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入学早々の葛藤[通信芸大日記2024.4.5]
いよいよ大学生活が始まっています。わたしはとてもこわいです。
何がこわいのでしょうか。
大学に入ることがそもそもこわいです。
たのしみにしてなかった? と、つっこみ担当の自分が言います。
わくわくする気持ちも、あるのですけれど……。
大学の何がこわいのでしょう。
そもそも学校がこわいです。
airUマイページをさまよって辿り着いた「はじめての共通科目」の事前課題の動画のひとつで、「指示に従って——」という言葉が発されました。
それは、難しいことはありませんという気遣いの言葉でしたが、
わたしは、何かに、誰かに従うのが、いやなのだと気づきました。
「いや」といってもだだをこねるようなものではなく、
心か意識かのそこそこ深いところがぴんと反応してしまうものです、
拒否反応とはこういうものをいうのでしょうか?
反応して、かたくなります。
体系立ったもの、閉ざされた環境、権威、
そういうものを目にすると、暗い紫色のものがもやっと胸に起こるようです。
大学に入学したことを、眠る前の布団の中で、早くも後悔しました。
説明会を視聴したことのあるシナリオ教室を思い出し、入ろうかなと思いました。
大学は、入った以上1年は学んで、そのあと休学しようかなと思いました。
課題とか、強制されるのいやだし。
わたしはいま書きたい小説があるのに、それをあとにおいて、テキストを読んだりレポートを書いたり、する生活がしばらく続くと思うと重い気持ちになりました。
大学生と呼ばれたくない。
どこにも根を下ろしたくない。
帰属する場所があることは、安らぎをもたらします。
それを「ぬるま湯」とも感じます。
どこかに収まるのがいや。
偉大な作家や漫画家の中にも、作品制作に関して学校で学んだ経験のない方がたくさんいます。
きっちりと学ぶことで、頭が固くなることに対する、恐れもあります。
けれどわたしは、何かを書きたいです。
もてるものをどうにかつかって書きます。
「もてるもの」をどんどんひろげていきたいです。
どこにも足を着けずに、はたして大きくなることができるのか。
根を張らずに枝葉を広げることができるのか。
感性だけで、自分の作品を高めていけるとは、思っていません。
それに、学ぶなら若いうち、
失敗するなら若いうち、
そう思って入学を決めたのでした。
学問をやってみたかったし。
ひとと出会いたいし。
新たなものに出会いたいのと同じくらい、
余裕ももっていたいけれど。
忙しくなるのはいやだけれど。
でも、やらないよりやるほうを選びます、
その毎回の決断の素として、家で過ごした通信制高校時代があります。
はじめは何をしていいかわからず、
というかしなければならないこと、したほうがいいことが目に映らず、
年度終わりに動き出し、
疲弊して、休息が1年になり、
やっと動き出すと、自分の歩み出す方向をはっきり言えと迫られて、
息を吸えない感覚がつきまとう1年、
何もしなかった、と感じる3年間。
何もなんてことは、腰を据えて思い出せば、まったくないのですけれど、
本当に、出会いや気づきがたくさんあったN高期間だったのですけれど、
色彩の乏しい期間がわたしの認識のうえでは高校の期間にあって、
今はその上にある、行動する時期なのだと思います。
そしてわたしは通信制大学に入ったのです。
1年で退学しようと思い、
それまでに、思い描いたものと最も近かった文芸コースの授業は受けたくて、
履修登録ページを開いたら、1年は4期しかないのに授業は5や6まであって、
1と2を同時に受けられたら4期に収めたけれど、隔期開講で不可能で、
6まで受けるために、2年やってもいいかなと思いました。
その後、「はじめての共通科目」の事前課題の動画を見たら、ふたたびすこしたのしみになってきて、
このさい4年、しっかりやろうかな、という気にもなりました。
大学のほかの生活があまり忙しくないので、4年で卒業できるかもしれないです。
でも先のことはわからないから、惹かれる授業はこの春期に取ってしまいたいのですけれど、
取りすぎて一つ一つに打ち込めなくなるのも本意ではありません。
大学生活の位置付けとして付け加えますと、
この4年でデビューするという野心的な目標を掲げるのも刺激的だなと思います。