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(小説)白い世界を見おろす深海魚 1章(週に一度の雨)


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 窓ガラスに映る自分の姿。その奥には見飽きた夜景が広がっていた。東京タワー、オフィスビル、高層マンション、大学校舎、宗教施設。乱立するそれぞれの建造物が闇のなかで、それぞれの光を放っている。窓に顔を近づけ、目を凝らすと雨が降り始めていることに気づく。光を吸い込んだ水滴がガラスに張り付いていた。

 防音ガラス越し。雨の音は聞こえない。

 代わりに自動販売機から、紙コップにホット・コーヒーが注がれるのが聞こえた。注ぎ終えたことを告げる鳥の鳴き声を真似た電子音。取り出し口の紙コップは大量の湯気を吐き出していた。

 以前、ニュースで聞いたことがある。
 東京は週に一度のペースで雨が降るという。地上を走る車から出た排気ガスの影響らしい。様々な科学物質を含んだ排気ガスは空を昇り、ビルと道路を反映させた灰色の雲となる。それは一週間かけて空気中の水分やチリを吸収し、やがて自らの重さに耐えきれなくなると、雨粒となって地上に還って来るという。

 そんな情報を知ると紙コップの中身が100円コーヒーではなく、排気ガスを溶かした液体のような錯覚をおぼえる。一口飲むと高速道路の周辺を漂う、あの嫌なニオイが舌にまとわりつく。

「なに見ているの?」
 振り向くと塩崎さんがそばに立っていた。
「ずいぶんとガラスに顔を近づけているけど……」
「いや、どのくらい雨が、降っているかな、って思って」
 ぼくの言葉に、彼女は穏やかに笑う。
「そう……久しぶりの雨だね」と、シガレットケースから細長いタバコを取り出して、口にくわえた。

 塩崎さんはゆっくりと紫煙を吐き出し、ぼくは紙コップに口を付ける。
 しばらく無言でそれを繰り返していた。
 コーヒーの合間に、彼女の厚ぼったい唇から漏れる甘い香り。
「昨日は雲ひとつなかったのに。満月が見えたのよ」

 塩崎さんが、沈黙を壊した。
「そうだっけ?」
「うん、きれいな満月」

 雲のない夜には存在するはずの月も、しばらく見ていない。
 そんなことを思っていると普段は気にもしないくせに、分厚い雲の向こう側にある月が恋しくなってきた。

 前回、夜空を見上げたのはいつだろう?  忘れてしまった。

「まだ帰らないの?」と、手首を返して銀色の腕時計を見る。
「うん、明日の朝イチに見積書を出さなきゃいけないクライアントがいるんだ」
 ぼくは口を横に広げて笑ってみせた。
「そう……大変ね」
 ため息をつきながら、彼女は灰皿にタバコを押し付けた。
 白い肌から浮き出ている青黒い疲労に、少しだけ息苦しさを感じる。

「ちょっとヒマができたら呑みにでも行こうね。この前、いい店見つけたの」
じゃあ、お先に……と片手を上げてオフィスに戻っていった。

 入社した当時の塩崎さんとぼくは、もう少し胸の奥に希望のようなものを宿していたと思う。

 広告や社内報の企画・編集を手掛ける今の企業に入社したのは一年半ほど前のことだった。
オフィスビルのワンフロアにある社員150人の会社。
 小さいが就職難といわれている時期に、必死でしがみつくことができた働き口だ。入社一日目の朝、新入社員が一人ずつ自己紹介をしたときのことだ。

 人前に立つことが苦手なぼくは全社員の前で、何度も言葉に詰まりながらあいさつをしたのを覚えている。手の平に汗が滲み、腹の表面が小刻みに震えて声が上手く出なかった。一方彼女は、自然な笑顔で愛想良くこなしていた。

「K大学から来ました塩崎佳代です。社会人になったばかりで、皆さんにご迷惑をお掛けすることもあるかと思いますが、精一杯努力していく所存ですので、よろしくお願いします」

 よく通るが、少し幼さが残る甘ったるい声。
 言葉を摘み取りながらしっかりと明るく、丁寧に述べている姿が印象的だった。要領も人当たりも良い女性で、この持ち前のコミュニケーション能力があれば、こんな小さな会社ではなく、もっと待遇の良い大手に就職できたのではないだろうか……と時々思うことがある。

 新入社員研修が終わると、彼女は希望していた編集部に配属された。
先輩社員が作成する原稿の資料集めからはじまり、すぐに自分でも取材へ行き、大量の原稿を書くようになった。

 ぼくの方は希望していた編集の仕事ではなく、数字に追われる営業部の配属となった。最初の一ヶ月は緊張と焦りで、ろくに既存のクライアントとも話すことができなかった。半年間は新しいデザイン・コンセプトの説明が下手だったり、打ち合わせの時間を聞き間違えたりで、クライアントからのクレームが尽きなかった。

 新しい仕事をなかなか貰うことができず、血圧の高い川田という部長に怒鳴られてばかりいた。

 怒る上司にひたすら頭を下げているぼくを塩崎さんは横目で見ていたらしい。

 帰宅後、たまに励ましのメールをくれた。
 ちょっと嬉しかったが、感情のほとんどは情けなさと恥ずかしさが占めていた。

 同期の社員なのに、どうしてこんなに違うのだろう……
彼女が明るい声を出して「行ってきまーす」と取材に行く様子を見ていると、そんな卑屈な考えが浮かんだ。

「クズ……」「辞めちまえ」という上司の罵声を浴びながらも、この一年半の間、ぼくは会社に居残った。
 周囲から高く評価されている塩崎さんも留まっている。

 入社2年目。
 当初、10人いた同期社員は気がつけば、ぼくと塩崎さんの2人だけになっていた。

 去っていった同期の転職を羨ましく思うときもあるが、ぼくの場合、多分どこの会社に行っても組織の足手まといになってしまうだろう。能力のない人間は、上司の顔色に怯えながら現状にしがみつくしかない。

 浅いため息をつき、こり固まった肩を回しながらオフィスへ戻った。
 クライアントから頻繁に電話が掛かってくる昼間の騒然とした時間とは違い、社員たちは疲れた表情で各自の仕事に取り組んでいた。

 多くの者が無言。

 時折ボソボソとした会話や舌打ちが聞こえるぐらいだ。パソコン、出力機といった機器から発せられる熱が室温を高めていた。
 ここは冬でも暑い。
 社員たちは額に汗を浮かべながらパソコンに顔を近づけている。空調は「環境への配慮」という理由で、本来の定時である18時に止められている。
 疲労と暑さで息を乱しながら、ワイシャツを第二ボタンまで外したり、新聞紙で顔を扇いだりと、それぞれが鈍ってきた思考能力で現状と戦っていた。

 早く帰りたい。
 でも一日の過剰な仕事量の多さに、ほとんどの社員が帰れないでいた。
 疲労で頭の回転が鈍くなってもやるしかない。
 無条件にやってくる明日までに、終わらせなければならない仕事が大量にある。この状況のなかで、少なく割り振られたノルマを済ませた新入社員も帰れないでいた。

「お先に失礼します」と言える雰囲気ではないのだろう。

 先輩社員の様子をうかがいながら、手持ちの資料をペラペラめくり、終電の時間を待っている。同じ部署の先輩が「帰れ」と言ってくれたら、新入社員は喜んで帰る。でも、そんな言葉は出てこない。

 こんな時間でも、クライアントから突然仕事が舞い込んでくることがある。そんなときのために、雑用として会社に残しておくようにしている。

 もちろん残業代なんて出さない。
 ぼくはデスクに戻り、ノートパソコンを再起動させた。

 明日、クライアントである外食チェーン店に持っていく見積書のファイルを開く。七桁に並んだ数字。その上にクライアントの会社名と『新商品PR冊子代』と入力する。

 間違えはないだろうか……。

 数字を一つずつ確認し、もう一度電卓を叩いて請求する金額を確かめた。時刻は12時を回っている。終電時間が近づいてきていた。ぼくは急いで見積書をプリンターから出力し、社名が印刷された封筒の中に納めた。

つづく

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#創作大賞2023


リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。