八咫烏シリーズの感想:なぜなら彼はもう英雄(化け物)なのだ
阿部智里さんによる通称・八咫烏シリーズの第一部をようやく読み終えたので、すこしだけ感想を書きます。ネタバレしかないです。
『烏に単は似合わない』を読んだとき、とてもわくわくしてリアルタイムですこしツイートなどしていて、でも読み終えた瞬間にすべて消しました。恥ずかしくなったから。わたしはなんの先入観もなく読み始め、だから主人公は東の姫だとしか思っていませんでした。シンデレラストーリーだ!とめちゃくちゃテンションが上がり、徐々に受け入れられていく様子の姫が誇らしくてわくわくしたのです。不遇だった人間が本来の才を見抜かれてのし上がっていく様は、胸に迫ります。うれしい。そんな調子で感想をこぼしながら読んで、最後は呟く暇もないまま読み終えました。余韻にひたる間もなくやったのがツイ消し。読み終えた方はわかると思います。
しばらく2巻にあたる『烏は主を選ばない』を読む気になれませんでした。混乱と、恥。自分の浅はかさ。見事に裏切られて満足していたというのもあります。それでもどうしてもあの世界にもう一度、と『烏は主を選ばない』を読み、読んでよかった〜!と心底思いました。単純なので。今でもいちばん好きなのがこの巻です。ほのぼのしてる。主従ものが好きというのもあり、若宮の風格、それに才ゆえに気に入られる雪哉がかわいかったです。こてんぱんにやられたにもかかわらず、あいかわらずシンデレラストーリーが好きです。
この巻で、雪哉はそれでも子どもらしさがあったなと今になって切なくなります。彼の真実の子ども時代は赤ちゃんのときだけだったのかなとさえ思うけど。
2巻でびっくりしたのが時間軸です。ちょうど『烏に単は似合わない』と同時進行しているのです。姫たちが若宮の訪を待ってそわそわしていたとき、若宮は雪哉をつれて朝廷でぎりぎり生き残り八咫烏ぜんぶを救うためにできることを探していたわけです。このときにはもう、作者の「物差しの違い」を見せつけてきていたなと思います。
スケールの違い。……というよりは、まさに物差しの違いです。
6巻まで読み、強く感じたのが「物差しの違い」です。アリとゾウの生き様を同じ物差しでは測れない。ゾウがいつものように歩く一歩でその日をいつものように生きていたアリはなすすべもなく死ぬ。アリが生涯かけて口に含む食料はゾウにとっていったい何になる? 人間でもそう。先進国の上流階級の人間と、途上国の貧民窟の人間が、同じ物差しで日々の些事を考えているでしょうか。
八咫烏シリーズでいちばんぞっとしたのが、5巻と6巻の相関です。もしも『弥栄の烏』を先に読んでいたら、『玉依姫』は途中で放棄していたかもしれません。あるいは、ラストにかけての神々があまりにも自分勝手だと思い、憎く、恨んでいたかもしれません。『玉依姫』では、死んだ八咫烏は死んだ八咫烏でしかない。でも、『弥栄の烏』を読んだ読者には、それが雪哉の唯一無二の親友だと突きつけられる。『玉依姫』たちが名前も知らない遺体が、どれだけのストーリーをもって生きてきて、これからも生きていくはずだったか。やりきれなくて泣きました。『玉依姫』を読んでいたときは、ああ八咫烏が死んでしまった、若宮を庇ったのだから重傷者はきっと澄尾か、もしかしたら雪哉かもしれない、くらいにしか思わなかったのに、『弥栄の烏』で重傷者が澄尾で茂丸は黒こげになったひとつでしかないとわかり、呆然としました。『玉依姫』を読んでいる間は、まさか名前のはっきりした、『空棺の烏』でしっかりストーリーの描かれたキャラクターたちが「数いる八咫烏のひとり」として存在しているとは思ってもみなかったんです……。でも『弥栄の烏』を読めばそりゃそうだと思う。長を守るために信頼できる者を周囲に置くのは当然のこと。でも、このうえない不条理を感じました。ああ物差しが違う、と思いました。
読者ですら感化されてぐにゃぐにゃになる物差し。
入内することに人生をかける姫たちの刹那と、永続して自分の生きる山内を守りたい若宮たちのその生活の物差しの違い。簡単に烏を食料にできる猿と、おままごとのような朝廷で自らの保身に走る宮烏たちの物差しの違い。勁草院で一生懸命に青春し卒業を目指す院生たちと、勁草院を政治の一部として扱った雪哉の見据える物差しの違い。疑似母子ごっこであたたかな成長を遂げていく椿と志帆と、そのために瀕死の状態にある八咫烏たちの、命の重さという物差し。
みんながみんな、同じ条件で生きることはあり得ない。姿形が違えば、寿命も違い、思想も違う、目的も違う。種族が同じでも違いがあるのに、別種が同じような生き方をするはずがない。
不条理。
ひとつの理想のために絶望をみるものがあり、その絶望を知らずに己だけと絶望するものがあり、またその絶望を憎悪に変えて生きる信念があり、理想を叶えるために絶望を捨てるものがある。
世界は多面性をもちすべての面をみることは叶わない。
己の信念に従って生きること。
何が正義かとか、そんな陳腐なものでは到底ありえない話でした。
第一部を読み終えたとき、宇宙にほっぽりだされたような気持ちになりました。これはノンフィクションではないし、わたしはこれを娯楽として読んだ人間である。でもよくわからなくなりました。
物語のラストに、雪哉が涙をこぼすシーンがあります。正直、第二部があるから受け入れられた描写でした。これでおしまい!うつくしい終わりでしょ?と言われたら、そんな馬鹿な、と途方に暮れていたと思います。
わたしは雪哉が好きなのです。たぶんみんな好きだと思いますが……。たびたび澄尾に対しても「お前かわいいな?!」とはなりますが、どうしても雪哉に惹かれずにはいられないのです。巧いキャラクターだなと思います。それと同時に、愛すべき「悲壮な覚悟を背負った」男の子なのです。才に溢れたシンデレラボーイだったはずが、成長していくにつれてさらに目を離せなくなっていきました。『弥栄の烏』では、彼の内心の描写がありません。茂丸はもういない。最後の涙の意味は?
最後に、雪哉についてすこしだけ。
この子は、ぼんくらであると決めたときから、そして数多の八咫烏を扇動したときから、もう永遠に自分を許さずに生きていくのだろうと思いました。読者にはあからさまに伝わってきていた彼のやさしいところ、もろいところ、受け入れられたい気持ち、それらを茂丸とともに失ったのだろうと。彼の非情になる決心を理解する唯一の存在が彼の世界のなかから喪われたのは本当に悲しいこと。
もしも若宮夫婦の姫が雪哉の心を慰める存在になりえたとしても、彼の悲壮な決意はもう二度と戻らないんじゃないかな。彼のしたことは不可逆で、彼はもう英雄になってしまった。彼本人の言う「化け物」に。
第二部がどうなるのかさっぱり検討もつきませんが、心待ちにしています。