【短編小説】ファム・ファタール


 映画研究会、九月金曜の夜の部室。面白そうな映画を見つけて、夜な夜な一人で観ようと思って来た。

「おや、こんな時間に珍しいね。いらっしゃい」

 少しだけ低く濁った女性の声に呼ばれる。禁止されている喫煙と窓の開放を堂々として、窓の横に置かれた椅子に座っていた。上下スウェットにハーフアップで纏めた黒髪、黒縁の眼鏡をかけている。部室のスリッパ3つ以外にある見慣れない下駄が恐らく彼女のものだろう。煙草と缶ビールを片手にパソコンを打っていた。

 「映画観に来たの?」

 「はい、『ファム・ファタール』って映画なんですけど」

 「あー、観なくていいよアレ。一回観たけどつまらなかったし」

 「え」

 せっかく楽しみにここに来たのに、あっさりと切り捨てられてしまった。

 「いいや、今日は終い。そんな事よりさ、少年、来週平日暇な日は?」

 「え、来週は……月曜ですね。一日授業無いんで」

 「じゃあ月曜の午前十時、この部屋でまた会おうか」

 短くなったその煙草を灰皿に押し当てて火を消し、パソコンを閉じる。

 「少年、名前は?」

 「樋口侑成です」

 「ユウセイ、ふーん。あんまり聞き覚えないけど、一年?」

 「そうです」

 「アッタリー。ようこそ、映画研究会へ。ウチは尾崎ハテナ。院生やってる」

 「ハテナ?」

 「そう。果物に凪って字書いて、果凪。カナじゃないよ」

 今までに聞いた事の無い不思議な名前だった、だから一発で覚える事が出来た。尾崎ささんは残った缶ビール片手にパソコンを持って、さらば少年と言ってカタカタと出ていく。百八十一ある僕の背丈から十センチ位しか差がないと思う。あと、良い匂いがした。

 「それじゃあね」


 良く眠れなかった、けど、出来る事はした。昼間のバイト、それと、少し伸びた髪を切る。くだらない事から気の利いた話題まで色々考えていたから、土日なんてすぐに過ぎてしまった。

 そうして来てしまった月曜。気に入っている黒のジャケットと白のカーゴパンツを着てベージュ基調のスニーカーを履き、尾崎さんを待つ様に三十分程早く部室に着いた。

 「お待たせ。早いねー樋口少年」

 軽く纏めていたハーフアップの髪は、ミディアムウルフに整えてあり、見せキャミソールの上に黒のセットアップを着こなし、黒縁赤レンズのサングラスを掛け、下駄ではなく黒革のスニーカーを履いたその姿は、この前の堕落さを微塵も感じさせず、最強という言葉が相応しい尾崎さんに圧倒されそうになる。

 「ふふ、驚いた?」

 「本当に尾崎さんですか?」

 「勿論、ウチは尾崎果凪だよ。吸ってる煙草はピースだよ」

 そう言ってニヤッと笑って胸ポケットからロング箱を取り出し、親指小指で挟みながらピースをした。

 「さて、お気に入りのカフェがあるんだ。連れてったげる。勿論お姉さんの奢りだぞ」

 「え、いやいや良いですよ。自分の分は自分で払いますから」

 「一年君はお金無いでしょ? ウチお金あるからさ、遠慮せんでね」

 さ、いくよと部室を後にする。隣に立つと、やっぱり良い匂いがした。正直とても緊張している。こんなに素晴らしい見た目の人の隣に立っているという事実が不思議でならない。自分とて見劣りしない様に服を選んだつもりだけれど、すごく差がある様な気がする。歳の差だからだろうか、見惚れているからだろうか。

 「ジャーン、こちらはウチの自慢の車です」

 そう言って紹介してくれたのは、いかにも古そうな灰色の車、見た感じは外車だろうか。ドアは二枚、しかしきちんと手入れはされている様で、時代を感じる風化は無く綺麗な状態を保っていた。

 「いすゞってメーカーの117クーペっていうの。メーカーは聞いたことあるんじゃないかな?」

 「トラックのCMは聞いた事ありますね」

 「そう! あのメーカーだよ。実は乗用車も作ってるんだよね。今は海外だけなんだけど。まあ、乗りなよ」

 ドアを開けて乗り込もうとすると、尾崎さんの匂いの方から僕を包み込もうと漂ってきて、少しだけ戸惑ってしまう。

 「緊張する? それとも乗り慣れてない車だからかい?」

 「いや、大丈夫です」

 革で作られた深みのあるシート、時代を感じるオーディオや内装、全てがアナログ式のメーターはあまり車を知らない僕でもロマンを感じた。マニュアル車か、そういえば教習所の先生が古い車はほぼ全てがマニュアルだって言っていたっけな。体を突き抜けて臓器に響くエンジンの始動音、ガラガラと唸りを上げ、ゆっくりと走り始める。

 「ところで、どうして僕を誘ってくれたんですか?」

 「卒論書くの疲れたからかな。たまには息抜きぐらいしたいじゃん」

 「本当に僕なんかで良かったんですか?」

 「うーん、少年がそこに来たからかな。運命ってヤツだと思ってよ」

 学校を出てから十五分程で、ミュウという喫茶店に着いた。白い壁に茶色の屋根、二台分の駐車スペースを構えており、蔦草に軽く覆われこぢんまりとした佇まいの店だった。

 「ここ、ウチのお気に入りの場所なんだ。フランス語で『より良い』って意味で名付けたんだって」

 軋むドアの音を掻き消す様に、鈍い音でカランコロンとドアに付いていた鐘が鳴る。

 「いらっしゃい。今日は二人かい?」

 「そうなんですよー。こちら後輩の樋口君です」

 「あ、こんにちは。樋口侑成です」

 急な振りに戸惑いながら挨拶をした。よくある喫茶店の香り、木製のカウンターと、窓際にテーブル席が三つ。自分達の他に客はいなかった。

 「はいこんにちは、私は松本恵子と申します。果凪ちゃんとはお友達かい?」

 「え……」

 会ったばかりの関係なのに、友達と答えても良いのだろうか。

 「まあ、そんな感じです」

 尾崎さんがすかさずフォローをくれた。

 「それは良かった。果凪ちゃん、カプチーノでいいのかい?」

 「お願いしますー。君もそれでいいかな?」

 「大丈夫です」

 「じゃ二つで。それと、フレンチトースト二つもお願いしますねー」

 尾崎さんは一番奥のテーブル席の奥側へ座る。対面して座って目が合った時、その美しさに見惚れそうになって、つい顔を逸らしてしまった。

 「樋口少年、もしかして恋愛とかした事ないの?」

 「高校生の時に一回だけあったけど、すぐに関係切れちゃって、そのまま……」

 「そっかー。少年、お姉さんが付き合ってあげよっか?」

 「そんな、よしてくださいよ」

 つい顔が熱くなってしまった。

 「ま、今日はウチが付き合って貰ってるんだけどね。ハハーッ」

 無邪気なその笑顔、本気になってしまいそうだよ。

 「まあ、恋は一瞬だよ、少年。君には君の人生がある、好きな人も嫌いな人も、君が選ぶんだよ。だから、ウチは君に付き合ってもらうっていう自由を選んだんだけどね」

 お待たせしましたと運ばれてきたカプチーノを一口、微かなチョコレートの味を感じる。

 「どう? 美味しいでしょ」

 「飲みやすくていいですね」

 「さて、今日付き合って貰ったのには理由がある。君にはウチが普段から考えている事を聞いて欲しいんだ」

 「と言いますと?」

 「まあ、色々だよ。例えば、このコーヒー。ウチと君の二人分をコンビニで買うと仮定して欲しいんだけど。ウチが先に二人分のコップを持っていって先に君の分を入れたら、君はどう思う?」

 「そりゃあ、嬉しいですけど」

 「そうだよね。親切にありがとうってなると思うんだ。その後、君はコンビニの中でウチを待っていたとする。カップはどんどん熱くなっていくよね? ウチが熱くなるカップをそのまま持っているのが嫌だから少年のコーヒーを先に入れたとしたら、どう思う?」

 そんな複雑な事、今までに考えた事も無かった。少し悩んでから出した答えは。

 「その内訳を聞いたからちょっと嫌になったかも、ですね」

 「そう! それだよ、その感情その感覚!」

 机に手を当てぐいっと顔をこちらに近づけながら食い気味になる。

 「気付きってのは凄いんだよ、今ので分かったかい?」

 「なんとなく……?」

 「それで良いんだよ、今日は君に気付く事に気付いて欲しくてね……」

 座り直した尾崎さんは、モカチーノを啜る。

 「自分勝手な私論だけどね、気付きは確実に自分の人生の糧になるんだ。この前あの部屋で会った時、ウチは『気付き』をテーマに研究したものをレポートとして書いてたんだよ。まあレポートは大変だし面倒だし、こうやって気晴らしもしたくなるよね」

 「それはご苦労様です」

 「尤も、ウチは形の無いものをひたすら突き詰めようとしてるから勝手に苦しんでるだけなんだけどねー。自分で書いてる内にあれもこれも書きたくなって更に時間過ぎてくし。まあ別に文章自体を書くのが苦手とかじゃないし。なんなら一山当てちゃえる位には文章書けるしね」

 「賞か何か取ったんですか?」

 「うん。テキトーに文学賞選んでおりゃーってやったら当たっちゃってさ。それで五十万ゲッチュしたんさ。だからお姉さんはお金があるんだよ」

 お待たせしましたと次はフレンチトーストが運ばれてくる。こんがりと焼けたふわふわのパンの上にはバター、皿の横にはアイスクリームも添えられており、トッピングとしてチョコレートソースとメープルシロップの入った容器が運ばれてくる。

 「少年、朝ご飯食べないタイプ?」

 「パン一枚とかで終わらせてますね」

 「でも大丈夫だよ、ウチもそんな感じだけど、これそんなに胃もたれしないから」

 そう言って尾崎さんは、ナイフとフォークでパンを半分に切り分け、二つのソースをトロトロとかける。メープルシロップが好きな僕は、同じ位の量をパン全体にかけた。見た感じ朝ごはんには少し重く感じるが、早速一口。控えめな甘さ、あっさりとした味わいのあるシロップがふわふわのパンに染み込んでおり、噛めばじんわりと溢れ出る食感。

 「どう? 美味しいでしょ。ウチのお気に入りなんだ。メープルもチョコソースも恵子さんの手作りでね、食べやすいでしょ?」

 「道理で甘さが市販のよりも控えめなんですね。確かに食べやすいかも」

 一口、また一口と手は進む。少し溶けつつあるアイスクリームを締めに平らげ、完食。また、来ようかな。財布を出そうとするが、尾崎さんにいいからと止められてしまう。

 「言ったでしょ? ウチの奢りだって。恵子さん、会計お願いしますー」

 「いやいや、せめて小銭位は出させてくださいよ」

 「じゃあ今度、ウチより儲かってからならご馳走して貰おうかな?」

 会計は二千八百円、半分どころか全額本当に自分で払える金額だから、なんだか落ち着かない。それでも尾崎さんの紹介してくれたお店だから、面子を潰さない様にしようと、甘い唾と一緒に飲み込んだ。ご馳走様と告げて店を出て、車に乗り込む。

 「少年、行きたい所どっかある?」

 「僕は特に。尾崎さんはどこか行きたい場所無いんですか?」

 「うーん、特に無いかな。映画でも見に行くかい? おすすめの場所、あるよ」

 「じゃあそこ行きましょう」

 また少し唸りながら車は走り出す。

 「そういえば、どうして尾崎さんは気付く事を題材に研究を始めたんですか?」

 ふと、気になった事を聞いてみた。

 「じゃあ、先に質問に答えて欲しいな。少年、いじめっていじめられる方に原因があると思う?」

 「いや、いじめる方が悪いと思います」

 「じゃあ聞き方を変えよう。顔が不細工でいじめられてる子が居たとする。じゃあ、その子はどうしていじめられたと思う?」

 「……顔が不細工だから?」

 「そうだよね。それって、原因だよね。じゃあ、もう一回同じ質問をするよ。いじめっていじめられる方に原因があると思う?」

 答えられなかった。そうだ、確かにあるんだ。

 「この話は樋口少年だけじゃない、他の少年少女にもした事はあるよ。でも皆口を揃えていじめる方が悪いって答えたんだ。君も例外なく、無意識にいじめる方が悪いって答えなかったかい?」

 「……確かにその通りです」

 「宜しい。じゃあウチの名前を言ってみてほしいんだ」

 「尾崎果凪……」

 思わず息を呑んだ。そうか、もしかしてそれって。

 「そう、原因だった。でね、その時に気付いたの。小学生のガキンチョながら理解って楽しいなって。という訳で、これをアンサーとしても良いかな?」

 「なんか、すみません」

 「いーいんだってー! 少年が謝る必要なんて無いよ。君は純粋に質問をしただけなんだから、さ?」

 「尾崎さんって、もしかして凄い頭良かったりします?」

 「んーん、人並みだよ、なんならそれ以下かも。ただ、人より早く気付くって事に気付いただけだよ。あとは多少の文才があった位で」

 「やっぱり頭良いんじゃ?」

 「少年、ウチの高校数学は毎回赤点だったよ」

 「うーん……」

 「モヤモヤするかい? じゃあこうしよう。ウチは勉強は出来なかったけど、頭は良かった。どう?」

 「確かに、それなら納得出来るかも……。でもそれって同義じゃ無いんですか?」

 「同義じゃないよ。君の高校とかにも居なかったかい? テストで点数は取れるけど、話の内容とか行動がなんか子供っぽい気がするなーって人」

 「ああ、居たかもしれないです」

 「そう、その人とかだと例にしやすいけど、そんな感じだよ。同義じゃない。でも線引きが難しいんだよね。何事に対しても説明が下手な人っているじゃん、そういう人ってただ頭が悪い人と本当に説明が下手な人に分かれてると思うんだ。説明が下手な人はどうして言葉数が多くなっていく傾向にあるんだよね、今のウチなんか本当にそうなんだけどさ……」

 言葉にする訳にはいかないけど、尾崎さんって生き難そうな人だな。正直僕は嫌いじゃない、見た目を抜きにしても全然話せる人だと思う。ユーモアがあって、独特の雰囲気もあって、自分の世界観をはっきりと表現出来る人なんだと思う。

 「さて、着いたよ」

 建物だらけの細い脇道に車を停める。古い外装の映画館へ着いた。町は少し籠った埃の臭い、周りは居酒屋横丁、昼下がりの下準備はやがて夜に輝く煙と賑わいになるのだろう。

 「ここ、ウチのおすすめ。お爺ちゃんが運営してるからちょっと融通効くんだ。誰も居なかったら好きなヤツ見れるとかね」

 「そんな事して大丈夫なんですか?」

 「別に人いないし、前にも何回かして貰ってるしね」

 街角の斜めに立て付けられたガラガラと鳴る引き戸を開け奥に進むと、右手に少し古びたカウンターがあった。

 「いらっしゃい。今お客さん居ないから、好きなヤツ流せるよ」

 「じゃあ、『ナイト・オン・アース』で」

 「はいよ。二人で二千円ね」

 財布を出そうとするが、尾崎さんは既にカルトンにお金を入れていた。

 「丁度だね、毎度あり。好きな席座って良いからね」

 「さ、行こっか」

 「尾崎さん、流石に払いますって」

 「少年、ウチより稼いでね。待ってるから」

 「またそれですか」

 「またこれですよ」

 左手にある木製のドアを開けると、綺麗に掃除された赤いシートが並ぶ。四列目の真ん中、首が疲れない位置らしい。

 「どうだい少年。誰にも邪魔をされない、ウチらだけの空間だよ」

 「そうですね」

 敢えてぶっきらぼうに返事をした。くだらない事を考えているって悟られたくないから。

 「だから何をするも自由だよ。映画を観ながらこれはこうだよねって話をするでも良い、映画をBGMに適当な話をするでも良い、全てはウチらの自由だよ」

 「でも、映画を観なかったら料金を払った意味が無いじゃないですか」

 「それもそうだよ。だから、観るのも良いんだ。周りに人が居るのなら、その人達の邪魔にならない様にしなければならない。でも今はそうじゃない。非日常の様な空間、防音材で静まり返っている筈なのに微かに聞こえる機械音のノイズ、世界にはウチら二人だけかもしれない。この場で出来るありとあらゆる事が許される、誰も観ていないからね。そんな中でだ、樋口少年。何を考え、何をする?」

 全てが出来る筈なのに、何も出来ない。映画を観る為にお金を払ってまもなく上映だというのに、それだけなのだろうか。

 「僕は……」

 「それが常識だよ。完全な正解だし、正解に囚われているからそうしか動けない。ウチらだけじゃない、ほぼ全ての正常な日本人は形の無いものに囚われているんだ。尤も、他の国の人達はその土地の常識があるだろうから、完全にこうではあるとは言えないけどね。さあ、始まるよ」

 名前を聞いた事の無い、リバイバル上映された映画だった。人種も言語も、文化も価値観も全く違う人達が、五つの都市で同時刻で進んでいくタクシーの映画だった。まだ昼下がりな筈なのに二人だけの空間は、呼吸音だけになっていた。気付けば足を組み、気付けば目は乾き、気付けば横顔を見ていた。僕の視線に気付いていたのだろうか、反応は無かった。結局尾崎さんがここに連れてきてくれた理由は、尾崎さん自身が普段から思い悩んでいる事を僕にこうして伝えたかったのだろうか。上映目前までのあの話にも、考えや感情の欠片が散りばめられていたのかもしれない、それを僕に鬱憤発散という名目で共有してくれたのだろうか。終わるのはあっという間だった。暫く立てなかったけど、それまでは二人だけの世界だった。

 「一服失礼」

 映画館を出て、尾崎さんは車の横で煙草に火をつける。

 「まじまじと見てどうした? 吸うかい?」

 「いえ、未成年ですから」

 「真面目だねー、少年。まあ、そう言わないでさ。ホレ」

 そう言って新品の一本を人差し指と中指で挟んで渡してきた。

 「大丈夫ですよ、体に悪いし」

 「えー? じゃあこうしてあげよう」

 持っていた煙草と吸っていた煙草の先端を合わせ、火を付けた。

 「んな無茶な……」

 「まあ、騙されたと思って一口吸ってみなよ」

 しょうがないから本当に一回吸ってみた。馬鹿みたいに咽せたし、その分笑われた。

 「本当に吸った事無かったんだね、ゴメンゴメン。じゃあこの分は勿体無いからお姉さんが吸っちゃうからねー」

 「はい、どうぞ」

 少し落ち着いてから思い出したけど、間接キスってヤツじゃないか。でも尾崎さんはそんな事特に気にしてなさそうに、二本共咥えて吸っていた。やがて壁沿いのスタンド灰皿で火を消して、車に乗り込んだ。

 「次、行きたい所は?」

 「特に無いですよ、着いていきます」

 「そう、じゃあ少年の家まで送ってったげる」

 「いえ、」

 違う、否定は一緒に居たいって事への裏返しじゃないか。

 「ありがとうございます」

 「道案内、よろしくね」

 最後の時間が流れ始める。本当はもっと一緒に居たいのに、本当はもっと知りたいのに。恥ずかしさか、申し訳無さか、寂しさが腹を満たしていく。

 「それで、君は将来何になりたいとかあるのかい?」

 「僕ですか? まだ何も決まってなくて。一応文学部に入ったから、語学活用が出来る方面で進もうかと。尾崎さんはどうなんですか?」

 「ウチかい? 哲学者にでもなってるんじゃないかな?この研究を進めまくって将来本出してみたりとか。赤裸々に書いて『世・綺羅綺羅』とか?」

 「面白そうですね、それ。ケ・セラセラみたいで。出版したら買いますよ、僕」

 「ありがとうねー少年。まあそんな事出来る程余裕は無いんだけどね。でも印税生活とか憧れるよねー。働かなくても良いんだよ? 堕落しても生きていけるのは素晴らしいよ、そう思わないかい?」

 「でも、それまでに努力ってあると思うんですよね。努力した分、返って来るんじゃないかなって思うんですけど、どうなんですかね」

 「残念ながら、努力しても無駄になっていく人はいるよ。何らかの原因があったり、時期も運も悪かったりでね。そうして人は潰れてく、ウチの先輩にも居たよ、そういう人。ウチもその人も親が太い訳じゃない、何ならお互い片親だし。あの人は親の稼ぎもそんなに無い中で必死に頑張って巨大な一山当てようと頑張った夢見がちボーイで、人一倍人を見て人一倍レポート書いて人一倍努力ってものをこなした、けれど結局報われず虚しく一般人になったよ。あの人の親は喜んでいたのかもしれないけど、本人は辛かったと思うよ。正直、死ぬんじゃないかなって位病んでたし。だから、ウチも夢ばっか見てないで現実を見ようと思うんだ。だから、さっき言った哲学者ってのはただの夢物語。現実はウチもただの一般職かもね」

 聞いているだけでも辛いのは分かる。それに、尾崎さんの声のトーンも今日イチで低かった。

 「君には夢を見るなとは言わない、でも現実から目を背けないで欲しいんだ。人が崩れていくのは嫌なんだ、こうやって縁が出来た以上、君にもそうなって欲しくない。かといって、現状好き勝手やってるウチがこういうのも何だけどね」

 「尾崎さんって、この道を歩んで後悔無いんですか?」

 「後悔? 今はまだ無いかな。あるとしたらこれからだよ。大学教員になれるかどうか、とかね」

 結局、未来は運なのかな。努力って意味が無いのかな。考えさせてくれる時間だったな。

 「将来僕も後悔したく無いんで、尾崎さんの言いたい事、全部教えてくれませんか」

 「珍しいね。普通ならウチって面倒なヤツだなって思われる筈なのに、少年はそんなに物好きかい?」

 「今日でなんか変わった様な気がして」

 もう少し一緒に居たいというくだらない欲を誤魔化す為に無意識に守った感情なのかもしれない。結局、自分が好きなだけで終わるのかもしれない。それでも、糧になるって自分が信じなかったら駄目だろう。

 「いいよ。全部ってやっぱり難しいけど、少なくとも今言える事は教えたげる」

 正直、自分にすら嘘をついている。そんな自分が嫌になっていくんだ。どうせ今聞いた事は一年経ったら忘れているんだろうな。利己的な感情だけを優先して、適当言って。

 「やっぱりね、気付くってのは偉大だよ。でも人間観察だけが大事じゃない。ウチらが普段から日常的に行っている事でも、言語化しないと無意識にそういうものだってスルーされていく、そうしないと分からないままの事ってあると思うんだ。言わなきゃ分かんないし、言われなきゃ分かんない、だから気付けない。だから、ウチがこうして伝えないといけない。理解というものの追求が一番大事だよ。樋口少年、今日君は何を知って何を思った……少年?」

 気付けば泣いてしまっていた。自分の情けなさなのか、尾崎さんのありがたさなのか、よく分からない感情だった。質問された事に答えなきゃいけないのに、声が出なかった。

 「ゆっくりで良いよ。なんなら答えなくても良いよ。今この場で答えた所で大した意味なんて無い、君にとって無意味な事にもなっていくかもしれないからさ。さ、着いたよ」

 いつの間にか、自分の住むマンションの前だった。

 「すみません、何も言えずに」

 「良いって。玄関の前まで送ったげるから、行こ?」

 「ありがとうございます」

 素敵な人だった。もう、この人と会う事は無いんだろうか。本心を伝えれば虚しく傷痕残るから、だからせめて、感謝だけでも。言葉の裏に隠した感情になんて、気付かないで。

 「あの」

 気のせいじゃ無かった、振り向いた瞬間にハグをされていた。

 「恋は一瞬かな? 少年。自分に聞いてごらんよ」

 そう言って首を噛まれた。痛さだけじゃない、感情がぐちゃぐちゃになっていく感触。うつろになっていたな、抱き返そうとしたけど、その時にはもう背中を向けて去っていった。

 「またね、樋口少年」

 そうか、知りたくなってしまったそれも、もっと味わいたくなったこれも、全てが宿命で運命だったのか。そうか、あれが魔性の女ってヤツか。



  映画研究会、十月金曜の夜の部室。面白そうな映画を見つけて、夜な夜な一人で観ようと思って来た。下心は微かに残りながらも。

 「おや、こんな時間に御用かな? 少年」




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