パンダの皿
5月の文学フリマの新作のテーマがパンダだったので家にあったパンダの平皿を持って行った。
こちらである。
ときどき古物屋とかフリーマーケットとかに顔を出すのだが、たまに「これだ!」というものを見ることがある。
根津でみつけたこのパンダの皿はまさに「これだ!」というやつであった。
ちなみに「これだ!」の自分のなかでの選定基準はよくわからない。
いままでの「これだ!」という品物は、宇宙飛行士のウサギとスプートニクっぽい人工衛星が描いてある子供用の茶碗とか、「一杯で満腹多楽福麺」と皿の内側に書いてある割にはこぢんまりした大きさのラーメンどんぶりとか、たいていロクなものでないのはたしかである。
ロクなものではないのだが、そういうものは、見た瞬間に某お宝鑑定番組よろしく、頭の中で銀河万丈さんの渋い声で以下のような説明が流れたりするのである。
依頼品を見てみよう。
パンダの平皿である。
銅板に丁寧な手仕事で打ち出されたつぶらな瞳のパンダがなんとも愛らしい。
二足歩行のパンダがみせる素っ気ない表情はどこか愁いを帯びているようにも、何かを訴えているようにも見える。
パンダが指さす先にあるのは、豪快に打ち出された「パンダ」の三文字。
どこからどうみてもパンダであるにもかかわらず、自らがまがいもないパンダであることを示すかのような意匠は見る者の心をひきつける。
表にも裏にも銘はないため作者はわからないが、子供らしさのあるパンダの姿から想像するに、いずれかの名人の幼少期の作品であろうか。
はたして、鑑定やいかに!
おーぷんざぷらいす!
いち、じゅう、ひゃく。
値段は100円だった。
このお皿、根津のがらくた屋なのか服屋なのか、とにかく何屋だかよくわからない店の軒先のワゴンセールで100円で売られていたという代物なのである。
店主なのか、店員なのか、貫禄のあるマダムに100円を払ったとき、これはこのマダムのお孫さんかお子さんが作ったものなのだろうかとも思ったのだが、あえて出所は聞かないでおいた。
店主の親類が学校の授業で作らされたものを、私が100円で譲ってもらったというストーリーでは、体のいい厄介払いになってしまって悲しい。
それよりもどこのだれが作ったのかわからないものに、この店主のマダムがわずかながら価値を見出して仕入れ、そのマダムがつけた100円以上の価値を私が見出した末に、私の手元にあるという方が、なんとなく気分がいい。
真相も真贋も値段も価値も、私にとってはどうでもいい話である。
別によそへ転売するわけでもないのだから。
現にパンダの平皿も「パンダはパンダだ」と言っているようにも見える。
それ以上でもそれ以下でもない、自分が自分であることを示す意匠。
見れば見るほど奥深い。
単に自己紹介しているだけなのかもしれないが、ここは奥深いことにしよう。奥深いのだ。うん。
このパンダの平皿だが、文学フリマでのお披露目では、ありがたいことに何人かのお客様にお褒めに預かった。
上野にほど近い根津のワゴンの片隅に埋もれていたパンダは、ここに来てようやく客寄せパンダらしい力をわずかながら発揮したようである。
よくよく見るとちょっと誇らしげな顔をしているような、していないような。
あるいはこの皿を見出した私の心を映してのことかもしれないけれど。