見出し画像

三鷹アサとは何者か──『チェンソーマン』第二部と藤本タツキの破壊衝動


『チェンソーマン』第二部「学園編」は、第一部とは異なる視点から物語が展開されるようになります。
その中心にいるのが、新たな主人公である三鷹アサです。
アサは戦争の悪魔であるヨルと肉体を共有し、チェンソーマンを倒すという宿命を背負った少女です。
彼女のキャラクター像は、物語において単なる主役に留まらず、現代社会や人間の葛藤を反映する象徴的な存在となっている…と思います。

以下では、三鷹アサを「メタファー」として捉え、彼女の持つ意味を掘り下げていきたいと思います。

アサとヨル 〜自己との対話とアイデンティティの葛藤〜

三鷹アサがヨルと肉体を共有するという設定は、「自己との対話」の象徴と言えるのではないでしょうか。
アサとヨルの関係は、互いに正反対の性格を持ちながらも切り離せない存在として描かれており、それは人間が抱える内面の矛盾や葛藤を表現しているのです。

アサの場合 〜現代の若者を描く〜

アサは自意識過剰で孤独に悩む、普通の女子高生だ。
15巻ではアサが恐怖している対象についてのモノローグが描かれています。

“他人が信用できないのに一人じゃ寂しくて・・・たまに人に近づくの・・・・・・そしたらいっつも悪いことが起きて・・・傷ついて・・・また一人になって・・・!”

チェンソーマン 15巻(前菜)より


「一人でいるのも他人といるのも怖い」という言葉が登場します。
この葛藤は、孤独への恐怖も他者への恐怖も学生時代の普遍的な悩みです。
孤独も他者も怖くないままに成長する人はいないでしょう。
その一方でジャンプ漫画のヒロインがこういった独白をすることは少ないのではないかと思います。
三鷹アサは両親を亡くしているというバックボーンがあります。

また、それだけではなく学校での孤立、さらにこうしたティーンエージャーの切実な悩みを持つ三鷹アサというキャラクターです。
その姿は、貧しい少年時代を過ごし、ポチタという愛犬(もしくは友人)を亡くし、チェンソーマンとして命を狙われほかの同世代のような生活を過ごせないデンジとも、そして貧困世代、さとり世代、草食系男子とも無敵の人とも呼ばれる新しい形の貧困に苦しむ現代の若者とも重なります。
この様にアサが抱える悩みは現代の若者も抱える人間関係や自己認識の問題を反映しているのです。

ヨルの場合 〜藤本タツキが描いてきたもの〜

一方でヨルは対照的に冷酷で支配的な存在です。
戦争の悪魔という名が示すように、彼女はアサの正義感や人間らしい感情としばしば対立します。この二人の対話を通すことで、チェンソーマン2部では内なる「弱さ」と「強さ」や「道徳」と「本能」のせめぎ合いを描いてるのです。

この構図は、藤本タツキ作品に何度も描かれ共通するテーマ「自己の分裂」を象徴しているのです。例えば『ファイアパンチ』におけるアグニの苦悩や、『ルックバック』で描かれる創作における自己矛盾とも通じる部分があります。

武器化能力と「他者を通じた自己定義」

ところで、アサの持つ「武器化能力」は、彼女が他者との関係性を通じて自分自身をどう定義するか、というテーマを象徴しているのではないでしょうか。
この能力は、アサが相手に抱く感情や罪悪感によって威力が変化するという特徴を持ち、彼女の内面を如実に反映しています。
アサは大切なものほど強力な武器を生み出せるという能力を持っています。
これは、他者を利用することで成り立つ自分の存在に対する葛藤や、他者を傷つけることへの罪悪感を如実に表していると言えるでしょう。

チェンソーマン2部が映すもの

この能力は、アサが社会や人間関係の中でどう振る舞うべきかという葛藤を、読者に投げかける役割も担っています。
彼女の行動や選択は、人が他者をどう捉え、利用し、傷つけるかという普遍的なテーマを浮かび上がらせます。
この点において、アサは第一部のデンジとは対照的な存在です。
デンジは動物的な欲望に忠実でありながら、周囲の人間関係を通じて成長していくキャラクターでした。

そこで第一部では、デンジの代わりに周囲のキャラクターが内面を掘り下げられることになります。
それぞれに重い過去を背負うアキや姫野が、地獄のような日々のなかで苦悩していました。
こうしたデンジと他のデビルハンターの違いは、意図的に対比として描かれたものでしょう。

すぐれたデビルハンターの条件として作中で何度も、「頭のネジがぶっ飛んでるヤツだ」と語られていたように、デンジは人間的な内面をもたないからこそ強いのです。
一方でアサは、他者との関係性に悩み、自分の価値や行動を内省的に捉える「思考型」のキャラクターとして描かれています。
鬱屈とした学園生活を送る女子高生としての三鷹アサ。
彼女はクラスメイトとの関係に悩み、恋人がいないことを卑下し、カップルに悪態をつく……。
という、デンジとは違ったどこまでも等身大の人間なのです。

考えれば第二部の1話の時点において、モノローグで明かされた「もうちょっとだけ 自分勝手に生きてみればよかった」という心情は、アサの人間性を象徴するものだったのです。
彼女の内面には嫉妬・劣等感・虚栄心などが渦巻いており、事あるごとにそれが顔を覗かせていました。

また、アサとヨルの関係は、現代社会が抱える分断や対立を象徴しているとも言えるでしょう。
アサはルールや正義を重視する一方で、ヨルは破壊と支配を象徴する存在です。
この二人の関係性は、人間が理想と現実の間で揺れ動く様を描いており、現代社会の縮図とも解釈することも可能なのではないでしょうか。

例えば、アサの孤独感や他者への不信感は、SNSやインターネットによって可視化された現代人の孤立を反映しているように見えます。
一方で、ヨルがアサを利用して自分の目的を達成しようとする姿勢は、システムや権力構造が個人をどう操作するかを示唆しているのではないでしょうか。

アサとヨルは創作者としての葛藤のメタファーなのか?

マキマ=林士平説

アサとヨルの関係を、「創作者」と「作品」の関係として捉えることもできます。
藤本タツキ作品においては、「創作」そのものがテーマとして繰り返し描かれてきました。
(『ルックバック 』、『妹の姉』はそのテーマが前衛化したものと言えるでしょう。)
第一部においては、それは主人公の上司であり公安特異4課のリーダーであるマキマが挙げられるでしょう。
自分の目的を果たすためには他人の命をなんとも思わないシビアさと同時に、デンジが一目ぼれするほどの女性的魅力を持ち合わせています。
劇中人物のみならず、読者である我々も、思わず「マキマさん」と呼んでしまうほど、圧倒的なキャラクターです。
しかし、そのマキマの正体は、内閣総理大臣と契約を結んだ『支配の悪魔』でした。
デンジにあえて公安の同僚(や敵)との愛や友情を与え、取り上げることで、人間でも悪魔でも魔人でもない「チェンソーマン」に心の傷を負わせ、支配しようとしていたのでした。

ここで、どうしても頭に思い浮かんでしまうのは、編集者と漫画家の関係性です。
言い換えれば林士平と藤本タツキの関係性とも言えるでしょう。
チェンソーマンであるデンジに、マキマは「私はあなたのファンです」と語りかけます。
「昔から先生のファンです」とか「私が先生の一番最初のファンということになりますかね(笑)」とかいった台詞は、編集者が漫画家を籠絡しようとする常套句ではありませんか。
また、伝統的に新人発掘を重視するジャンプでは、最初の持ち込み時に対応した編集者がその後の担当となります。
編集者が出世し、担当が変わっても、持ち込み時の編集者との親子や子弟のような関係性は途切れません。
(ここら辺は『バクマン。』でも描かれましたし、鳥嶋和彦と鳥山明や西村茂男と本宮ひろ志の関係性も同様でした。)

つまり編集者は、何者でもなかった漫画家志望の貧乏な若者に、愛と友情……というか普通の生活を与え、漫画を描かせるわけですよね。
漫画がヒットしたら、恋人を作らせ、クルマや家を買わせ、更に漫画を描かざるをえない状況を人為的に作るわけです。
漫画家(藤本タツキ)からみた編集者(林士平)は「支配の悪魔」そのものではないでしょうか。
や、あるいは、中間管理者兼プレイヤーであるアキが編集者で、マキマは編集長や漫画雑誌というシステムそのものの象徴なのかもしれません。
(『ジョジョの奇妙な冒険』ではDIOが、『鬼滅の刃』では鬼舞辻無惨がそうでした。)
これが普通の漫画家なら、他の雑誌や発表媒体に乗り換えればいいだけですが、「週刊少年ジャンプ」ではそうもいきません。
ジャンプでデビューした作家は必ず集英社と専属契約を結ぶ――専属作家制度があるからです。
つまり、それが「契約」なのです。

第二部ではどうだったか?


では『チェンソーマン』第二部においては、どう描かれたのでしょうか。
三鷹アサは「戦争の悪魔」ヨルと共に生きることを余儀なくされています。
この設定は、内面的な葛藤や分裂を描くだけでなく、「創作者」と「作品」という関係性を象徴しているのではないでしょうか。

特に、アサが「自分の大切なものを武器化する」という能力を持つ点や、ヨルという破壊的な存在と向き合いながら物語を紡いでいく姿は、創作者が内なる衝動や外的な制約と戦いながら創作を行う過程そのものに重なります。

さらに『チェンソーマン』第二部では、主人公デンジ自身が創作者である藤本タツキを彷彿とさせる描写が多く登場します。
個人的には「俺チェンソーマン描いてる藤本タツキだせぇ」と言いたい欲と戦うかのようなメタ的要素が垣間見えるのです。
以下では、アサを創作者のメタファーとして解釈する視点を掘り下げていきます。

アサの「武器化能力」と創作の本質

アサの「武器化能力」は、彼女が相手に抱く感情や罪悪感を引き金に発動します。
特に、大切な存在ほど強力な武器になるという設定は、創作における「自己を切り売りする」行為を連想させます。
創作とは、自分自身の経験や感情を原材料にして形を作り上げる作業です。
アサが他者を武器にする能力は、創作者が自分の人生や内面を原動力として作品を生み出す苦悩や葛藤を象徴しているといえます。
能力を使うたび、アサは大切なものを失う危険と向き合う場面が多いです。

それはまさに、創作が自己犠牲や内面の痛みを伴う行為であることを示しています。
また、アサがヨルとの対話を通じて自分の能力を制御し、成長しようとする姿は、創作者が自分の「作品」とどう向き合い、折り合いをつけていくかというテーマを描いているように見えます。

デンジと藤本タツキの重なり

一方で、第二部ではデンジが藤本タツキ自身を彷彿とさせる存在として描かれるシーンも印象的です。

たとえば、デンジが「俺チェンソーマンなんだぜ!」と言いたい欲望と戦う場面は、藤本タツキが
「俺がチェンソーマンを描いてる藤本タツキだぜ!!」
と言いたい衝動と戦うメタ的な要素を思わせます。
この自己言及的な描写は、創作者が自らの作品を通じて得た名声や自己表現欲求とどのように向き合うかを問いかけているようです。

また、「チェンソーマンってバレたらすげーモテちゃうから!」というデンジの台詞も、創作に対する欲望や虚栄心を皮肉めいたユーモアで描かれたものでしょう。
この描写は、藤本タツキ自身が創作者としての葛藤をデンジというキャラクターに投影しているようにも見えます。

デンジの「欲望に忠実である」というキャラクター性が、藤本タツキの創作スタイルを反映していると捉えると、彼の内面を垣間見ることができるでしょう。

アサとヨルと創作衝動

ヨルという存在は、アサにとってコントロールしがたい「創作衝動」の象徴ともいえます。
ヨルは自らの目的のためにアサを利用しようとし、アサにとっては厄介で破壊的な存在です。

しかし、そのヨルがいなければアサは戦う力を得ることができません。
この関係性は、創作者が内なる「衝動」や「欲望」と向き合い、それを作品という形で制御しようとする姿そのものではないでしょうか。
特に、アサが「罪悪感」や「大切なもの」を犠牲にして武器を作り出す姿は、創作が自己を傷つけながらも、社会や他者に向けてメッセージを発信する行為であることを暗示しています。

アサが自分の中のヨルを受け入れ、折り合いをつけていく過程は、創作者が自らの創作衝動を形にしていくプロセスと重なります。

アサという「創作者のメタファー」が示すもの

三鷹アサは、『チェンソーマン』第二部において創作者のメタファーとして機能しています。
彼女の武器化能力やヨルとの関係性は、創作に伴う葛藤や自己犠牲を象徴しており、その過程で描かれる成長は、創作者が自分自身や社会とどう向き合うべきかを問いかけています。

また、デンジというキャラクターを通じて描かれる「自己表現欲求」との戦いは、藤本タツキ自身が抱える創作者としての葛藤を映し出しているようです。
「チェンソーマンってバレたらモテるかも」という軽妙な台詞や、「俺はチェンソーマンだ」と叫びたい欲望と戦う姿は、現代の創作者が名声や自己顕示欲とどう折り合いをつけるかを暗に描いています。

最終的に、アサの物語が示すのは、「創作とは何か?」という問いそのものです。
彼女が自分の能力やヨルとの関係をどう受け入れ、どのように成長していくのか。
そして、デンジというヒーローとどのように対峙するのか。
それは、創作を通じて自己と向き合う藤本タツキ自身の挑戦でもあるのかもしれません。

『チェンソーマン』第二部は、創作にまつわる複雑な葛藤とその先にある可能性を描く、藤本タツキにとって極めてパーソナルで挑戦的な作品なのです。
また、アサが創作者として、ヨルという「暴力的で破壊的な衝動」をどのようにコントロールし、自分の人生や物語を紡いでいくかがテーマになっているように見えます。
アサが武器化能力を使い、現実の矛盾や恐怖と戦う姿は、創作者が自分の内面や外的な制約と向き合いながら作品を形にしていく過程と重なるのです。

三鷹アサが映すもの

三鷹アサは、『チェンソーマン』第二部における複雑なテーマを象徴するキャラクターです。
彼女の持つ「ヒロインらしさ」と「らしくなさ」の両面性は、作品そのものが持つ少年漫画らしさと青年漫画的な深みの二面性を映し出しています。
アサとヨルの関係は、自己との対話、人間関係の矛盾、創作の葛藤、現代社会の分断など、多層的なテーマを内包しています。

『チェンソーマン』が第一部で「欲望」による成長を描いたのに対し、第二部では「葛藤」と「思考」による成長を描こうとしている点が、物語の核となっています。

アサがどのように自分の内面やヨルとの関係性を乗り越え、成長していくのか。
そして、彼女がデンジとどのような関係性を築いていくのか。
『チェンソーマン』第二部の行方を見守ることは、現代における私たち自身の生き方を問い直すことでもあるのかもしれません。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集