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旅行記録 2024/08/26-山科

 朝起きて、台風が九州方面に逸れたことを聞かされる。なんと。それでは鈴鹿のほうへと泊まることができたではないか。旅館に連絡するのが一日遅ければ、あるいは予定通りに鈴鹿の山々を巡ることができたのかもしれない。そのことを悔やみつつ、ふと脳裏に閃いたものがあった。そうか。全てを巡る必要などない。どれか一つだけならば、一日で行って帰ってこられる。そんな丁度いい場所がひとつあった。それは、阿賀神社。別名は太郎坊宮ともいう。山科駅から琵琶湖線で近江八幡駅まで移動後、近江鉄道で太郎坊宮前駅へと向かえば到着する。
 そんなことに気が付いて、この日の目的地を山科から阿賀神社へと変更し、一日引きこもるつもりでいた翌27日に山科行きに変更しようとたくらんだ。
 が、少し遅かった。すでに時間は10時。ここから阿賀神社まではどんなに早く移動しても2時間以上かかる。よって予定は変更されず、当初の予定通りに山科の毘沙門堂へと向かうことになった。ここは、梨木果歩の小説「家守奇譚」、「冬虫夏草」に登場する場所。地下鉄東西線に乗り換え11時過ぎには山科駅に到着。この後は20分ほど歩いて、毘沙門堂へと到着した。この間一人も観光客とすれ違うことはなかった。

駅からまっすぐ道を通り、毘沙門堂へ

 仁王門から境内に入ると、空気が変わったことが感じ取られる。涼しい風が後ろから吹き、右方には弁天堂の文字と共に水の流れる音。しかしながら、この日は酷暑。境内一面は日向となって、来る人を拒むかのようであった。
 「冬虫夏草」では、ここに参拝し帰る人々の中にムジナが混じっていた。しかしながら季節によるものか、文中で表現されていた人混みは、残念なことにどこにもない。
 本来であれば毘沙門堂の裏の「輪王寺宮墓地」というところに強い関心を抱いていた。輪王寺宮は歴代で十数人ほどいるそうなのだが、その最後の輪王寺宮こそ、吉村昭「彰義隊」の主人公である北白川宮能久親王なのだ。
 この親王は彰義隊や奥羽越列藩同盟などで盟主として担がれた人物で、最期は降伏後近衛師団長として台湾出兵時に軍を率い、そして台湾で死亡した人物である。なんでも唯一外地で死亡した皇族ということで、靖国神社遊就館にて遺品などをも見たことがある。
 しかしながらこの場所に行こうと歩いてゆくと、そこには「墓地には関係者以外立ち入り禁止」の文字が。そうか、それではしかたがない。本来ならばまた別個に輪王寺宮墓地が存在していて、そこには入ることができるのだろう。しかしながら、うだる暑さに気もそぞろになっていた僕たちは、今すぐに入ることができないならとすっかり諦め、疎水沿いに駅へと下っていく。

山科疎水

 8月26日午前12時
 一度、山科から東西線で東山へと出る。そこの駅近くのうどん屋で昼食の予定だったのだが、あいにくとそこは既に行列。どこかほかの店を探そうと、古川町商店街を抜け南下。はじめは軽く中を覗くつもりであったのだが、丁度その先へと見えてきた大きな枝垂れ柳に興味をひかれ、ついに商店街を通過。一本橋を往復し、そのまま東大路通へと出る。そう言えば、ここの白川であれば川遊びをするに最適であろう。京都は鴨川・白川と溺れる心配なく川遊びができる場所があるのだから、良い街ではないか。それに引き換え、東京多摩では落合川など一部の場所を除いては基本的に多摩川一択。ほとんどの場所が水深1m以上あるので、常に気を配っていなければならない。だから基本的に遊ぶことのできる範囲は狭く、常に周りの様子、自分の様子に気を配っていなければならない。それに引き換え、これらの川のなんと安全なことよ。
 八坂神社を通り過ぎ、さすがに空腹を覚え始めていたころ丁度見つけたカレーうどんの店、味味香というところに入る。一階にあったカウンター席には2人連れが一組しかおらず、これ幸いと入店。腹を満たして再び炎天下へと出る。
 そして御陵衛士屯所跡や維新の道を横目に見ながら歩き、僕たちはこれまで来たこともないような場所を目指す。そこは、清水寺。観光客で常に埋まっているといわれる観光名所だが、今はちょうど台風が接近してきている。ならば、危険を感じた者たちは外には出てこないだろう。現に、昨日の雨はすさまじいものであった。大雨・雷雨への恐れが今日の外出に影響を与えていることを期待して、僕たちはあえて、普段は絶対行くことのないであろう清水寺という名所へと足を運ぶことを決意した。
 その決意は、二年坂に入ってすぐに脆くも砕け散ろうとしていた。僕が当初予想していた人混みの、何倍も大きな集団がいくつも、道を占拠している。もとよりそこまで乗り気ではなかった僕は、たちまちにしてその決意は萎み、踵を返して別の場所へと行くことをも真剣に考えた。しかし、父に言わせればこの人数は少ないほう。過去に来た時よりもはるかに歩きやすいという道路を、人だかりができている道路を歩きながら、僕は諦念にも近い感情を抱いた。おそらく、どうしても清水寺に入らなければならないのだろう、と。人混みがあれば、できれば避けたかったのだが。
 そんなことを思いつつ清水坂を何とか登り切り、清水寺仁王門を潜る。辺りから聞こえてくるのは一切合切が外国語。後から先までで、日本語を聞いたのはわずかに2,3回にすぎなかったともいえる。正直言って、このまま帰ろうと思っていた。轟門から中を覗き込めば数多の人影があり、また酷暑の中人混みにもまれて歩くというのは絶対に経験したくなかった。しかし、父は言う。人がたまっているのは手前だけ。だからだ大丈夫だ、舞台まで行けば広くなっているのだから人口密度は減る。その言葉に影響されて、引き返そうとしていた足をふたたび引き戻す。
 予想を裏切って清水寺は涼しいものであった。あの有名な清水の舞台にも立ち(高所恐怖症気味の僕は下を覗き見る勇気がなかった)、自然と僕の視線は山の奥に立つ塔に向けられた。どうせならば、あそこにも行ってみようではないか。そう協議しようとしたのも束の間、僕と父の視線は、その塔の下でうごめくたくさんの人影に移った。さらに視線を転じれば、音羽の滝のところにも行列ができており、さらには道なりに釈迦堂、阿弥陀堂と列が作られているのも目にした。

—やめようか—―—うん、やめよう―
以心伝心。僕たちはくるりと背を向け、足早に歩み去ることにした。こうなった以上、今日の三番目の目的地にもたどり着けるかどうかわからない。人混みが少ないと思っていたが、この分ならば帰りもまたあの長蛇の列に阻まれてしまうのかもしれない。通るのが、清水坂に比べれば人気が少ないらしい茶碗坂であろうとも。
 さて、ここでこの日家を出る時に決めていた予定について、書くことにしよう。まずは冒頭にもあるように、「冬虫夏草」の舞台めぐりとして山科の毘沙門堂へ。次いで、清水寺。そして、その足で六波羅蜜寺へと足を運ぶ。この六波羅蜜寺は六波羅探題の設置された場所であり、それと同時に平家物語に登場し、平家一門の本拠地である場所でもある。その故か、ここには平清盛公の像が収められているというのだ。
 平家物語を好んで読んでいた僕にとってはとても魅力的な場所だ。僕がそれを初めて読んだのが、小学5年生の頃か。現代語訳されていたもののためとても読みやすく、なおかつ著者が吉村昭ともなれば、いまでもときどき手を伸ばす。
 昨年も厳島神社などを巡り、平清盛公像を見たり、また大原の寂光院にも行ったりした。これらは物語の初めに登場する場所であり、一番終わりを飾る場所である。そんな、平家一門の全盛期の本拠地であった六波羅蜜寺へと赴くのはとてもよい案であると思われた。
 人混みをかき分け茶碗坂を降りきる。その際に生じたミスで道を間違えてしまったが、それはそこまで悪い結果をもたらさなかった。それどころか、とてもよい場所へと僕たちを導いてくれたのだ。
 東大路通から松原通りを西進していくと、途中の右手に寺が見えてきた。入り口には「六堂珍皇寺」とあり、看板には「冥土通いの井戸」とある。もしかすると、ここはあの小野篁にゆかりのある場所ではなかろうか。
 そう思って境内へと進入する。やはりというべきか、右手側には閻魔像・小野篁像などを納めた建物がある。ということは、例の「井戸」もあるはずだ。そうして探していくと、靴をお脱ぎくださいの文字と共に格子窓が見つかった。そこから覗くと奥は庭園となっており、そして、しっかりとした井戸があるではないか。あの井戸に入れば、地獄へと行けるのであったか。しかしながら立札を見ると、この対となる「黄泉がえりの井戸」のあった寺院は明治時代に廃されてしまい、その時に井戸も取り壊されてしまったのだとある。つまり、これはまさしく地獄への片道切符というわけだ。
 そもそも基本的に、地獄へと行って帰ったと伝わる者は世界を見渡してもあまりいないように感じる。僕の知っているところでは小野篁や、神話上ではオルフェウス、ヘラクレスなど。あとは、オデュッセイアにも似たような記述があったか。しかしながら。そもそも「冥界」の名が示すように、死とは「冥」ものでなければならない。行って帰ることはできない、それが前提なのだ。だから廃仏毀釈によって帰りの道が破壊されたことは、結果としてよかったのではないだろうか。
 そんなことをつらつらと考えつつも、寺を出たあとあるところで左へと折れ、そこで足を止める。そこが、平家の本拠地であった六波羅蜜寺だ。この日はそこまで人がいないのか。令和館というところが宝物殿であるというので、入場券を購入後すぐさま入館する。そこには父の言っていた清盛像や、あの有名な空也上人の像も。あの、口から6体の小さな像が飛び出しているものだ。それらを見て十分満足したころに道路へと出て、そのまま次の目的地へと向かう。そのさなかに懐かしい名前を見かけた。幽霊の子育て飴。年少のころ好んでいた話で、いまでも図書館で読み聞かせをしてもらったことが記憶に残っている。その舞台(?)となった飴屋がどうやらここらしい。京都はこういうところがいい。歩いているだけで自分の知らなかったものたちに出会える。東京では、こうはいかない。

 そうして松原通を突き抜け、大和大路通に出る。ここをしばらく歩くと、右手に寺が見えてきた。狛犬の代わりに、猪の像がある。何とも珍しい。狛犬以外の動物がいるのは、狼が狛犬の代わりに居る御嶽神社と同じか。猪に所縁がある場所なのだろう。興味をひかれたが、残念なことに今は急いでいる。そのまま直進し、団栗通との十字路付近にてやっと目的の店へとたどり着く。そこは以前京都付近の地理を調べていたときに見つけた和楽器店で、かなり雰囲気のよさそうな店。幸い開いている。
 一度足を踏み入れてみて、驚いた。一面には琴や三味線などが置かれ、調律を待っている。また別の棚にはなんの楽器のためのものなのか、楽譜が所狭しと並べられている。非常に雰囲気が良い。そしてまた、店長も良い人だった。ここで、4,50年前の篠笛の教本を購入。こういったものはおそらくもう販売されていないのだろうから、かなり嬉しい。ところで、この店主は外国人が突如入ってきて話しかけてきたときにも、落ち着いて会話していた。驚いたり、尻込みしたりするようなところはかけらもない。これが、祖母の言っていた「京都のおばちゃんたちは身近で聞く英語などをすぐに覚えてしまう」ということなのか(話の内容としては、店にあった時計が珍しいからか撮影したいというものだった)。満足して、店を出る。

件の楽器店。メインは琴や三味線だとか

 この後もいくつか店を回り、戦利品を獲たうえで帰宅。僕の得たものとしては、たとえば一冊の分厚いマンガ。烏丸御池近くの洋書コーナーを眺めていた際、目に入ったものだ。題は、「Japan's longest day」。奇しくも、僕が京都に来て読み始めた「日本の一番長い日」の英語版である(以前このタイトルをもじったという栗本薫のグインサーガ「ゴーラの一番長い日」を読んでいたため、タイトルは数年前から知っていた。)。しかも漫画家は星野之宣。わが家で好んで読まれている「宗像教授伝奇考」などの著者ではないか。値段はそこそこしたが、購入。この日に散財した金額を合計するとおそろしくなってしまう。明日からは、もう少しだけ金銭感覚をしっかりともち、財布のひもをきつく縛っておこう。そう考えた。

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