【小説】白い世界を見おろす深海魚 82章 (暗転)
【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーン(マルチ)ビジネスを展開する企業『キャスト・レオ』から広報誌を作成する依頼を高額で受けるが、塩崎は日々の激務が祟り心体の不調で退職を余儀なくされる。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田はどちらも理不尽と欲望に満ちた社会に棲む自分勝手な人間で構成されていることに気づき始めていた。本当に純粋な心を社会に向かって表現できるアーティストのミユは、彼らの利己主義によって黙殺されてようとしている。
傍若無人の人々に囲まれ、自分の立ち位置を模索している安田。キャスト・レオの会員となっていた塩崎に失望感を抱いきつつ、彼らの悪事を探るため田中という偽名を使い、勧誘を目的としたセミナー会場へ侵入するが、不審に思ったメンバーによって、これ以上の詮索を止めるよう脅しを受ける。だが、恐怖よりも嫌悪感が勝っていた。安田は業務の傍ら悪事を公表するため、記事を作成し山吹出版に原稿を持ち込み、出版にこぎつける。大業を成し遂げた気分になっていた安田に塩崎から帰郷するという連絡がくる。さらに、キャスト・レオの中傷記事の筆者であることが勤め先に知られることとなる。
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82
ほんの一瞬、まばたきをしたつもりだった。
でも実際は違ったらしい。どうやら長い間、目を閉じていたようだ。ぼくは、いつの間にか別の場所へ運ばれていた。自分の両足が前に伸びているのが見えた。上半身は壁に寄り掛かった状態で。
オレンジ色の救護服を着た男達に取り囲まれている。目を閉じてから開くまで、どれくらいの時間が経ったのだろう。5分か、10分か……。
「動かないで」
無意識に立ち上がろうとしていたみたいだ。救急隊の中年男性に肩を押さえつけられる。
額がくすぐったい。触れると、生暖かい血が指先に付いた。
痛みはない。
それよりも、まだ夢の中にいるような、ぼんやりとした感覚があった。
右横にストレッチャーが置かれる。長方形の白い布にアルミ製のパイプが両側に括り付けられている。これに乗せられるのか。
周囲を見回す。救護隊の側に眉をしかめている川田部長。その隣で青田さんは両手で口元を抑えていた。
意識があるのに、担架で運ばれることに恥ずかしさを感じた。
「自分で歩けます。大丈夫です」と、横になるのを拒否していると救護隊の一人がうなずく。
「分かった。分かったから、血圧だけ計らせて。そしたら歩いてエレベーターまで一緒に行こう」と右腕を捕まれる。
その間、もう一人の救護隊によって濡れた脱脂綿を額にあてられる。ゴム手袋に包まれた指に摘まれた脱脂綿には、驚くほど大量に赤黒い血が付着していた。
自分一人でも十分歩けたが、救護隊は離れてくれなかった。両脇を支えられるようにしてエレベーターへ向かう。このビルで働いている人達だろう。スーツ姿の人たちが好奇心に満ちた視線を投げかけてくる。それに混じって睨みつけるような斎藤さんの姿も目の端で捉えることができた。
地下の駐車場に救急車が停まっていた。
車上に取り付けられたランプの光が、ぼくの顔を撫でる。高いビルの屋上に取り付けられているヘリの接触をさけるための、あの赤い光を思い出す。
救急車に乗っても、ぼくは横にはならなかった。両側に取り付けられている折り畳み式の椅子に座る。
正面には川田部長が腕を組んで座っていた。うつむいている。上司である以上、搬送先の病院まで着いていく義務があるのかもしれない。
「ご迷惑をお掛けして、申し訳ございません」
頭を下げるとさらに血が流れ出した。急いで手渡されたガーゼで傷口を押さえつける。
「面倒なヤツだなぁ」
「すみません」
目を伏せると埃まみれの革靴が目に入ってくる。もう一ヶ月ぐらい磨いていない。本当に自分は、どうしようもない人間だ。
「病院に着いたら、とりあえず俺は会社に戻るからな。いちいち付き合っていられるほど、ヒマじゃないんだ……後は、お前一人で何とかしろ」
「はい……」と自分でも情けなくなるぐらい、か細い声で返事をする。
病院に着くと、川田部長は胸ポケットからタバコを取り出した。
「診断書は貰っておいた方がいいかもな。じゃあ、落ち着いたら一度会社に連絡しろよ」
そう言って、救急車を降りる。
大きな欠伸をした後、忙しそうに動き回る救護隊に向かって、喫煙所の場所を訊いていた。
つづく
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