そこに山があるから
山に登ると、普段は隠れている揺れる感情が現れる。
「そこに山があるから」
登る。この言葉に対して私は大きな誤解を孕んで接していた。事実として山があり、それを登る、頂上に行く、景色を見る、というが目的ではない。もちろん、それも一つの目的なのだけど、それだけではない目的が山を登るには存在する。
お店から徒歩20分のあたりに三角山がある。きれいな三角形だから三角山と呼ばれている(と思っている)。点名は「琴似山」であるが、耳なじみがあるのは三角山だ。初心者向けとして位置づけられている山で平均40分もあれば山頂へ到着する。標高は311メートル。
子供の頃はよく祖母と登りに行っていた。よくと言っても週に一度、祖母が遊びに来た時に必ずと言っていいほど登っていた。
そのころは花やキノコ、虫や木々など、見えるものに名前があり、知っているものから、祖母に教わるものまで、山には多くの情報と興味が存在していた。
中学生になってからは山に登ることは少なくなった。それは仕事をし始めて1年で山を登る回数が1回もないくらいにどんどん減少した。
地元に戻っても三角山は変わらず存在していた。地元に戻ってよかった点は、雨の匂いも草木の匂いも輪郭がはっきりしていることで、空の広さや色の濃薄なところも好きだ。
ふと三角山に登ろうと思った。最後に登ったのは高校生の時、初日の出を見るために友人と登ったきり、10年以上は登っていない。何も大変な道のりではない。そう感じていたのだが、異常なまでに体力が落ちていたことを思い知らされる。美味しいものを食べ、お酒を飲み、学生時代の体力はどこへ溶けていなくなってしまったのか。
息を切らしながら山頂へたどり着く。景色の良さは変わらず、ただ街の雰囲気は少し変化しているように感じた。
下山をしている時、自分自身を見つめなおす時間に遭遇する。山の中を見渡しながら、今の生活の満足度、そこまでいくためのプロセス。これから訪れるであろう節目。将来の住処の選択肢。あらゆる可能性とどれを目標に生きていくのか、それを考える時間が訪れる。息を整えて、変わるものと変わらないもの、変えるべきものと変えないもの、自分自身の生き方を少しでも胸を張って言えるように、好きであり続けるように、そんなことを山から改めて教わる。体力の減少と疲れも教わりながら。