐、このような美味を作れる者を我が屋敷に雇い入れたいものだな。」義教は冗談交じりに笑った。
「はは。すぐに手配を」
その瞬間、満祐の視線がふと障子の向こうに向けられた。廊下の奥からかすかに足音が聞こえる。
満祐の顔は一気に硬直した。
「殿、このような席で恐縮ですが、もう一つお伝えしたいことがございます。」
満祐が慎重に切り出す。
「何じゃ?申してみよ。」
義教は食べ終えた丼を膳に置き、満祐を見つめた。
「それは……。」
満祐の口調が躊躇いがちになった瞬間、障子が激しく開かれた。
突如として現れた数名の武士たちが義教の座に殺到する。
その刃が瞬く間に義教の身体を貫いた。
「貴様!これは何の真似だ!」
義教は叫びを上げたが、その声は次第にかすれていった。
膳の上の丼からはまだ微かに湯気がゆらゆらと揺れており、義教の血が畳を赤く染めていく。
満祐は立ち上がり、冷たい目で義教の最期を見届けた。
「お主の暴虐はここで終わるのだ。」
満祐の声は低く震えていたが、しかし決然としていた。
足利義教とそば ~そばの歴史とその民俗性~
後世、この事件は「嘉吉の乱」として知られるようになった。しかし、歴史書に記された内容は赤松満祐が義教に不満を抱いて反乱を起こしたという表面的な事実だけである。
『宗全記』には次のような記述があった。
義教公、そばにのせられた黄金の衣を見て曰く、 “これはまことに美味なり。” 赤松満祐、これを聞き顔を曇らせ、“斯様なものを……。”
赤松満祐は、この「金衣揚げそば」が義教の贅沢と好奇心を象徴するものとして許し難かったのだという。
武士としての質実剛健を重んじる満祐にとって、義教のこの一言が我慢の限界を超えるきっかけとなった。と当時そこに居合わせた持豊は事件の背景には上記のようなことがあったと推測している。
しかし、既に故人である民俗学者の犬飼喜一は研究報告書であり、かつ氏の学位請求論文である「近代以降の露店商に於ける商習慣の研究」、及び同論文中の立喰師に関する事例研究を骨子とした『不連続線上の系譜』、および多々良伴内氏の手になる評伝「暖簾の迷宮」でもこれには疑問を呈している。
中国雲南省近辺を原産地とする蕎麦は、朝鮮半島を通じて縄文晩期に日本に伝わったとされるが、そもそも蕎麦という植物の呼び名は元来のものではなく、古くは「曽波牟岐(そばむぎ)」あるいは「久呂無木(くろむぎ)」と呼ばれていたもので、現在の蕎麦という呼び名が一般化したのは十二世紀以降のことである。生育期間が極めて短く、粗放栽培に適した蕎麦は、救荒作物として栽培されていたらしく、「続日本紀(しよくにほんぎ)」にも「今夏は雨もなく稲苗みのらず、よろしく天下の国司をして百姓を勧課し、晩禾・蕎麦及び大小麦を種樹し、蔵置・儲積して年荒に備えしむべし」という勧農の詔が見え、備荒用の食物として寺院や農山村で用いられていた。
ここで下々の食べるものを将軍である義教が食するハズはないという声があったがそれは大きな間違いである。
これを検討するには義教は青蓮院に出家し、僧侶時代に義円と名乗っていたことを踏まえる必要がある。
蕎麦と寺院との関わりは古く、蕎麦屋の屋号に「禅味」なる文字が添えられているのは禅寺との関わりの名残である。
寺院を中心に広がった市とそこに集まった傀儡子・私度僧等の漂流民という構図に対し、犬飼は立喰師の漂流民起源説の論拠となっており、香具師の系譜との相似性をも連想させるとしている。
また農山村部における蕎麦はむしろハレの食物であり、婚礼・誕生・年越しなどの民俗とも関わりが深い。
その祝祭性は現在も馳走のあとの蕎麦振舞などにその痕跡を残している。
このことから、寺院を出た義教が祝いの席で蕎麦を食すことは何の疑問もないワケである。
ただし、当時の蕎麦は現在の形とは異なり、蕎麦練り(蕎麦餅)・蕎麦掻などの原始的粉食であり、蕎麦粉に小麦粉を混ぜて作るいわゆる「蕎麦切り」は慶長年間に、これも禅寺における点心として始まり、寛永年間の末には辻売りなどで売られていた。
寛文四年には吉原に「けんどん蕎麦切り」が現われるが、これは現在の盛蕎麦と同様のものであり、ここにおいてようやく我々は今日的な蕎麦の形態に出会うと同時に、この「けんどん蕎麦切り」の登場を機に都市部における蕎麦の流行・普及が始まるのである。
これは現在の盛蕎麦と同様のものであり、ここにおいて我々はようやく今日的な蕎麦の形態に出会うのである。
よって丸輪零『嘉吉のお蕎麦』におけるあたかも義教が盛蕎麦を食しているかのように見られる描写はフィクションによる脚色であると言わざるを得ないだろう。
そして、江戸においても享保の頃まで蕎麦屋なるものは存在せず、蕎麦を売るのはのはうどん屋であり、蕎麦切りに汁をかけて食す「ぶっかけ蕎麦」が現れたのは元禄の頃であり、これが現在で言う「かけ」なのである。
これを機に様々な具を配した、しっぽく・あんぺい・あんかけ・あられ・天ぷら・花巻などの「たねもの」の出現には実に幕末まで待つこととなる。
さて、ここでやっとコロッケの話に入るワケだが、本来月見そばの発展形とするコロッケ蕎麦の変遷について論じる必要があるがそれは帆場暎一『立喰と東京の箱舟』が詳しく考察しているため、そちらに譲る。
コロッケ(そば)とは何なのか ~コロッケそばの変遷~
達磨サンガ転ンダ、達磨サンガ転ンダ、達磨サンガシャガンダ、達磨サンガ政治ニ口ヲ挟ンダ……。
抑 揚 頓 挫、流 暢 哀 腕 ーー (あげたりさげたりきゆうにやめ、のびやかにじようちよたつぷり)
それは真仏の秘号を鄭衛(ひわいのちまた)の末韻(はやりうた)と化し、当代の錬師をして憤激せしめた念仏行者遺裔末流の業とも聞こえ、その実は蕎麦の茹で上がりを量る立喰師伝承の秘儀に他ならなかった。
その声が主人の耳元に微かに聞こえた。
そう思うと、釜前に立つ主人が睡魔に襲われる頃合いにいつの間にかその「狐」は現れた。
「ケツネ……おソバで」
年は二十過ぎであろうか、長い黒髪を束ねた八寸元禄を口に咥えた文字通りの目が覚めるような美女は呟いた。
彼女はひいふうみい…と十も二十もキツネそばにコロッケを漬け込み、丼を重ねた。
そして、彼女は銭を払う素振りなど一向に見せずに「コン」と一声啼き、油に濡れた紅い唇を舐めると黒髪を靡かせ暖簾を分けると、踵を返し、主人に背中を向けて風のように消えていった。
このケツネコロッケのお銀がその白い腕で抱こうとしたものは、いかなる風景だったのだろうか。それを知る者は誰もいないのである。
そばは寒中でも冷い汁のもりそばが本格的であります。種物は冬の点景です。種物の種類も昔は花まきとか、玉子とじ位であったらしい。次第にいろいろ増加して来ましたが、あまり感心した物は出来ず、洋食屋さんや、シナ料理屋さんから移入したものが多いようです。天ぷら、合鴨等は金看板で別ですが、あられ、おかめ等はそば屋の優秀なる種物と思います。名称のつけ方といい、季節といい、寒中のあられ、酉の市時分のおかめといい、そば屋としっくりいたします。
「洋食屋さんから移入した」とは肉そばやカレー南蛮の類であろう。
麺類から目を転ずるなら、かつ丼を始め親子丼、開化丼、他人丼などの肉類は勿論のこと、タヌキ丼と称する「名称のつけ方」とも「季節」とも無縁な品物は決して珍しくない。
また、昨今では定食屋化の象徴でもあるセットメニューの定番、「そば定食」には副食にコロッケを出す店も少なくない。
しかし、立喰い以外に「ケツネコロッケ」を出す店は無く、コロッケを蕎麦の上に載せることもない。
なんとなれば、たとえ定食屋と見まごう店であれ、蕎麦こそは神聖不可侵の領域なのである。
確かに蕎麦屋は時代の嗜好に合わせて、和洋中華のいずれからも様々な素材や調理品を移入してお品書きを増加させてきたが、あくまでそのステイタスは「冷いもりそば」にかかっているものであり、蕎麦を盛ったタネモノの丼に載せることが許されるネタにも自ずと制約は存在する。
コロッケのような洋食の調理品、それもポテコロイモの如き安物を載せるなどいう暴挙は蕎麦屋の自己否定、自殺行為、人外魔境の地底獣国に他ならないのである。
これは蕎麦屋のみならず、客もそうであり、蕎麦屋も暖簾を潜るという行為は一抹の俳味禅味を期待する心理が働き、セットメニューの副食としてのコロッケは許せても、それを蕎麦にコロッケを載せるが如き下駄履きの日常性には耐えられないのである。
それが立喰い蕎麦屋で許されるのは、立喰いの空間が日本的メンタリティとは無縁な「路傍で簡便に食を満たす」という源初的かつ特殊戦後的空間であったからに他ならない。
コロッケというのはそもそも、異文化である。その異文化に日本の俳諧趣味の「景色」な「文化」の集合的である蕎麦になぜ載せたのか。
大正・昭和初期の日本は独占金融資本の優位が実現され既に、帝国主義の段階に突入していた。
大小の労働争議が頻出し、社会不安が高まりつつある一方で、生活文化においては市民層の意識の個人主義的傾向を中核として、主に知識層の女性たちによって生活改善が主張され、大正12年の関東大震災を契機に合理化による洋風化がされに促進されたのだった。
ミンチボール、コロッケ、豚カツ等の食品が一般家庭の惣菜として売られるようになる。
がしかし、常食としてのコロッケが急速に浸透したのは戦後のことであり、これには食生活の変化、わけても肉食の普及に与るところが大きいのであった。
精肉店の店舗数の拡大は日々処理される精肉(豚肉)から大量のラードをその副産物として生み出し、その有効的活用が所謂「肉屋のコロッケ」を生み出したのである。
昭和三十年代における「今日もコロッケ明日もコロッケ」的食生活は、これを単なる惣菜に留めず、むしろ副食物として捉える食習慣を生み出し、立喰い蕎麦屋においてもオニギリ、稲荷寿司に次ぐ常備副食物の地位へと押し上げていったのである。
それは日々の糧として食されるがゆえに、決して気づかれることのなかった異文化ー新たな文化の象徴的存在であったのだ。
ソバを啜りつつコロッケを貪る食事形態から、一歩進んでこれを丼に投じ、出汁に浸して食する形態へと移行する過程はもはや必然であったと言っても過言ではない。
いつ誰が何処でこれを実行したか、それを問うことは無意味なのである。
しかし、昭和の劇作家で俳優でもある一橋壮太朗のエッセイである『一橋壮太朗ありふれた生活15の巻 おいしい時間』のp117ではこの様に書いてある。
コロッケそばについて説明しましょう。
「コロッケの中身がそば」もしくは「そば粉で作ったコロッケ」と思っている人がいたら、大間違い。
それはコロッケではなく、そばコロッケです。
丼の中の、温かいきつねそばを想像して下さい。
そこからお揚げを取り除き、代わりにコロッケをのせてみましょう。
具は他には刻みネギのみ。
ワカメを入れる店もあるけど、あえてここはシンプルを極めたい。
かなりのシュールな見た目であることは否定しない。
そばの上にのっているコロッケの図は、かなりミスマッチ。
草履を頭にのせたお爺さんに、ばったり道で出会った時くらいの衝撃。
特に出来上がった直後は、そばと汁で構築された「そばエリア」と、その上の「コロッケエリア」がまったくかみ合わず、強烈な不協和音を奏でている。
それゆえ、すぐに箸をつけてはならない。
ここで食べてしまうと、単に、そばの上に誤って落としたコロッケを食するのと同じことになってしまう。
我慢して、しばらく待ってみよう。
すると丼の中に変化が現れる。
徐々に汁がコロッケに染み込んでいく。
コロッケは、コロッケであることを断念し、汁と馴染み始める。
待つこと二分。
ここでようやく箸を取る。
しかし、コロッケをつまんで、口に入れるような下品な真似は、くれぐれも、しないように。
この段階で食べてしまうと、それは単にそばつゆ味のコロッケを食べることになってしまいます。
まず、箸でコロッケをほぐす。汁を吸って軟らかくなっているヤツは、すぐに崩れる。
そして現状を留めないくらいにコロッケを細分化してから、初めてそばと一緒に口に流し込む。
これぞコロッケそばの醍醐味。
丼の中は、ほとんど阿鼻叫喚状態ではあるが、そんなことは問題外。
出汁の上品な味わいと、元コロッケの力強さと油こっさが奏でる見事なハーモニーを楽しむ。
東洋と西洋が口の中で融合するその瞬間、僕は、生きていることの幸せを感じずにはいられない。
コロッケそば、食べたくなったでしょ。
ちなみに僕はこれから、座って食べる形式の店で、天せいろを食べてきます。
このエッセイは1918年に出版されているためその前後には既に存在していたこととなる。
ちなみに、余談だが氏が1916年に脚本を務めた『真田丸』の第8話「調略」のおいては氏政の代名詞となっている“汁かけ飯”。飯に汁をかけて食べていた氏政が、途中でもう一度汁をかけたところ、父の氏康が「毎日飯に汁をかけているのに、一度で適量がかけられない奴が領主として民や家臣の気持ちを推し量ることができるのか」と学習能力のなさを嘆いたという歴史上のエピソードを
「先を急ぐな。食べる分だけ汁をかける。少しずつ、少しずつ・・・ワシの食べ方じゃ・・・、北条の国盗り、じっくり味わおうではないか」
と戦争のやり方と同じで、じわりじわりと攻めていく。
慎重に、確実に相手を負かしていくというキャラクターを表現する上で“汁かけ飯”を表現しており、これは氏のコロッケそばの食べ方から来ていると言われている。
犬飼喜一とタイムジャッカーの謎 ~足利義教は本当にコロッケそばを食したのか~
以上を踏まえて、犬飼はなぜ室町時代にコロッケそばなるものが存在していたかということを疑問視している。
『宗全記』という歴史的資料から疑う余地は少ないという点を鑑みてもである。
しかし、これ以上の研究は犬飼の死により行われることは無かった。
ただし、犬飼は研究を続けていたようである。
犬飼は『宗全記』に記された「金衣揚げそば」の謎を追い続けていた。
その調査の中で、奇妙な出来事が報告されている。
犬飼が『宗全記』の原本とされる巻物を調査していた際、記録とは到底結びつかない「現代的」な要素が発見されたのだ。
その巻物の端には黒いインクの痕が付着しており、精密な分析の結果、それが現代の印刷技術で使用される化学物質によるものだと判明した。
そして、その直後、犬飼が目撃したという奇怪な光景が、さらに事態を深刻なものへと変えていく。
犬飼が調査を終え、帰路につこうとしていた夜のこと。
薄暗い書庫の奥から低く響く足音が近づいてきた。
振り返った彼の目に映ったのは、懐中時計のような装置を手に持つ三人組だった。
黒い衣装に身を包み、冷徹で人間離れした雰囲気をまとった彼らの存在感に、犬飼は言葉を失った。
「この時代にこれ以上、踏み込むな。」
リーダーらしき一人が低い声で警告を発した。
言葉の意味を理解できぬまま、研究者は呆然と立ち尽くしたが、三人組の一人が懐中時計のような装置を操作し始めた瞬間、周囲の空間が奇妙に歪み始めた。
目の前にあった巻物の一部が溶けるようにして消え去っていく。
去り際に、三人組はこう言い残した。
「歴史は守られるべきではない。創られるべきだ。」
それ以降、『宗全記』の原本は失われ、この出来事が最後の目撃例となった。
当初、これを単なる怪談として片付けようとする動きもあったが、犬飼はこの事件を「歴史改変の兆候」と捉え、さらなる調査に乗り出した。
奇妙なのは、この出来事以降、『宗全記』に記載されている「金衣揚げそば」の記述が微妙に変化していたことだ。
それまで曖昧だった記述に、詳細な調理方法や献上された際の情景が加えられていた。
この変化が意味するのはただ一つ——何者かが意図的に歴史を改変し、その痕跡をねじ曲げたという可能性である。
犬飼はさらに、過去の目撃談や文献に奇妙な一致を見出した。
江戸時代に描かれた一枚の浮世絵には、懐中時計のような装置を手にする影のような人物が描かれており、その背景には当時存在するはずのない「コロッケそば」が置かれていた。
この不自然な描写は、誰かが意図的に「余計な一皿」を歴史に加えた証拠ではないかと考えられた。
やがて犬飼は「タイムジャッカー」と呼ばれる謎の集団の存在に行き着く。タイムジャッカーとは、時の流れに干渉し、歴史を改変する者たちだ。
一部の記録では、彼らが「時の王者」を生み出すため、特定の時代を改変している可能性が示唆されていたが、その正体や目的については謎に包まれていた。
犬飼が『宗全記』の写本を調べていたある夜、さらなる奇怪な出来事が起きる。
資料館の静寂を破るように、時計の秒針が大きく響く音が鳴り響いた。
しかし、そこに時計は存在しない。
その音の正体を探ろうとした犬飼が振り返ると、暗がりの中から三つの影が現れた。
「ここまでだ。この時代に干渉することは許されない。」
三人組の一人が冷ややかに告げた。
犬飼は驚きつつも問いかけた。
「君たちは一体何者だ?その装置は何だ?」
しかし、彼らは犬飼の問いに答えず、一人が薄く笑みを浮かべて言った。
「知る必要はない。ただ、この時代があなたにとってどうあるべきか……それは、我々が決める。」
その瞬間、時間が巻き戻るような感覚に襲われた。
犬飼が見ていた古文書の文字が消え、代わりに異様な記述が現れた。
「金衣揚げそばは、義教公が未来の技術を盗み取った証。」
犬飼は目を疑った。未来の技術——そんなものが室町時代にあるはずがない。
彼が抗議の声を上げようとする間もなく、三人組のリーダーが冷淡に告げた。
「歴史は固定されたものではない。我々はただ、歪んだ時の流れを“修正”しているだけだ。」
一閃の光の後、三人組は姿を消した。
犬飼の目の前には、白紙となった古文書だけが残されていた。
後に犬飼はこう語る。
「歴史は人々の記憶の連なりだ。しかし、その連なりがどこかで途切れ、無理に繋ぎ直された跡があるとしたら、それは誰かが意図的に歴史を『修正』した証拠に他ならない。」
タイムジャッカーの存在が残した歴史の歪み。
それは壮大な計画の一部なのか、それともただの偶然なのか。真実が明らかになる日はまだ遠い。
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この写真に映る3人組が『タイムジャッカー』とする説もあるが依然として明らかにされていない。
学会内外から「何ら学術的有用に足りぬ」言わしめたこの記述であるが、留意すべきはこれらの描写を一笑にする態度もまた真に学術的に足りぬ、ということである。
「それが事実であるかどうかは伝承の史料としての評価とは別問題であり、むしろこうした伝承を一定の共同体が維持し続けていることと意味を見落としてはならない」とは犬飼自身の言葉でもある。
ではこれらの言葉に共通する特徴ーー史料として評価に値するものは何か。犬飼喜一の研究は、伝承と史実の境界線を問い続けるものであった。
彼が追い求めたのは、単なる歴史的事実の再確認ではなく、むしろその「事実」が形成される過程で人々の記憶や意図がいかに働いたかを探ることであった。
そして、その記録に介入する存在がいるという仮説は、彼の研究にさらなる緊張感をもたらした。
多々良伴内が『暖簾の迷宮』で記したように、犬飼が記録した「タイムジャッカー」に関する記述は、確かに学術的観点からは怪奇譚の域を出ないものと見なされることが多かった。
しかし、犬飼の言葉には、そうした「荒唐無稽」とされる要素こそが、共同体が記憶を形成し、伝承を維持する力学を解き明かす手がかりであるという信念が込められていた。
「歴史とは、単なる事実の羅列ではない。それは人々の記憶が織り成す集合体であり、どの時代にもその記憶を守ろうとする者、そして改変しようとする者が存在する。」
犬飼は、そう語っていたという。
『宗全記』の「金衣揚げそば」に関する記述が変容したのは、その一例である。
かつては単なる献上品の記録にすぎなかったものが、詳細な調理法やその味わいに関する描写を加えられたことで、単なる歴史的事実から「物語」へと昇華された。
この変化が、人為的なものなのか、それともタイムジャッカーと呼ばれる者たちの干渉によるものなのかは定かではない。
だが、犬飼の仮説はここで終わらない。
彼は、「タイムジャッカー」の存在が歴史の中で幾度も目撃されてきた可能性を指摘した。
江戸期の浮世絵に描かれた懐中時計を持つ影の人物や、明治期の新聞に記された「時空を超えた旅人」に関する記述は、その一端に過ぎないという。
これらが単なる偶然の産物なのか、それとも時の流れに干渉する存在の足跡なのかは、未だ明らかではない。
一方で、こうした記録の信憑性に疑問を抱く者も多かった。
実際、犬飼の研究を批判する声の中には、彼の発見が「伝承という名の虚構に過ぎない」と断じるものもあった。
しかし、犬飼はその批判に対して次のように反論している。
「虚構であれ、事実であれ、その記憶が語られ、受け継がれる限り、それは共同体にとっての真実となる。そして、その真実の変容の裏には必ず、人為的な意思、もしくは力学が働いている。」
こうした犬飼の言葉は、単なる歴史研究を超えて、記憶そのものの性質を問い直すものであった。
特に『宗全記』に記された「金衣揚げそば」を巡る記録の変容が、どのようにして行われたのかを追う中で、犬飼はその背後に隠された「歴史改変の力」を探ることとなる。
ある未公開の草稿の中で、犬飼はこう記している。
「タイムジャッカーが歴史を改変する際、その目的は単なる出来事の修正ではない。それは、特定の時代の記憶に影響を与え、未来の出来事や価値観にまで作用しようとする試みである。『金衣揚げそば』の記述は、その象徴に他ならない。」
この草稿が公開されることはなかったが、そこにはさらに驚くべき仮説が記されていた。
犬飼は、タイムジャッカーの介入が「記録の改変」にとどまらず、「人々の記憶そのもの」に作用する可能性を示唆していたのだ。
それが事実であるならば、歴史とは固定されたものではなく、記憶の連なりそのものが改変の対象となり得る。
歴史の中に埋もれた「余計な一皿」——それは単なる過去の改変の痕跡にとどまらず、未来への伏線であるのかもしれない。
多々良伴内はこう締めくくっている。
「犬飼が追い求めたものは、単なる『そば』の謎ではなかった。彼の視線の先にあったのは、歴史と記憶の本質そのものだったのだ。」
犬飼が最期に残した言葉は今もなお、多くの歴史学者の間で議論を呼んでいる。
「もし歴史が何者かによって書き換えられているのだとしたら、私たちが今見ている世界そのものが、果たして本当のものなのかどうか……それさえ疑わざるを得ない。」
犬飼の問いは、未だに答えを得ることなく、時の流れの中で揺れ続けていると言えよう。