灰色が重なる
石造りの家、レンガの床、音を立てる車輪。ここは下町、綺麗とは言えない。それでも僕はシャツと茶革の短パン、長い靴下を履き、茶色のサスペンダーを締め、お気に入りの黒革のキャスケットを被る。十五年生きてきたけど、働くのは辛いって事は分かった。地下で採れた鉱石を父さんと一緒に仕分けるけど、それだけで疲れるんだなって。父さんよりも早く仕事を終わらせて、トンカチになる様な固いパンを片手に街を歩く。歩くのは好きだ。色んな人と挨拶をして、スイセイロボットと遊んで、猫と戯れて。でも毎日が平和って訳でもない。今だって路地裏の奥で、誰かがうつ伏せで倒れているのに気付いた。大人じゃない、僕と同じ位か。本来であれば駆け寄って助けてあげるなんて、そんな危険な事はしない。倒れた人は大体お金が無くて飢えているか、病気にかかっているか、そのどちらかだ。最近この国では、指先や脇が黒くなって死んでいくという病気が流行っている。近付けば殺されるか病気に罹るから、絶対に近付くんじゃないって、父さんの教えだ。でも危険そうな感じはしない。病気に罹っているかもしれないけど、それに何か、何か心が惹きつけられた気がした。周りに自分を見ている人がいない事を確認して、ゆっくりと路地裏へ入り、そっとその子へ近付く。
「大丈夫?」
髪や肌の白い女の子だった。肩を掴み仰向けにして、彼女の状態を確かめる。腕が熱い、熱があるのだろうか。彼女は気付いたがやつれている様で、ゆっくりと目を開く。美しい水色の目をしていた。
「何……も……」
「いいから、これあげる」
半分食べたトンカチパンと、腰に下げた水筒を彼女に渡す。いいの、って疑惑と希望の目をこちらへ向けてくる。何も言わず頷くと、彼女はすぐに平らげた。少し元気も戻ったのだろう、力の無い、掠れた声では無くなっていた。
「どうして、助けてくれたの?」
「なんとなくだよ。大人じゃなかったし」
「親から言われなかったの? 助けちゃダメだって」
「言われたよ。それでもなんだか、放って置けなくて」
ふふっと笑って、彼女は立ち上がる。その頭は僕よりも少し高かった。
「バカだね、君は。名前は?」
「ロビン・カフカ。君は?」
「私は……」
ぼやっと左上を見て、すぐに僕の顔を見て提案をしてきた。
「ロビン、君が名前を決めてよ。私はもうお父さんもお母さんもいないからさ」
少し戸惑ったが、言われたままに考える。その真っ白な髪や肌、僕は君を傷付けない。
「そっか。じゃあ、ブランカ。君は美しいからね。君はブランカ・カフカだよ」
「そっか。ブランカ、ね」
ブランカは少し右に目を伏せた。
「違うんだ、僕はそういうつもりじゃないよ。ただ、助けたのも目を惹かれたからで」
暗んだその顔は眉を上げ、光を見せてこちらを見る。
「そう。優しいね、君」
ブランカはその右手で僕の右手を掴み、路地裏の奥へと進んでいく。
「この先は公園なんだ。誰もいないからさ、行こうよ」
色を名前として付けるのは、彼女にとっては少し苦しいのかもしれない。それでも僕は、君に一番似合う名前だと思ったんだ。可憐で真珠の様な君だけど、そんな気がした
。
連れて行かれるままに行くと、今まで見た事のない公園に着いた。本当に誰もいないし、こんな場所は見たことすらなかった。それでもただの公園だった。木が一本、ブランコが二つ、ベンチも二つ。全て端の方にあって、真ん中は広かった。
「ここ、誰も来ないんだ。静かで良いでしょ」
建物に囲まれてできた空は吸い込まれて落ちていく程丸かった。建物が徐々に伸びていく幻覚を見た。平衡感覚を失って、その場に尻もちをついてしまった。ブランカはベンチよりも隣に座ってくれた。
「私ね、皆に嫌われてたんだ」
「え」
右を向くと、ブランカはまだ空を眺めていた。
「皆と違うから気味が悪いって。ほら、私の髪とか肌とか、白いでしょ?」
やっぱり、そうだったんだ。
「君は綺麗だよ」
ブランカはそのまま仰向けに寝転がった。
「ロビン、君の言葉はそのまま信じていいの?」
「そのままって、何か別の意味なんて無いよ」
「そう」
ブランカは大きく溜息を吐く。少し咽せていた。そのまま彼女は目を閉じた。
「前にも、そう言われた事あったんだ。でも、からかわれてただけだった。それで、人の言葉、あんまり信じられなくなってさ」
「そっか」
親しみと少量の愛を込めて、傷付けない、そばにいるよという言葉を考える。
「でもね、ロビン。君の言葉はそのまま信じる事にするよ。ありがとう」
君の方が、優しかった。
「うん」
君の優しさの光に頭が眩んでしまった。そんな自分が少し嫌だった。
「私のお父さんもお母さんも、生きてるんだ」
「でも、いないの?」
傷付けない様に、そっと寄り添った。ただの独り善がりじゃないといいなっていう、願いを込めながら。少し暑い様な気がする。馬鹿だな、彼女は恐らく年上なのに、叶いやしない恋なんてしてしまったのだろうか。
「そう。私から離れたの」
「どうして?」
「元々二人には好かれてたの。私達の宝物だって。でもね、私も病気になったんだ」
いつの間にか日は傾いていた。ブランカはゆっくりと立ち上がり、恥ずかしがる事無くシャツとスカート全てを脱いだ。年頃の男の目に映る人としての姿への興奮よりも、脇の周りにある黒い斑点に目がいった。
「それって」
「そう。だから、離れたんだ」
ブランカは悟って、死に場所を選んであそこにいたのかもしれない。僕はなんて事をしてしまったのだろう。死に場所すら決めさせてくれなかったと、そう思ったのかもしれない。ブランカは咽せて、口から血を吐いていた。
「ハハ、そんな悲しい顔しないでよ、ロビン」
思惑に気付かれてしまったのか、はたまた心配の気持ちからなのか、ブランカは慰めの言葉をくれた。
「謝らないといけないのは私だよ。ロビン、君は私の側に長く居過ぎた」
「ブランカ、君が謝ることなんて何もしてないよ」
「いや、したんだ。二つ。一つはね、私の名前。赤くなっちゃったし、もうブランカを名乗る事なんて出来ないからね」
「そっか。じゃあ、君の本当の名前、教えてよ」
「アナスタシア。ラストネームなんて知ってもらう必要も無いよ、君がくれたカフカを名乗るからね」
そう言ってアナスタシアはわざと咽せて、血を吐き出した。壁に自分の名前を書き始めた。足りなくなったら、また吐いた。体だけでは無い、命までの全てを曝け出したその姿は、今までに知った中の何にも当てはまらない感情を呼び寄せた。アナスタシアは少し離れた僕にもしっかりと聞こえる様に、咽せながら、血を吐きながらも大きな声で話した。
「もう一つはね、君も死ぬんだ」
「どうしてだい? そんなに長く一緒には居なかったはずだよ」
「この病気は、人に移る。そして数日の内に死んでしまう。それは分かるよね?」
僕は静かに頷く。
「この病気はね、移る早さがとても早いんだ。もう君にも移っているだろうね」
「そんなの、分からないじゃないか」
「いや、もう駄目なんだ。少し熱っぽくはないかい?」
不安だったこの感覚は冗談かと思いたかった。でも、アナスタシアの言葉に嘘は無いだろう。
「だから、ごめんね。謝っても許される事では無いけどさ」
「もう起こってしまったものはしょうがないよ。でも、これだと僕もお父さんに死ぬって言いに行けないじゃないか」
「悪いけど、その通りだね。誰も来ないこの公園で、私達は死ぬ。そうすれば、君のお父さんは少なくとも明日死ぬ様な事は無いだろう」
やっぱり、お父さんの言葉は正解だったんだ。言いつけを守らなかった僕が悪いんだな。でもね、後悔はしてないよ。
「ねえ、ロビン。最期の願いを聞いてくれるかい?」
そう、最期なんだよな。僕も。
「いいよ」
アナスタシアは血だらけの手を服で拭き取りながら言った。
「私ね、君の裸を見たいんだ」
「えっ」
最期とは言えども、年頃の僕には少し揺らいだ。
「良いじゃないか、私だって君と同じくらいの年だよ。それにもう死ぬんだ、お互い吹っ切れてもいいと思わない?」
吹っ切れてもいいのか、最期だし。
「それも、そうか」
これもまた、知らない感情だった。死ぬ前ってこうなるのかな。違う、僕も気が狂っていたんだ。僕は全てを脱ぎ捨てた。大事にしていたキャスケットも投げ捨てた。
「じゃあ、アナスタシア。僕の願いも聞いてよ」
「良いよ」
「君と一緒に死ぬから、君の血を飲ませてよ」
アナスタシアは咽せた。笑った分、今まで我慢していたよりも酷く咽せた。歯の隙間から血が溢れる。僕達はきつく抱き合って、強く不器用にキスをした。口を切った時の、なんとも言えないあの味を、僕は全て飲み干した。そうしてアナスタシアは一人で立っていられなくなって、僕に重く寄り掛かった。僕はアナスタシアを名前の下に座らせた後、僕も体が熱くなった。大切にしていたキャスケットをアナスタシアに被らせて、彼女の口の中に指を入れて、小さく自分の名前を壁に書いた。それから座り込んで、左手と右手を繋いだ。地肌で土に座るのは初めてだった。ああ、硬いな。
「このキャスケットは君によく似合うよ、アナスタシア・カフカ」
息子が攫われたと、男は酷く困って言い回る。最近、この街には白と黒の烏がいるらしい。見知らぬ方向、路地の裏へ仲良く飛んでいくのを見たそうだ。
了
2024/06/12-2024/06/16