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【幸せ】とは何か?


『シアワセニナリタ〜イ』
そのシアワセの中身はなんですか?

私がそれを深く考え始めたきっかけは、
子の幸せを願ったときでした。

今日は私の考える『幸せ』のお話し。
(前投稿の続きとしても読めます。)


幸せの種類

幸せは、絶対的幸福相対的幸福に分けられるそうです。(私の弟が早稲田大学で哲学のゼミにな参加しており、弟に教えてもらった内容です。不足や誤りがあるかもしれません。)

絶対的幸福

絶対的幸福とは、その人自身が感じる“幸せ”のこと。
例)
・美味しいものを食べたときの「美味しい〜!🤤」という気持ち
・好きな人と手を繋いだときの充足感 など

相対的幸福

相対的幸福とは、他と比べて物質・欲望などが満ち足りている状態のこと。
例)
・世の中には食べ物や着る物がなくて困っている人がいるのに比べて、恵まれている状態
・他の人のSNSではなかなか見ないような高級な飲食店に行って食事を摂る状態
・高校の同期の中で一番学歴や収入が良い状態 など


本当の幸せはどちらか

本当の幸せとはどちらか。私の読んだ本の著者先生や心理学者のインフルエンサーの方などの考えからすると絶対的幸福です。その方々は、それしか要らないと言っています。

現実問題との葛藤

絶対的幸福の重要性は確かに分かります。自分の気持ちが満たされることこそが真の幸せだと私も思います。

しかし、絶対的幸福しか要らない…つまり『相対的幸福は要らない』というのは、『他人と比べる必要はない』といえば聞こえはいいですが、お金(などの相対的幸福。お金が一番わかりやすいので以下お金で話を進めていきます。)がなくてもいいのか?と私は揺らいでしまいます。
たしかに、お金がなくても幸せそうな人はいます。実際、先生方は“お金はなくても幸せになれる”という主張で、そこは生育環境によるマインドの問題が大きいとのことです。

私の生育環境とマインド

私が揺らいでしまう理由は、“恐れ”と“贅沢”でしょう。

私は割と裕福な家庭に育ってきて「お金は幸せの要素」と親に言われてきました。
そのため貧困家庭を経験したことがなく、知らない=避けたい恐ろしい状態なのです。

また、良いサービスを受け(美味しいものを食べたり、マッサージを受けたり、素敵なところに泊まったり)、絶対的幸福を感じてきました。それは、お金という対価があってこそ、得られた幸福だと思うのです。
例えば、夫はインテリアが趣味で、家にはデザイナーズインテリアがいくつか…。デザイナーズインテリアは椅子で10万超えるものはザラにあります。しかし、夫はそのインテリアに絶対的幸福を感じるのです。(『他人と比べていい椅子を持っている』という気持ちではなく、夫はそのデザインの美しさに心から喜びを感じています。)夫のその気持ちにはお金が必要なのです。
だからこそ、“お金はなくても幸せになれる”は間違いでないにせよ、“お金があることで得られる幸せもある”と私は思っています。

私なりのマインドリセット、何が大切か

とはいえ、先生方の主張は心から尊敬しています。多分、先生方も“お金がなくても”と言っても極貧困の話をしているというわけではなく、“ある程度”の話なのだと思います。
先生方の主張を私なりに解釈すると、その“ある程度”のハードルを高めすぎて、自分の中の大切なものを見失うことはないんじゃないか、ということだと思うのです。

では、自分の中の大切なものってなんだろう。大人になると、色んな情報が混在するので、子どもの頃の私に聞いてみることにしました。

子どもの頃、当時の気持ちを強く思い出せるような出来事は何だったかなと振り返ると、それはあまりお金に関係のない出来事なのです。

母と二人で親子遠足に行ってどんぐりやイチョウを拾って服型のビニールに貼り付けてファッションショーをしたこと。
母の驚き喜ぶ顔が見たくて「ほんもののさんたさんより」と書いた缶缶を準備して自分の宝物を詰めて親の寝室の前に置いておいたこと。
そういうことが今でも当時の気持ちをありありと思い出せるような出来事です。大切な人との時間や大切な人のために過ごすことがきっと私にとって大事にしたいものなのでしょう。

前項に記述した『良いサービスを受け(美味しいものを食べたり、マッサージを受けたり、素敵なところに泊まったり)、絶対的幸福を感じてきました。』という経験と、今項の『大切な人との時間や大切な人のために過ごすことがきっと私にとって、とても大事にしたいもの』というのは矛盾しているわけではないと思うのです。
幸福にも濃さがあり、より濃い幸福感を短い自分の人生の中で見失わないことが大切なのだと思います。

つまり、あくせく働き大切な人との時間がなかなかとれない中で良いサービスをたくさん受けるより、稼ぎは“ある程度”でも大切な人との時間をつくる方が私にとっては幸福感は高そうです。
でも、疲れたときに冷たいビールが飲める!とか大好きな監督の映画を観れる!とかそういう幸福感も味わいたいので、結局はそこも含めた分の“ある程度”のお金が必要になると思います。
きっと“ある程度”は人によって程度は違えど、それは誰とも比べない幸せが得られるために必要なお金だけでよいのです。

“vs”でなく“and”で考える

マインドリセットした結果、自分にとって最も濃い幸福を与えてくれることを見失わないことが重要であると感じることができました。
しかし、“ある程度”分はお金が必要であるとも感じました。
「お金があることは絶対的幸福じゃないよね?じゃあ、それは真の幸せではないのでは?」とツッコミが入りそうですが、私は絶対的幸福vs相対的幸福ではなく、絶対的幸福and相対的幸福で考えればいいと思うのです。

大切なのは、絶対的幸福に限りなく重心を置いたつもりでバランスをとることだと思います。
言ってしまえば相対的幸福は、自分の存在や行動一つ一つにうまれる幸福です。着る服がない・食べるものがない人に比べれば、着るものがあって3食食べられれば幸せです。自分の価値観に合わせた相対的幸福で満たされることは必要なことだと思います。
ただ、仕事に忙殺されることが自分の人生に本当の幸せを運んできてくれるのか、他人と比べた幸せの先に何が待っているのか…ということを考えると、相対的幸福は“ある程度”でいいので、絶対的幸福に重きを置くべきだと思います。


おわりに

皆さんにとっての、幸せはなんですか?
そして、今、幸せですか?

ある程度”の相対的幸福と“たっぷり”の絶対的幸福。我が子の幸せを考えたときに、自分の中ではこのように幸せとは何か結論を出しました。

では、
“たっぷり”の絶対的幸福を味わうために、必要なものはなんだと思いますか?
それについて次回書いていきたいと思います。

(我が家の育児方針に意図的に知育ワードを入れていない話もそこに繋がっていきます。今回の内容には収まらずすいません。)

読んでいただいてありがとうございました。



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