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わたしの姿は借り物でそして愛おしい

このブログ、もう何回も書き直していて
消しゴムカスが見えるかもしれません。

伊豆大島の荒野の砂漠で・・
ふと思ったのは・・
「自分の姿は借り物」
というものでした。

なぜ借り物なのかと思って
いたのですが
友達が撮影してくれた
この写真を見ていると

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わたしの魂は別にあって、わたしはこの体を借りて生きてるんだ
というのがとっても良くわかったのです。
そして、広大な大地に横たわる己の姿を見て
「なんかちょっと愛おしいなぁ」と思ったわけです。

こんな小さな体に色々詰め込んで申し訳ないとか
今書いていても涙が出そう。
私の見る景色とか言葉や人との関わり合い
仕事など・・
いろんな感情含めて魂のなせる技で
こんな体にそれを時として強いてるのは
偲びないなと思って訳です。
あー去年の鬱だった時のこともそうだ。
わたしはもう色んなことを諦めていたっけな。

自分を大事にとかいうけど
そんな簡単な言葉じゃなくて
借りてる体をおもえば
いとおしく思えばいいと思う。


去年の丁度今、私は心がポッキリ折れてしまい
そのまま年が明けて
わかったことは
「自分が知りたかった世界って”無”だったんだ」という
衝撃の事実でそれを分かってしまったがゆえに
仕事やその他もろもろ全て手放したわけです。

もちろん手放した分、流れ込んできた数々の幸せも
ありますが
それでも、「生身の人間をやり直す」みたいなことは
とてもハードでした。

ともすればとても孤独だし、不安だし
どうなってしまうのかすらわからなかった
こともありました。

丁度1週間前になるけれども、伊豆大島へ行って
東京砂漠をあてもなく歩き回り
もしかして、私が”無”だと思った答えが
見つかったような気がしたのです。

それは、孤独というのは自由で
魂は自由なんだと。

生身の体があるばっかりに
私たちは色んな感情を体にインプットしてしまうのだけど
本来魂って別もの。

椎名林檎さんと宮本浩次さんが
「獣ゆく細道」で歌っている歌詞で
命に触れた3つの歌詞があって

悴んだ命でこそ成し遂げた結果が全て
孤独とは言い換えりゃ自由 黙って遠くへ行かう”
”幸か不幸かさえも勝敗さえも当人だけに意味がある・・”

なけなしの命がひとつ どうせなら使い果たそうぜ。
悲しみが覆いかぶさろうと抱きかかえて行くまでさ”

”借り物の命がひとつ 厚かましく使い込んで返せ
さあ貪れ笑い飛ばすのさ
誰も通れぬほど狭き道を行け”


わたしは歌詞の中の

悲しみが覆い被さろうとも
抱き抱えて行くまでの光景をふと
頭の中に描いて
ぎゅっと悲しみとやらを胸に抱いてきゅっと歯を食いしばって
あの砂漠をテクテク歩く自分を思い浮かべて

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あの体におとしこまれている
なけなしの命を使い果たすって
借り物の命を使いこんで返すって
本能で生きることなんだと。

で・・そんな気持ちで改めて
大地に寝転がる私を見つめていると
やはり・・愛おしいなぁと
思いました。
あー頑張ってんだと思ったし
今日とあるワークショップに参加して
「無の話」をしこたましたときに
シェアした方の一人が
「アメリアさんは乗り越えらえることを知ってるんですね」
って言われて、そういえば
このブログを書いた時も友達が
「あなたには自動再生装置がちゃんとついてる!」と
コメントを戴きました。


無の話がなぜそれに繋がるのか
私は良くわかってないのだけど(笑
同じことを二人の方に言われたので
そこら辺は間違いないと思います。
わたしの魂はやはりそんな私を見つめては
「こんな体のどこにそんな装置がついてんだろ。
すごい奴だ」とか思ってるのです。
やっぱりそれでいて、愛おしいなと思って(笑
そりゃ食べても食べても太れないよな。
だって、エネルギーが間違いなく他に使われているんだもの。

だからこそ、私は自分自身を守ってあげられなかった時に
もうどうしようもないくらい
悲しみを背負ったりするのです。

なけなしの命を使い果たして
借り物の命を使い込んで返して更に
悴んだ命でこそ成し遂げた結果が全てだから。
孤独であってもそれは自由だから
悲しみが覆いかぶさっても、そんな自分ですらも
抱きかかえて行くのだと。

愛おしい自分だから。
わたしは最後まで使い込んで使い果たすのだ。
最後私が死ぬときは、きっとこの小さな体に
心から感謝すると思う。

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