最初の読者である編集者が読む-1「現代建築家宣言」|若林拓哉(『建築ジャーナル』連載)
編集者というのは著者でもないし、デザイナーでもない。
ちっぽけな存在だと自認しているが、
一番初めの読者で、その記事を誰よりも愛する人であることは確かだ。
というわけで、編集担当している連載を、一ファンとして勝手に推していきたい。
(文中の私の毒舌や見解は著者とは無関係であることを先に断っておく)
まずはじめに紹介する連載は、「現代建築家宣言」だ。
「現代建築家宣言」は、
建築界のこの底知れぬ閉塞感と、夢のなさを肌身で実感する平成生まれの
20代建築家が、それでも建築に希望を見いだす術を模索した痕跡。
である。
ではその20代建築家「若林拓哉」とは何者か?
「論」であるため、文中ではあまり個人的な事情、具体的な建築に触れないという方針になっているので、ここで少しご紹介したい。
プロフィール
1991年生まれ。建築家。芝浦工業大学大学院建設工学専攻修了。
ウミネコアーキ代表
文中にあるように、「社会人として飛び立つまさにその時、そこに理想とする建築家の姿はなかった。仕方なく、私は彼らが生きる社会も、建築家も、選ばないという選択肢を取った。それから現在まで、フリーランス兼設計事務所協同というかたちを取っている」。
代表であるウミネコアーキとしては、「―Green, Green and Tropical―木質時代の東南アジア建築展」のキュレーションなども手掛けたり、「KANDA MUSEUM」の館長でもあるらしい。(HP参照)
この「設計事務所協同」の設計事務所は、つばめ舎建築設計事務所である。
つばめ舎といえば、最近話題のナリワイ付きアパート「欅の音terrace」であるが、宅建士でもある著者は、不動産側の担当もしていて、内見案内なんかもしていたらしい。詳しくは、著者がnoteに書いているので割愛。
『建築ジャーナル』には、全五回の高知連載をしてもらっていた。編集長が某タクティカル・アーバニズムの場で出会ってスカウトしたという。
さて…どんどんわき道にそれてしまうので、本題に…。
「現代建築家」とはなにか?
「――私は建築を愛し、建築家を嫌悪する。」
連載第一回目、「宣言なき宣言文が現代を切り拓く」はこのガツンとくる一文で始まる。(こういうの大好きです)
ここで言う「建築家」とは、あくまで1960〜70年代以降の「後期近代」と
呼ばれる時代の、現在的な建築家のことである。従来の建築家の試みに対して極めて単純化すれば、彼らの建築はいわば“建築のための建築”であり、“目的化された建築”である。このトートロジカルな現況はひとえに切実さの欠落に起因すると考えられる。社会に対する建築の必然性を見いだせなくなった建築家たちが、建築をつくる意義を捏造し続けているのではないだろうか。いかに建築をつくるかばかりに気を取られ、なぜ建築をつくるのか、建築によって何を実現したいのかは一向に問われない。もちろん、この還元に対する反論は大いに在り得るだろう。
著者は「反論」を覚悟(いや、期待かもしれない)の上で、「宣言なき宣言」をする。
現代建築家として「先陣を切ろう」とする著者の態度は、引用文献に表れている。(この引用文献は隠れた見所だと思う)
第一回 宣言なき宣言文が現代を切り拓くの引用文献
❖1│ ジョック・ヤング著、木下ちがや・中村好孝・丸山真央訳『後期近代の眩暈 排除から過剰包摂へ』青土社、2008年
❖2│ ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳『サピエンス全史(上・下)文明と構造と人類の幸福』河出書房新社、2016年
❖3│ 『建築学生サミット2018秋―平成の建築を考える』八束はじめ・豊田啓介・市川紘司ら鼎談より。市川氏はここで平成の時代における、特に3.11以後の建築界の動向として、「情報を多種多様なまま個別具体的な解答を提示するのが現代」であり、それを「漸進主義としての建築」と評した。また、それらは「ポスト冷戦期的感覚のベタ化、リアリズムの現われ」であると説いた。
❖4│ 曲沼美恵『メディア・モンスター 誰が「黒川紀章」を殺したか?』草思社、2015年
❖5│ 長谷川 堯『神殿か獄舎か(SD選書)』鹿島出版社、2007年p.38-39
❖6│ アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー著、久保田晃弘監修、千葉敏生訳『スペキュラティヴ・デザイン 問題解決から、問題提起へ。―未来を思索するためにデザインができること』ピー・エヌ・エヌ新社、2015年
❖7│ 福尾 匠『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ「シネマ」』フィルムアート社、2018年 p.293
❖8│ 菅付雅信『これからの教養 激変する世界を生き抜くための知の11講』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2018年 p.82
❖9│ F ・エンゲルス著、一條和生・杉山忠平訳『イギリスにおける労働者階級の状態―19世紀のロンドンとマンチェスター(上・下)』岩波書店、1990年
❖10│ ビアトリス・コロミーナ&マーク・ウィグリー著、牧尾晴喜訳『我々は人間なのか? デザインと人間をめぐる考古学的覚書き』ビー・エヌ・エヌ新社、2017年 p.220
❖11│ 久保明教『機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ』講談社、2018年 p.16-22
❖12│ クレア・ビジョップ著、大森俊克訳『人工地獄 現代アートと観客の政治学』フィルムアート社、2016年
❖13│ ❖10に同じ p.129-130
❖14│ ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸・清水知子訳『アセンブリ 行為遂行性・複数性・政治』青土社、2018年
第二回〈弱き者〉の〈不安定性〉、あるいは〈可塑性〉の享受の引用文献
❖1│ ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸・清水知子訳『アセンブリ|行為遂行性・複数性・政治』青土社、2018年
❖2│ ビアトリス・コロミーナ&マーク・ウィグリー著、牧尾晴喜訳『我々は人間なのか? デザインと人間をめぐる考古学的覚書き』ビー・エヌ・エヌ新社、2017年、p.130
❖3│ ルイス・マンフォード著、樋口清訳『機械の神話 技術と人類の発達』河出書房新社、1971年
❖4│ トッド・ローズ著、小坂恵理訳『平均思考は捨てなさい―出る杭を伸ばす個の科学』早川書房、2017年、p.139
著者は心理学者の正田祐一が提唱する「条イフ・ゼン件と帰結のシグネチャー」を参照する。「たとえば、ジャックという名まえの同僚について理解したければ、『ジャックは外向的だ』というだけでは十分ではない。もしもジャックがオフィスにいるときならば非常に外向的であり、もしも大勢の他人のなかにいるときならばやや外向的で、もしもストレスを感じているときならば非常に内向的、という具合だ」
❖5│ 同上 ❖6│ ❖3に同じ、p.278 ❖7│ ❖1に同じ、p.47 ❖8│ ❖1に同じ、p.77 ❖9│ ❖1に同じ、p.47
❖10│ カトリーヌ・マラブー著、平野徹訳『新たなる傷つきし者―フロイトから神経学へ、現代の心的外傷を考える』河出書房新社、2016年
❖11│ 同上、p.98
❖12│ 伊藤公雄著「男性学・男性性研究=Men & Masculinities Studies│個人的経験を通じて」『現代思想2019年02月号|「男性学」の現在|〈男〉というジェンダーのゆくえ』青土社、p.12
❖13│ スティーヴ・ガーリック著、清水知子訳「自然の再来|フェミニズム、覇権的男性性、新しい唯物論」『現代思想2019年02月号|「男性学」の現在|〈男〉というジェンダーのゆくえ』青土社、p.180-201
文中でも「<現代建築家>は第一に人間を理解している必要がある」とあるように、文献のジャンルは建築、デザイン、心理学とさまざまだが、「人間とは何か?」をテーマとしているものが多い。
また、このジャンルを横断していることも、「建築家の社会からの断絶」により「端的に発現」される「社会における建築家のプライオリティの低さや知名度のなさ」、「建築界に蔓延する閉塞感」の打破に必要なことだと思う。
まったく個人的な感覚なんだが、「建築業界」の人たちって「建築業界」でしか働いたことがない人がほとんどで、建築の話にしか興味ないように見えて(もちろん全員じゃないけど)、一市民からするとしらーって白目になる。逆に、例えば、喫茶店経営者からしたら当たり前の光景だった、お客さんが自主的にやりたいことをしだす現象みたいなのが「すごい、新しい」、っていわれててポカーンってなったりもする。(いや取り組み自体は素晴らしいんですが…)
私は職業ホッパーなので、「コンサート業界」「飲食業界」「旅行業界」を経験していて、建築系の月刊誌・書籍の編集者として5年目になるけど、ここまで閉鎖的な業界、一般との乖離がある業界は初めてでいまだに戸惑っている。
さて…また話がそれてしまう。
では、建築家が社会と接続するにはどうすればいいのか?
その対象は誰なのか?
第一回で、著者は「大衆こそが現代社会の大多数を構成している」と考えるのであれば、建築家は「大衆と共有可能なステートメント」を提示する必要があるとし、「大衆=より没個性的で匿名的な集団」であるとしている。
ここでは、つながる対象は「大衆の社会」とされる。
第二回では、〈強き者〉と〈弱き者〉が語られる。
〈強き者〉は「"近代社会という巨大機械を駆動する部品として訓練された人間/それを操縦する人間"」で、
〈弱き者〉は「『巨大機械』の部品ではない人間であり、『平均思考』から逸脱した個人的性質に重きを置く人間」とされる。
そして、「〈強き者〉という存在に対して〈弱き者〉の存在を認め、その上で、彼らの個人的性質を肯定する自律的な空間を指向するのが〈現代建築家〉の役目ではないだろうか」としている。
ここで疑問が生まれる…
では、「大衆」は、〈強き者〉なのか〈弱き者〉なのか?
これ難しすぎるんで、あくまで今の段階での私の考察でしかないんだけど…
まず「大衆」とは? を考える。
別の記事※1で、哲学者オルテガが定義する「大衆」がでてきて、
オルテガによると「大衆」=「巨大で急激に変化する社会にあって個人がよりどころを喪失した結果、同質を求め、欲望のまま権利を主張する存在であり、行動に責任や義務を負わない」とされる。
それでいくと、「大衆」は〈強き者〉の中の「近代社会という巨大機械を駆動する部品として訓練された人間」なのかなと仮定できる。
私の中のこの人たちのイメージは、なんで着ているのかもわからないスーツを着用し、なんで通っているのかもわからないオフィスに、疑問を抱かず(時に抱くのかもしれないけれど)悲壮な顔をして電車で毎日通う人たちである。かれらは、国のせいにしてTwitterで政府批判(批評ではない)したり、夢をあきらめ個を殺し働くことを「家族のため」(せい、と同義)とし、同調を求める特性をもつ。
ある時期から急にこのスーツの集団輸送に吐き気がしてしまって、通勤が辛い私は〈強き者〉から〈弱き者〉に「堕ちる」ことに成功したのかもしれない(実際もうすぐ無職になる予定)。とすると、〈強き者〉はあるとき〈弱き者〉にもなりえるということになる。
…うーん、わからなくなってきた。
そこで、第一回に戻ると、「現代社会の大衆は見えないところでこの神経疾患と闘っている」とある。
この一文からは、「大衆」=〈弱き者〉とも読めるのだ。
〈弱き者〉になるまいと踏ん張っている「大衆」がいて、
(それは〈弱き者〉への自覚なき憧れも含有するのかもしれない)
それが神経疾患、肉体的、精神的自殺につながっているとも考えられる。
著者のいう「〈可塑性〉を享受する」ことで、「〈弱き者〉は〈不安定性〉による安定を獲得し」、それによって「〈弱き者〉は『巨大機械』を崩壊させ、社会構造を転回させるエネルギーをもつ」のであれば、希望はそこにある。
なんだか、安吾の『続堕落論』を思い出したので、ここに引いておく。
人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。
「大衆」についてだけでこんなになってしまって、全然まとまってないけれどこの辺で…。
というように(どういうように?笑)、「現代建築家宣言」は、さまざまな疑問を投げかけ「考える機会」を与えてくれる連載であることは確かである。
このほかにも、「切実さ」<男性性>など、興味深いテーマが提示されているので、ぜひ、ご一読の上、感想、ご意見をtwitter #現代建築家宣言 にお寄せ下さい。
※1 設備逃げ恥放談[10]今月の用語「明日のための環境・設備設計」|細井昭憲
連載第一回、第二回はnoteで有料(一記事200円)配信中
<おまけ>「現代建築家宣言」以前
連載の経緯をここに記録する。
高知連載でマイルドな文章を短文でわかりやすく書く方だなと思っていて、またなんか書いてほしいねーなんて編集部で言っていたところ、
『建築ジャーナル』12月号の討論会(開催は10月)に参加してくれたので、
心の声そのままに「何か連載しません?」と声をかけたのが始まりだった。
2018年11月19日 第一回打ち合わせに持っていった<最初のぼんやり企画書>。
<第一回打ち合わせのメモ>
「都市をサバイブする」「記述不可能性」「ベイエリア」「島」「アイデンティティ」「離島コンシェルジュ」「チブリ島」「EMBT」「サンタカテリーナ市場」「RCR」
ここからどう今の連載につながったのだか今となっては分からないけれど…(メモって面白い)、「記述不可能性」や「アイデンティティ」は連載でも語られている。書いていないけど「切実さ」については非常に時間をとって話したような記憶がある。なんか私、ハリウッド映画に見る問題提起と解決の自作自演について話したような。
2019年1月10日に草稿が届き、それをもとにした第二回打ち合わせ(1月17日)を。
<第二回打ち合わせのメモ>
「予防医療、ユートピア、対症療法の間をつなぐ」「エマージェンシーレスポンス」「アーサー・エリクソン?」「ロクシン」「アイスの棒」「孤児院」「スタディセンター」「オフィス」「人間のことを理解」「リベラルアーツ」「ピエール・バイヤールー読んでない本について堂々と語る方法」
(続・メモって面白い)
ほかに " " と <> と 「」の使い分けなども決める。
黒地に白文字のレイアウトもここで提案し、縦書きか横書きかはレイアウトを見て検討することになった。
(廣村正彰さんにインタビューした際に、道路に見られるように、実は「黒地に白文字」が人には認識しやすく、眼に優しいと聞き及んでいて、
一見ファイティングポーズだけど優しいこの連載にぴったりだと思ったのだ。)
また、流れのある文章を止めないよう、〈小見出し〉を排除し、傍点と強調文字でアイストップをかけている。これを形にしたデザイナー(鈴木一誌デザインの下田さん)のわざ、すごい。実現してくれた印刷所の技術にも感謝と尊敬しかない。
このレイアウトは誌面限定なので、ぜひ本誌も手に取ってほしいな。
最後に、著者が討論会の感想として寄せてくれた文章を紹介する。これが一番連載の趣旨に通じるかもしれないと、同僚に言われてなるほどと思ったのだ。
平成生まれとしては非常に悲しいですが、実感として平成の建築はそれ以前のものに比べて味気無く感じています。その要因としてひとつ重大だと考えているのが、建築の<俗化>です。これは、3.11以後「みんなの」という枕詞を頻繁に使うようになったことにも、派閥のように内輪ノリが散見することにも、批評が不在になったことにも、通底しているように思います。それは磯崎新氏や八束はじめ氏を筆頭とする、いわゆる知的エリート層を喪失していることが深刻な問題なのではないかと。知的エリート層のようなある種の超越的存在がいることで担保されていた緊張感が解け、弛緩したムードだけが漂っているように感じます。そしてもはや批評が失効し、否定か馴れ合いばかりが目立つようになってしまい、明らかに昭和より知的に後退している気がしてなりません。この<俗化>を超克する方法論として、絶対的な空間性の生成という可能性を模索しています。個人という単位を人類に還元するような建築。デジタルテクノロジーだからこそ処理可能な天文学的数値や歴史のもつ時間軸、身体性を超えたスケール感といったものがその鍵を握るかもしれません。かつてのモダニズム建築やひいては歴史的名建築は、この絶対的空間性を保有しているように思います。超越的な/絶対的な空間をもつ建築をつくることが、結果的に人間のための建築を実現する、という可能性が残されているのではないでしょうか。建築の聖性、あるいは崇高さのようなものを、信じています。
第三回のテーマは、〈崇高さ〉である!
『建築ジャーナル』2019年9月号に掲載予定。
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