
2度目のディクシャ。本当の自分に触れる。そして怒りを知る。
今日は、私が2度目のディクシャを拝受した後、本当の自分に出会うことができた、
その片鱗に触れることができたんだろうなぁ。。
と感じた体験を書かせていただきます。
◎1度目のディクシャの体験はこちらを。。
◎子供がディクシャを拝受した時の体験はこちらを。。
よろしければご覧下さい。
子供がディクシャを拝受した、その3ヶ月ほど後に、私自身が2度目のディクシャを拝受しました。
私は3列目に座っていたのですが、1列目の先頭の方に秘法の伝授が始まった途端、不思議なことがありました。
胸の真ん中(ハートのチャクラ?)に強い痛みが起きて。。
その痛みのところからずっと下に下に引っ張られるような感覚が続きました。
すごく強い感覚で「怖い!」と思いました。
でも目を閉じていて(秘法の伝授なので見てはいけないのです)、周りは見えないけど「すぐ近くにヨグマタジもいて下さるので大丈夫!」って気持ちを落ち着けて。。ずっとお守りのマントラを唱えていました。
どんどんどんどん下に引っ張られて、私は床に座っているのにその床を通り越してまだまだ引っ張られる感覚がするから、床が無いみたいになって。。
宙に浮いている感覚がしました。
「え!?」って驚いたら、引っ張られる感覚が弱くなって、私はまた床に座っている感覚に戻りました。
引っ張られる感覚は弱まりましたが、しばらく続いていたと思います。
その後、その体験の衝撃も大きく。。伝授が進むにつれ何か感極まるものが湧いて来て、私はまた泣き出しました。
そうこうしているうちに私の秘法伝授の番になり、なんかすごく安心するんだけど、胸の痛みの体験が衝撃的過ぎて。。またぐちゃぐちゃの気持ちで号泣していました。
参加者全員の伝授が終了し、目を開けると。。自分の手のひらの上にくしゃっとしたティッシュが置いてあって、伝授の時にヨグマタジが私の涙を拭いて下さっていたことに気が付きました。
その優しさが嬉しくて感激して、また号泣しました(泣笑)。
冷静になって後から考えると、あの時「下に引っ張られる感覚」と思ったけど「逆」で、私の魂(違うかな?何かよく分からないけど!(笑))が上に上にのぼって行って、浮いた感覚がしたのかなぁと。。思いました。
それで「あの時私はどこに行ってたのかな。。」って疑問が浮かんで、「宇宙かな。。」ってぼんやり感じました。
子供がディクシャを拝受したのと同時くらいに、10年間専業主婦だった私は、仕事復帰していました。
それから3ヶ月で私の2度目のディクシャだったのですが。。
高齢者施設で、パートタイム勤務ですがケアマネジャーの仕事に就かせていただきました。
それも全てヨグマタジのお計らいだと自然と理解できました。ヨグマタジはそれが私に分かるよう、それを全部私に見せて下さいました。
10年のブランクがあり浦島太郎状態で。。試練だと感じること。。だらけだったのですが。。
ヨグマタジのお計らいだと信じることができたからこそ、全て学びで必要なことが起きていると強く信じて、前に進むことができました。
結局一年間勤めて円満退職しましたが、後から振り返るととてつもなく浄化が激しかった、という印象です。。ほんとに辛い、苦しい、悲しいと思うこと。。だらけだったと思います。
でもその時は何も考えられず、ただただ必死で、ヨグマタジにすがり、祈り、力をいただいて。。
乗り越えた先には本当に本当に美しい世界が広がっていました。
まず勤務して3ヶ月後のそのディクシャの後しばらくして、私は本当の自分に出会うことができた、その片鱗に触れることができたのだ、という体験をさせていただきました。
高齢者福祉の現場に仕事復帰しましたが。。
それまでの修行によって、今まで鎧で固めて強がってがんばっていた私はもういなくなってしまっていたようです。
生まれて初めて、鎧のない素の自分で仕事に向き合ったのだと思います。
そうしたら、心配で不安で怖くて。。すごく自信がないような気がするのです。
ずっと自分を守ってくれていた鎧が。。いつの間にかなくなっていたのだから。。当然かも知れません。
10年ぶりの現場ということで色んなことが変わり、知識や記憶も曖昧で、本当にこれでいいのかなって思うのです。
また、勤め始めた3ヶ月の間に私自身がミスをして、怒られたりもしました。
施設内で大きな問題も発生したりしました。
でも自分のミスには素直に謝罪して、自分ができることを精一杯するしかない!って真摯に向き合うことができたと思います。そして、問題解決にも精一杯取り組めたと思います。
ヨグマタジに祈りながら、すがりながらただただ必死でした。
そうしたら、予期せぬところから思わぬ助けが入ったり、とても優しい労いの言葉を色んな方からいただけたり。。
結局全て元に戻って、何もなかったかのように丸く収まりました。
その後には、ただただ優しい「愛」が降り積もっているという感覚だけが。。
確かにそこに残っていました。
この世の目に見えるものは全部「幻想」で、「愛」しかないって本当なんだなぁ。。って、その時体験させていただきました。
神の愛を知らず、自分で守らなければとエゴで固めた必死の自己防衛で。。私が身に着けていたその鎧の大部分をヨグマタジに溶かしていただいていたことで。。
仕事への向き合い方?仕事の仕方?も全然違っていたと思います。
でも何が違うって具体的には言いにくいです(笑)。
もう、「がんばり方」が分からないと思いました。
ただ、目の前にあらわれることに真摯に向き合う。。それしかできませんでした。
修行する前がどうだったのか、具体的によく分からないしあまり覚えていないのですが。。とにかく違うのです。
「鎧を着けた自分」と「素の自分」では
「世界の見え方」がまるっきり違うのでしょうね。
そしてそれが怖かったです。
今までの仕事の仕方?じゃない自分に対して心配とか不安とか恐れとか疑い。。たくさん見えました。
「私、大丈夫かなぁ?」みたいな。。
でも、その仕事でミスをした時もそうなのですが、こんな私にみんな優しいのです。
怒る人もいたけれど、その人もそういう役割の人なのだとよく分かりました。私にとって、みんなにとって、必要な人。そこからの学びはとても大きいです。
でも優しさすら、その時の私は怖かったです。
こんなに自信のない私じゃ、また怒られて優しくされなくなるかも知れないとか。。いただく優しさ自体を疑うし、私でいいのか、これでいいのか、
私はここにいて安全なのか。。
ほんとに怖がりで怯えた、自己防衛だらけの私を。。
ヨグマタジはその時、嫌というほど見せて下さいました。
表面的には怯えた私なんか見せずに、ただただ目の前のお仕事や他のスタッフ、ご利用者様と向き合っていました。
でもマインドの底の方ではそんな不安、恐れ、疑い。。色んなネガティブなものが動いているのがよく分かりました。
昔の私では気付けないと思います。
ネガティブなものを見ないフリし続けて来た私だから。見ないフリをしてることにすら気付かない私だったから。
日々の瞑想修行の賜物だと思います。
瞑想で感じる静かな意識(本当の私)とは違う「異質」なもの(本当の私じゃないもの)に敏感に気が付くことができるのだと思います。
だから私はずっとエゴやカルマを抱えたままだったのです。でもみんな優しくし続けてくれる。
嫌な思いもするけど、それも結局学びをくれていて、それでやっぱり私に優しくてあたたかい、ずっとそうあり続けてくれる。
マインドの底で卑屈であり続ける私に、みんな懲りずに優しい。
「なんでこんな私に優しくするの!」「優しくしないで!」って腹が立つくらい、情けなくて申し訳ないくらい。。「罪悪感」だと思います。
みんな、私が嫌がって逃げようとしても、追い掛けて来てつかまえて、執拗に優しくする。。みたいなイメージです。
私はその「優しさ」と「罪悪感」から、逃れられないのです。
その時まだ、ヨグマタジのことを職場の誰にも伝えられていないのも辛かったです。
みんなヨグマタジのことを知らず、必死で一緒に仕事をしてくれて、優しい。。
私なんか、結局何があっても幸せなのに。。
ヨグマタジが彗星のごとく(!)あらわれて、絶対に助けて下さることを。。私は知っているのに。。
「なんでヨグマタジと繋がって幸せな私が、何も知らずがんばっているみんなに優しくしてもらうのか」「みんな知らないんだから、伝えるのは私しかいない。繋がって幸せなくせに伝えてもいなくて、どうして優しくしてもらえるのか」「それでも平気なのか」とか。。
そんな思いもめちゃくちゃ大きかったです。
それも「罪悪感」だと思います。
私にとってヨグマタジとはそれくらいのご存在なのです。分かりにくいと思います。。
みんなの優しさに感謝しながら。。同時に怯えて疑って心配して。。そんな自分の不甲斐なさとみんなの優しさを、家に帰っては、何度も何度も思い出して疲れ果てるくらい、罪悪感に泣き枯れるくらい。。だったと思います。
ほんとにヨグマタジなしじゃ無理だと思います。
かつて、精神分裂病と呼ばれていたその症状は。。
こんな感じなのかなぁと思うくらい。
そんな日々を、祈りと瞑想と共に重ねて。。
。。職場である時、安心して幸せだと感じたと思います。。その時恍惚(と言われているようなもの?)に包まれていました。。
初めてそれを意識したように思います。
不思議な感覚で。。そのまま家に帰りました。
でも何かが違うと分かっていました。
昔から私の逃げ場所だったベランダの前に座って、ベランダに咲く色とりどりの花に目をやりました。
その時。。
その花と、そこに燦々と降り注ぐ太陽の光の輝きのあまりの美しさに見惚れて。。
やはり全部、自分の鏡なのだと気がつきました。
ほんっとにそれは感動的な気づきでした。
涙が溢れ出しました。
その光の輝き、みんなの優しさ。。
それも全部私だったのだと分かりました。
そして、これまで私が生きて来て、もらった優しさ、目にした美しい光景、子供達が産まれた時からずっともらい続けている、その純粋で真っ直ぐな可愛らしさ、周囲の人達と交わされる何気ない、あたたかいやりとり。。日常の中に自然と輝く幸せの粒の一つ一つが。。全部私なのだと分かりました。
ヨグマタジに鎧を溶かしていただいて、素の自分になった私は、無力で自信がなくて、何もできないと感じていました。
でも、何もできないと思っていた私は、何もしてないはずなのに、そのままであるがままでこんなにもこんなにも、誰かに優しさを、あたたかさを、光を。。渡すことができていたのだなぁと思いました。
だって、みんな自分の鏡だから。
私はそれをずっともらっているから。
あるがままってこういうことか!こんなにもこんなにも、あるがままでいいのか!って驚きました。
そしてそれは、私だけじゃなくてみんなもそうなのだと分かりました。
そして、それを感じている私の側に、大きくてあたたかい。。言わば空気みたいな何かが。。「ある」ことに気がつきました。私はそれに包まれていました。
私はそれが
「神様」で「ヨグマタジ」で「本当の自分」だと感じました。
私はこの宇宙に、神から分かれて生命として誕生したその時から。。
無意識の所でずっと探し続けていた
「本当の自分」に、
やっと出会えたのだと思いました。
私はそれが足りないと思って、
ずっとずっと探し続けていたけど。。
ほんとはこんなにも近くに、
そして片時も離れることなく
ずっと側に、いてくれたんだと分かりました。
嬉しくて嬉しくて嬉しくて、たくさん泣きました。
でもしばらくして、自分の内側(「腹の底」という表現が一番ぴったりだと思います。。)から、「どす黒い」ような怒りが湧いて来て。。
少し混乱しました。。
そして私は、私は今まで「本当の自分」に対してこんなに怒っていたんだ。。と気がつきました。
探しても探しても見つからない。
呼んでも叫んでも来てくれない。
待っても待っても現れない。
「ここ」に「いない」。
迷子の子供が母親を探し回るみたいに、捨てられた恋人を思って泣き叫ぶみたいに。。私はめちゃくちゃ悲しくて、めちゃくちゃ恨んでいたんだと。。知りました。
その頃、ヨグマタジのお言葉で
「会えない恋人を探すように悟りを求めるのです」というようなお言葉を目にしていたと思います。
正にこういうことなんだなぁと、納得しました。
私が「本当の自分」を探す場所を間違っていただけでした。外側ばかり探して、自分の内側にいるとは知らなかったのです。
「灯台もと暗し」
ずっと、こんなにも近くにいてくれたとは、
思いもしなかったんだなぁと、思いました。
誰もそれを知らないから、
誰もそれを教えてくれない。
。。そうとは知らずに
どこにもぶつけられない壮絶な怒りを。。
暴れ回らないように手なづけながら
自分の子供のように抱えたまま。。
「本当の自分」を
ずっと探し続けてる、ずっと待ち続けてる、
寂しくて悲しくて不安で孤独だった。。
それまでの自分を思って、また泣きました。
この時、私の宇宙にいる、怒っている人達の気持ちが分かりました。
みんな、まさか自分の中にこんな怒りがあるとは知らないだろうなぁと思いました。
怒りの本当の理由が「見えない」から、
「見える」何か理由になりそうなこと、
「分かる」何か理由になりそうなことを
見付けて来ては、そこに怒りをぶつける。
その時一時的には、怒りが発散できた気持ちになって小さな解放が起きるけど、その人の怒りを受けた人には、また怒りや悲しみが生まれる。
その人はまたそれをどこかにぶつけるか、自分の内側に仕舞い込んで、自分や他者を傷付ける。
最初の人も一時的な解放に喜んでも、本当の理由はまだ根本的に解決されていないから、またその人は怒りをぶつける別の対象を外側に見付けて、またぶつける。
そして、また同じ繰り返し。。
そのからくりを知らない人がほとんどだと思います。
そうして、
網の目状に怒り、悲しみが広がって行く。
うまく行かなくて当然。
そりゃ果ては戦争になってしまうよ。。
なんとか持ち堪えているのは、神のお力の偉大さでしょう。
例えそのからくりを知っていたとしても、
神様からもらう大きな大きな愛のパイプがなければ、怒りや悲しみは完全には溶けないと思います。
怒りや悲しみが広がらないようにと自分の中に仕舞い込んで、結局、自分を傷付けてしまう。
自分を傷付けることは、他人を傷付けることよりも体裁は良いかも知れません。
常識的に見れば。
でも同じことだと思います。
ほんとにみんな一つだから。
自分も他人も傷付けてはいけないのです。
じゃあ、今度は自分を傷付けないように。。
と思うと、また他人を傷付ける方に傾くし。。
ほんとに人間の思考だけでは、バランスがとれないと思います。本当に神様の領域。
それほどまでに、私達人類がこれまでに積んだカルマは深いのです。
そのからくりを「知識」として知っただけでは、神の愛をほんとに直接じゃぶじゃぶ浴びるくらいじゃなくちゃ。。
その複雑に絡み合った重たいカルマを溶かすことは難しいんじゃないのかな、と私は思っています。。
怒り、悲しみを広げて行くのではなく、
積極的に愛、幸せを広げて行く時が来たのだとサマディマスターが仰るのだから。。
それは神のお言葉でしょう。
私は、ヨグマタジのお言葉以上に信じられるお言葉はないと思います。
それは私の直感で、その感覚が一番大切だと思います。
でも外側の世界の、ヨグマタジの肩書き、功績、実績だけを見ても、ヨグマタジ以上に頼りになる人が、ヨグマタジ以上の瞑想の指導者が。。いらっしゃるとは考えにくい。。
皆さん信じるものがあるということは、ある種の「強さ」であると感じられている方は多いのではないでしょうか。
宗教とか好きな芸能人とか。。何でも。。強く思える対象から力をもらうというのは、宇宙の法則から見ても。。そうなのだと思います。
そしてその強く思う対象に染まって行く。。それになって行く。。というようなことも。。あると思います。
好きな芸能人、憧れの人に。。雰囲気が似て行くというのはよくあることだと思います。
当然と言えば当然だとは思いますが。
信仰ということも、そうだと思います。
強く思うことで、そこからエネルギーの交流が起こり、それが自分になって行く。自分がそうなって行く。
だから、その思う対象が純粋であればあるほど、平和であればあるほど、自分も純粋に平和に。。なって行くことができるのだと思います。
ヨグマタジより純粋な存在はこの日本において、他にありえないと思います。
世界的に見ても、それは本当に稀なことだと思います。
「悟り」に到達した方に、こんなに気軽にお会いでき、お言葉に触れ、ご指導いただけるなんて。。
皆さん聞いたことなかったでしょう。。
そして、ここまで来て。。
記事をまとめようと思います。。すみません。。!
その「本当の自分」に出会えたというこの体験は確実に私の一部となり、今も、前に進む力になってくれていると思います。
その後も職場では激しい浄化がたくさんありましたが、意識の進化、修行・信仰の深まりを感じる日々でした。
「激動」とも言えるほどの私の「大変容」を
ヨグマタジが起こして下さいました。
ヨグマタジの元での修行は
「DNAレベルからの変容を起こす」
と言われています。
正に、その通り。正に、神業。。だと思います。
自分を守る為に必要だと思っていた鎧をヨグマタジに溶かしていただいた状態で復職して、エゴで固めた自己防衛の鎧がなくなった素の自分を心許なく感じたけれど、
(そしてその時に一気にネガティブな私を見せていただきました。「見える」ということは、自分から切り離され、溶ける前触れなのです。)
「大丈夫」だと、分かりました。
ヨグマタジが、いつも絶対助けて下さるということを体験しました。
私達に必要なのはエゴや自己防衛ではなく、
神の御加護なのだと、それを信じる力なのだと身を持って、知ることができました。
そしてその「神の御加護」は私達のいつもすぐ側に既にあるのです。
「信じる力」を。。修行によって、大きく強く育むことができると思います。
ほんと、「ヨグマタジの仰る通り、本に書いてる通りだなぁ〜」っていつも思うのです。
自分を通して知るのです。
ヨグマタジも「自分を実験台に」と仰っていました。
「実験台ってこういうことかぁ」とか。。
シンプルに。
皆様にも体験していただきたいです。
ほんとに長くなりました。。
最後までお読み下さり、ありがとうございました。