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ブカレスト留学 Week8-共通の過去としての「革命」
「革命」がこんなにも身近なできごとであることに、はたと気が付いて、その衝撃の余韻を引きずるこの1週間でした。ルーマニアでは共産主義体制へ終わりを告げた1989年の革命から35年が経ちます。革命後に社会の体制を整えここまでくるためにどれほどの労力をさかなければならなかったのか。
はじめに
「革命」というできごとに対する、私とルーマニアの人々の距離感の違いに気が付かされたのは、卒業論文の準備でルーマニア国内のマイノリティの権利に関する文献を読んでいる最中、Loredanaという歌手のコンサートに参加し1989年の「革命」の再現を見た、その瞬間でした。
そもそもルーマニア革命とは
本当にざっくりとルーマニア革命を紹介してしまいますが、Youtubeに当時の映像やわかりやすい解説があるのでぜひ気になった方は見てみてください。
チャウシェスクとその奥さんの実質的な独裁政権下にあった共産主義体制の1989年12月のルーマニア、ティミショアラ(Timișoara)というルーマニア西部の都市で始まった抗議運動が激化、チャウシェスクはその暴動に参加した民衆をルーマニア国民に向けた演説で非難、その後チャウシェスクが首都ブカレストで開いた集会で観衆がブーイングに転じ治安部隊・軍と衝突、ルーマニア全土に抗議運動が広まりチャウシェスク夫妻はヘリコプターで脱出を試みるも軍に捕えられ異例にもその場で裁判にかけられ銃殺による死刑執行、それが1989年12月25日、クリスマスの日でした。
ルーマニア国内のマイノリティの権利-チャウシェスク統治下と後
ルーマニア国内には多くの異なるエスニシティのマイノリティの方がいます。ロマの方や、特にトランシルヴァニアに多いハンガリー系やドイツ系の方などです。チャウシェスク統治下の共産主義体制では、彼らの母語である言語で教育を受ける機会が制限されていたり、経済状況の悪化によって自言語教育を縮小されたり、マイノリティの権利はないがしろにされているような状況でした。それが一転したのが1989年の革命の後のことで、ルーマニア国内のマイノリティの権利という領域においても1989年は変革の年として扱われています。
民主主義体制の構築の中で、マイノリティの権利に関する国際的な取り決めであるコペンハーゲン文書や、1991年ルーマニア憲法におけるマイノリティの権利の明記などがあり、いまだ多くの課題はありますが、徐々にマイノリティの権利が認識されてきました。
ルーマニアのマドンナ、Loredanaという人物
ブカレストで知り合った日本語を学ぶルーマニアの友だちにおすすめされて、Loredana Grozaというルーマニアのマドンナ的存在の歌手のコンサートに行ってきました。私が「民族音楽や踊りが好き」という話をしていたので、さまざまな音楽スタイルを模索しルーマニアやロマの民族音楽を取り入れた曲とパフォーマンスを見ることのできるLoredanaのコンサートはぴったりだよ、と紹介してくれました。そしてなんとその友だちはコンサートにダンサーとして参加しています!すごすぎます!
今回のコンサートは、Loredanaのこれまでの人生を辿るような意味合いを持っていました。1970年に生まれた彼女はティーネイジャーで出演したタレントショーで優勝するなど注目を浴び、共産主義体制のルーマニアにとって格好の宣伝材料として、パフォーマンス以外の外出を制限され利益も全て政府に持っていかれるような海外凱旋をさせられていました。共産主義による搾取は1989年の革命によって終止符が打たれ、彼女が晴れて自由の身で復活したのが、今回のコンサート会場であるSala Palatuluiでした。
壮大なオープニングの後、彼女のティーネイジャーとしての活躍を彩る曲が歌われ、会場全体があたたかく盛り上がってきたと思ったその瞬間、ステージに軍服を着た兵士が乱入しLoredanaとダンサーに銃を突きつけました。
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想定もしていなかった演出のあまりの衝撃に胸が抉られました。パフォーマンスだとしても誰かが銃を突きつけられている場面を見るのは胸がきゅっと締め付けられます。
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緊迫した空気の中、Loredanaが兵士に歩み寄り銃を下ろすよう諭すような仕草をして、武器を手放した兵士ともども民衆が戦車を模した階段によじ登り、中央の社会主義のシンボルが円形に切り抜かれたルーマニア国旗を振りかざし、革命の成功を喜びました。
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中央の社会主義の紋章が円形にくり抜かれた国旗はルーマニア革命だけでなくハンガリー革命などにおいても使用されていました。パーフォーマンスの後ろでは、1989年の革命当時の実際の映像が流れ続けていました。
共産主義の記憶と革命後に生まれた若い世代
ダンサーとして、上の革命の演出で民衆の1人を演じていた友だちは、「革命の後に生まれた私がこの場に立っていいのか、最初は戸惑った。でも、伝えないと過ちが繰り返されるから。」と語ってくれました。
彼女の両親、祖父母は革命を生きた世代です。彼女の父は、「革命の日にあの場にいたのだ」と、友達に語ります。彼女の祖母は、スーパーに行くと「石鹸を10個買わずにはいられない」そうです。共産主義の物資不足のメンタリティから抜け出せないのだそうです。
革命後に生まれ歴史上の出来事としてしか知らない日本で教育を受けた私と、革命を生きた家族がいて彼らの実体験を聞き記憶を目の当たりにするルーマニアの友だち。「革命」というできごとの大きな差がある感じ方に、彼らにもっと近づきたい、ルーマニアの文脈における「革命」をもっと理解したい、と強く思いました。
今回は、私の頭の中をぐるぐると巡って離れなかった思いを描かせていただきました。コメントも待ってます!今週は金曜日からClujに踊りに行くので、いつもより投稿が早めでした。お読みいただきありがとうございました!