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(追記)ミテコがアーヤ人形を使った目的は昭和天皇への心理戦兵器?浩宮さまが葉山行きに不在の理由は?
赤門ネットワークさんのA宮人形の件。
ラブのママさんの記事に端を発し、ブルーサファイアさんに拡散していただいたり、エトセトラジャパンさんでの「結論」までたどり着いたこと、本当にうれしく思っています。
赤門さんにはぜひ、A宮DNA鑑定を要望する理由に値するものとしてできる限りの確認をしていただきたいし、
ラブのママさんではさらに:
>でもそれだけではないらしい、別の思惑の情報が読者さんから寄せられました。
それは、礼宮人形は香淳皇后への当てつけ、というものです。
過去、香淳皇后がお子様を生んですぐに亡くし、悲しんで人形を抱いてたことを知ったミテ子が、当時の香淳さまの様子を再現しあてつけたのではないかという説です。<
☝昭和天皇后である良子(ながこ)さまが赤ちゃんを病気で亡くされた後、悲しみのあまり同じ重さの人形を抱いておられた(TT)
( •̅_•̅ ) はい。
私もミテコならば相手のもっとも深い傷を狙うことをしただろうと思います。
そして、こちらエトセトラジャパンさんへのコメント情報と合わせたとき:
>エコーなどのない非侵襲的検査方法の未発達だった当時は、胞状奇胎発覚後、それが癌になる危険性のある臓器で、生存してゆくのに不可欠でないならば、とにかく予防的にまずは切除すべきという外科万能主義が婦人科でも支配的でした。見て子さんが、胞状奇胎に罹患後に、文仁を産んだことそのものが意外な話、まさかのエピソードだったのです。
文仁は「子宮全摘された女性が、全摘後に産んだ子」となる
ので、疑われても仕方がないわけです。<
(ㅎ_ㅎ) あの人形は、次男を捏造したミテコが昭和天皇皇后両陛下を黙らせる心理戦の兵器だったのではないか。
そんな考えが、心をよぎりました。
心理戦とは、相手に対して明らかな敵対行動をとらず、もっぱら心理のかけひきで行なう戦いや競争。(コトバンク)です。
じつは子宮全摘出で子どもが産めなくなった、少なくとも産みにくくなった自分を国民や他皇族には隠しつつ、皇太子妃としての立場を万全なものとするため、お世継ぎのスペアもちゃんと産んだとして、妹の子を「次男」として据えた。
これは、天皇・皇族は、養子をすることができない(皇室典範第9条)を破る行為。
許されないことです。
昭和40年、当時の昭和天皇ご夫妻はまだまだお元気で、ミテコがいくら隠しても、忠実な侍従たちがその事実を伝えたはず。
なのに、なぜこんなことを許したのか?
真相を知ったのが、既成事実を作られた(妊娠・次男誕生報道された)後で、どうにもならなかったのか?
将来天皇になる事はまずない「次男」ということもあるけれど、
>1963年(昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ[24]。1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同年3月10日の香淳皇后の還暦祝いを欠席し、同11日に小山いと子が美智子妃の生い立ちを書いた、雑誌『平凡』連載の小説『美智子さま』の連載と単行本発行中止を宮内庁が平凡出版に申し入れ、連載は中止された[25]。直後の3月22日に宮内庁病院に緊急入院、胞状奇胎と診断され翌23日の午後に流産の処置手術が行われた[25]。<(ウィキペディア 上皇后美智子)
☝☝(¯•ω•¯) いやはや、胞状奇胎になる直前だけでも「週刊誌問題」とか「香淳皇后の還暦祝い欠席」とか。
しかも「ミテコ本出版が宮内庁によって中止された」直後の「胞状奇胎で緊急入院」からの「流産」。
めっちゃモメモメしてるやん。
(追記その1:
下のコメント欄にラブのママさんが書かれた「本当に胞状奇胎だったのか?」について。
私も当時のモメモメぶりから、ミテコ得意の敵を黙らせる必殺技「詐病」が頭に浮かびましたが、なぜ胞状奇胎だったのかまで考えが及ばなかったため、あえて書きませんでした。
でもそう、中絶をする「仕方ない理由」が必要だった。それは言えるかもしれません。
でもでも、胞状奇胎にしてしまえば、どうしても子宮全摘、または第二子妊娠出産が難しいイメージがついて回る。そこまでは思いいたらなかったのか?という疑問も、、
追記その1終わり)
なにはともあれ「子供を失った」ミテコが、香淳皇后の最も深い哀しみを利用して
(๑👁д👁๑)「私も同じ」
(๑👁д👁๑)「悲しみのあまり代わりの子が必要な私の気持ち、あなたにはわかりますよね?」
という情に訴え、次男捏造を呑み込ませた。
その三か月後の葉山行きの人形は、他のさまざまな理由があってアーヤに仕立てられたものではあるだろうけれど、皇室内で準備した人形だということは昭和天皇皇后両陛下の耳に入るに違いない。
人形は、香淳皇后の悲しみを思い出させる。
ミテコの次男捏造を許してやろうと憐れみ、許してしまったことも思い出させる。
あの人形は、捏造した次男アーヤを両陛下にこれからも認めさせる、心理戦の兵器だった。
そんなことを思いついたわたくしです。
(追記その2。
あと、どなたかも触れておられましたが、あの葉山行きに、なぜ長男の浩宮さま(当時6歳)が同行していないのか?という謎。
私もその疑問を抱えつつ、でもたまたま写真に写っていなかったとか・・などとアヤフヤな立場だったのですが、
エトセトラジャパンさんが掲載された「原宿駅に到着し、車から降り立った一行の写真」を見て、さらにその説明文Crown Prince Akihito, Crown Princess Michiko, Prince Fumihito are seen on arrival at Harajuku Station on their way to Hayama Imperial Villa on March 26, 1966 in Tokyo, Japan. (Photo by The Asahi Shimbun via Getty Images)
にもPrince Naruhitoつまり浩宮徳仁さまの名前が無いことから、この葉山行きには初めから浩宮さまは参加していなかったことが確認できました。
で、ミテコ夫婦は人形に”生後3か月のアーヤ文仁”を演じさせてまで葉山行きに連れ出しながら、
なぜ浩宮さまだけは同行させなかったのか。
( ᯣ _ ᯣ )私はこれは
・6歳の浩宮さまが賢くも純真に「どうして人形を持っていくの?」とか、「どうしてお母さまは列車で人形を抱いて写真にうつってるの?」という質問発言をするとヤバイから。
・そんな浩宮さまにはもれなく濱尾侍従がついてきて、人形のこともだけどアンザイとのやり繰りを直に目撃されたらマジでマズイから。
だったのではと考えます。
ミチコブームで踊らせているバカな国民に、報道写真の人形はわからないだろう。
だが、昭和天皇皇后両陛下には、人形をナマで見た関係者から人形工作のことが伝わるだろう。葉山アリバイの裏でアレコレやってることも伝わるかもだけど(例えば赤ちゃんを奪われ心乱れて何を言い出すかわからない妹をなだめるためにフミヒトと過ごさせているとか)、昭和天皇に目をつぶらせるには、皇后の最も深い悲しみをえぐりミテコへの憐れみを思い出させる「人形」が一番効果的・・
そんなことだったのではないでしょうか。
追記その2終わり)
本日のタイトル画像は、ウチの庭に咲いたストックの花。こちらアメブロで花言葉なども紹介しています: