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映画『すべてうまくいきますように』の内容に触れながら感想を述べる。
ごきげんよう。雨宮はなです。
いよいよ本日から、映画『すべてうまくいきますように』の上映がスタートしましたね!
Filmarksではすでにレビュー済みでしたが、そのレビューを肉付けする形で改めて感想をまとめました。
作品について
この作品をひとことで表すなら、「死を選ぶのは権利(人権)であることを遺族側に配慮して示してくれた良作」です。
多くの日本人には早すぎるかもしれない、けれど早くに知って受け止めなくてはいけない現実がさわやかに描かれています。
なぜ「多くの日本人には早すぎるかもしれない」のか?
それは、日本人が「死」に対してネガティブなイメージを持って避けてしまう傾向にあるからです。
この話だけでもりだくさんになってしまうので、これはまた後日。
安楽死/尊厳死の制度を利用したい私としては、ラストシーンに心からほっとしたし、早くしがらみが無くなってほしいと強く願わずにはいられませんでした。
「生きていて欲しい」というのがいかに非道で暴力的なのかを描くシーンはそんなに多くないけれど、アンドレの一貫した姿勢がその表現を補助してくれています。
注目してほしいキャラクターは「アンドレ」
「終わりにしたい」というアンドレの意思が、「体が弱って希望を失っているだけ」「土壇場で変わるもの」という前提で無視されていることに気づきましたか?
無視しているのはエマニュエルやパトリックだけではありません。
親戚も医師も警察も、救急車の運転手にいたるまで。
とても自然にそういったシチュエーションや会話が繰り返されるので、穏やかに過ごしている人ほど気づけないと思います。
ただ、私はこの作品を観るにあたって「アンドレの視点をもってほしい」と思っています。
なぜなら、アンドレは将来の自分だからです。
将来の自分がどう思われるのか、どう扱われるのか。
その視点でこの映画を観たり振り返ったとき、いかに「普通」が暴力的で残酷なのかに気づきます。
私たちが知り、受け止めるべきなのは「アンドレ」と「協会の女性」というキャラクターが現実にもいることです。
登場キャラクターのなかで唯一、協会の担当者の女性だけがアンドレに寄り添い、彼の視点でものをみることができています。
そして彼らが「自分」であり「自分の目標達成に必要な存在」であるということです。
「愛」を感じたシーンは…
この作品の見どころのひとつに、愛や関係の描写があります。
それは親子だったり元夫婦だったり、恋人だったりします。
メインは父娘の関係と愛であることに間違いないでしょう。
また、この作品における「愛」は「理解」だと感じました。
作品中、父アンドレが娘エマニュエルにとってどんな人物だったのかを再認識するシーンが出てきます。
きっかけとしていろいろなモチーフが登場し、回想や心理描写シーンが混ぜられているのですが、それをみる限りではどうも「よい父親」とは思えないです。
エマニュエルに対する「理解」が全くなく、「愛」を感じられないのです。
エマニュエルにもアンドレに対する愛情が全くないわけではないでしょう。
ですが、自分にとって「よい父親」でない人物に「愛」を感じたり「理解」を示したりするでしょうか?
そんな関係の相手に「終わりにしたいから手伝ってくれ」と言われて、「理解」を示せるでしょうか?
私のこたえは「No」です。
愛情という言葉におちついたのはラストシーンです。
協会の女性との通話シーン。
女性の後ろに眠るアンドレと、エマニュエルの笑顔が明るく朗らかなのが印象的です。
そのエマニュエルの表情をみれば、アンドレに「理解」を示せた達成感さえ伝わってきます。
この最後の通話のあとで、彼らはやっと「愛」で結ばれた親子になれたのだと、私は思いました。
父親をいなしたり希望をかなえようとあれこれするうちに初めて向き合うことになり、同じ目標を達成したことでやっとお互いを認め合えたのです。
さいごに
明日は「自分が両足を捻挫して、なおさら安楽死を希望するようになった話」をします。
よろしければ、また覗きに来てください。
死を選ぶ権利(人権)であることを遺族側に配慮して示してくれた良作『すべてうまくいきますように』は、絶賛公開中!