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ジャーナリングを心象スケッチと呼ぶことにする。

宮沢賢治が自費出版した『春と修羅』の表紙には、
「心象スケッチ」
との表記があります。

賢治の認識では、『春と修羅』は ”詩集” ではなく、
「心象スケッチ」です。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

宮沢賢治 『春と修羅 序』より抜粋

『春と修羅』は序文から何言ってるかよく分からないですよね。

昨日の記事で「書く瞑想」のことを書きました。

賢治の心象スケッチは、そのまま、瞑想ー自己対話によって書かれた文章だと思っていて。


こちらも賢治が唯一出版した童話集『注文の多い料理店』の序文です。

これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。

 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。

 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。

 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。

『注文の多い料理店 序文』

賢治が自然からもらってきたもの、それはすなわち、
賢治が自然の中で、生活の中で、
見て、触れて、心で感じたものを素直に表現した言葉たちです。

心の声に耳を澄ませて聞こえてきたもの。
頭で思考したものではなく、流れてきた感情を受け止めて表現した言葉たちです。

「書く瞑想」と似たようなところがある、
と、昨日の記事を書いていて思ったのです。

賢治自身の体と心を通って出てきたもの。素直な言葉を紡いだもの。

賢治の創作のやり方は、そのままジャーナリングの手法そのものだと思ったのです。

だから、『春と修羅』が分からなくていいんです。
それを書いた賢治自身が分かっていればいいんです。
分からないということが分かればいいんです。

ジャーナリングで書かれた言葉たちも、
私が理解していればいい。自分自身で理解できないところも、理解できていなくていい。

だから、私のジャーナリングは心象スケッチだ。

そんなことを思うと、
日々の感情ジャーナルを積み重ねていけば賢治の感性に近づけるかも。

………と言うのもモチベーションになるじゃん。

……………………って昨日気づきました。

これもまた、心象スケッチです。


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