(小説)白い世界を見おろす深海魚 30章(瞳に映る湖)
【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎は、ライター職として活躍している。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーンビジネスを展開する企業から広報誌を作成する依頼を受ける。
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30
都営線に乗って会社の最寄りの駅に降りると、憂鬱が倍増した。嗅ぎなれた冷たい夜の空気を鼻から目一杯吸い込むと、気分とは裏腹に空腹感が強くなった。世間一般では“夕食”とされる時間がとうに過ぎていた。オフィスへ戻る前に、なにか食っていくか……。
横断歩道を越えたところにある吉野家に目がいったが、スーツを着た男性達で席が埋まっているのがガラス越しに見えた。効率的に作られたカウンター席から、次々と出されるドンブリをかきこむ姿を見ていると入る気をなくす。
代わりに自動販売機で缶入りの紅茶を買って、オフィスビルの敷地内に設置してある外のベンチで飲んだ。仕事を再開する前に、ちょっとだけ気の抜ける時間が欲しかった。
紅茶の甘さが舌を優しく包み込む。暖かさが体内に広がり、吐く息に白さが増す。目の前にある48階建てのビルを見上げると、ぼくが働いているオフィスは当たり前のように照明が灯っていた。職場の様子を思い浮かべながら、もう一口、紅茶を飲む。
「安田くん」
突然、名前を呼ばれて緩みきった身体が硬直した。その拍子に持った缶から熱い紅茶が飛び出て、手にかかる。
「熱ッ」と思わず叫ぶ。前にもこんなことがあったような……。
見上げるとリクルートスーツに身を包んだ女性がいた。
「ミユちゃん?」
目の前に立っていたのは上山のカノジョだった。ボブ・ショートの髪と真っ黒のリクルートスーツ姿。昨日、見た格好とは違っていたため、一瞬誰だか分からなかった。同じ姿でも、塩崎さんのように社会にこなれた感じの女性が出す色気はなく、どこか着慣れていない窮屈な感じがした。
「どうしたの? こんなところで……」
ミユを見上げた。
「え? あの……」と彼女は困惑した顔で髪をかき分けた。白く小さな耳が水銀灯に照らされる。
「たまたま近くに寄ったから。タカアキに会えないかと思って……」
タカアキ……上山の下の名前か。照れたように笑う彼女の顔に、胸の奥が引き絞られる感覚がした。なぜか、ぼくまで恥ずかしくなり、鼻の頭がかゆくなる。
「あっ、あぁ……上山なら、まだ仕事してんじゃないかな?」
「そう」
ミユは、手に持ったハンドバッグを両手で握りしめた。唇を固く結び、うつむく。
「ちょっと待っててくれる? 今、呼んでくるから」
ぼくは立ち上がり、手に持っていた缶をゴミ箱に放り込んだ。
「いや、いいよ。仕事の邪魔をしたくないから」
うつむいたまま喋る彼女に、本当はなにか大事な用があるんじゃないかという考えが浮かんでくる。まぁ、ぼくにとってはどうでもいいことだけど。
「じゃあ、帰るね」
「あっ、じゃあね」
背中を向けたが、歩こうとしない。しばらくなにか考えているようで、それが歩みを止めているようだ。
「あの……」「やっぱり……」
ミユとぼくの言葉が重なる。先に喋って……と、ぼくは手で合図する。
「あのさ、よかったら、今度話したいことがあるんだけど」と、目を向けてきた。上向いたまつげの奥にある夜の闇を吸い込んだ瞳は森林の奥に眠る湖のようで、ミユという存在が、ひどく場違いなものに感じる。こんなビルに囲まれた場所ではなく、もっと他の、どこか遠い場所にいるべき存在じゃないのか……という考えが浮かんでくる。
「あぁ、話したいことって、なに?」
彼女は「後で言うわ。電話してもいい?」と目をそらす。
「あぁ、そう」
ぼくは立ち上がり、ミユに携帯電話の番号とメールアドレスを教えた。
つづく
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