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短歌と私

 私が本当の意味で短歌に出会ったのは、小学六年生のときだった。
 

 それまでにも形式的に三十一文字の詩があることは知っていた。でも、へーリズムがいいもんね、くらいで特に何とも思っていなかった。
 だが六年生のある授業をきっかけに、急に水中眼鏡をかけたように、短歌に開眼した。それは、教科書に乗っているいくつかの現代短歌から、ひとつ選んで解釈の短文を書くという、よくあるものだ。

 短文の種類は、感想文でもエッセイ風でも小説風でも何でも良く、クラスメートたちはシンプルな感想文が多かったように思う。
 僕は私は、この句をこう読んだ、〇〇という表現が素敵だと思う、句に近い体験をした、同じ歌人の句にこんなんがある、みたいなことだ。

 でも、私はそうは書かなかった。
 当時、自由帳に汚い字で妄想の物語を書き殴るのにはまっていた私は、短歌の中にも物語を見ようとした。
 私が選んだのは俵万智さんの

「この味がいいね」と君が言ったから六月七日はサラダ記念日

俵万智『サラダ記念日』

 だったが、提出用のノートには、

 大好きなキミがもうすぐ帰ってくる。レタスは買ったしトマトも買った、そうだ今日はドレッシングも手作りしちゃおっかナ♡油にお醤油、おっとっと、レモンは入れすぎ注意よね。私の恋人♡はスッパイのが苦手だから♡

 みたいなのを(実際の文は既に忘れたが、90年代の女児の文章ってこんなんだった)、延々と何ページも書き連ね、恥ずかしげもなく提出した。
 そこはADHD児、字は汚く誤字脱字だらけ。大人ぶって使った「恋人」というキーワードも、お約束のごとく全部「変人」……(恥)
 でも、先生はそれを逐一添削したりはせず、黙って最後まで読んでくれた。そして、後日、私物と思われる歌集を1冊貸してくれた。
 俵万智さんの『花束のように抱かれてみたく』―――放課後を待って本を開いたときの、写真入りの本特有の甘いインクの匂いは、今でも鮮明に思い出せる。
 
 歌集には花の写真と共に、花を詠んだ魅力的な短歌がいくつも載っていた。
 私はその短歌ひとつひとつを小説もどきに仕立てていった。次々に新しい短編小説が書けるのが面白くて仕方がなかった。

 私は作文は好きだったが、多動な脳みそゆえに展開のあちこちから書き出したり、脱線したり、話を結ばないうちに別の作品に手をつけたりと、完結させるのが難しかった。
 それが、短歌に切り取られた情景を最終到達点として書いてゆけば、物語が完結させられる。そうか、文章ってはじめに結論を決めて、そこから逆算して書いてゆくのか、と初めて気づいた。
 思いつくことを思いつくままに書き留めることで文章を紡いでいた私は、そんなことすら知らなかった。

 夢中で恋愛小説もどきを量産した私は、歌集を返すときに、それを先生に見せようと思った。
 だが、書き終えて読み返すと、何だか自分の書いたものが短歌に対して蛇足のように感じてくる。短歌から一生懸命に情景や物語を膨らませて、言葉を重ねれば重ねるほど、私の物語は元の三十一文字に見劣りするのだった。

 かなわない。
 この短い三十一文字に、どうしてもかなわない。

 考えてみれば短歌の方がオリジナルなのだから当たり前なのだが、小学六年生の私は、衝撃を受けた。

 これは。この三十一文字は、すでに完結し独立した小説だ。場面を絞って切り取る鮮烈さに、長々と言葉を重ねる表現は届かない。しかも、私が思いつくような情景描写のあれやこれ、すでに全部この短い言葉が内包している。――――――

 発達障害の知識はなかったが、自分の話が冗長で文章もだらだら長くなりがちなことを自覚していた私は、短歌の情報圧縮力にすっかり舌を巻いた。私の欲しいものが短歌の中に全部あった。

 その後、中高生では穂村弘さんとの出合いがあり、子どもを産んでから今橋愛さんとの出合いがあった。

 詠むことについては、育児に忙殺されてやめてしまったこともあったが、少し前に精神的にバランスを崩して入院した際、私に表現を返してくれたのはやはり短歌だった。
 話が飛んで自分でも纏められなかったり、長い文章を書ききる集中力がないとき、私は指折り音数を数えてノートに短歌を書き留めた。お世辞にも上手な歌ではなく、何処かで見た歌にあからさまに影響を受けているものもある。
 でも、私の中に支離滅裂に溢れる言葉には受け皿が必要だった。短歌を知っていて良かったと思う。

 
 小学生のあのとき、きっかけを下さった先生に心から感謝している。 


 そう言えば、私も最近、先生と呼ばれる機会ができた。社会復帰を兼ねてフリースクールの国語講師を始めたのだ。
 若い頃、個別指導塾でアルバイトをしていたときも感じたことだが、不登校になってしまう児童の中には、発達障害による自己表現の困難が疑われる子が一定数いる。私は同じ苦労を抱える仲間として、彼らに何でもいいから、言葉や感情の受け皿を見つけて欲しい。
 別に作文や短歌じゃなくたって、ツイッターでもオンラインゲームでも何でもいいと思う。言葉にならないなら、運動とかでも。

 私が恋人を変人と書いても笑わず、赤も入れなかったあの日の先生に恥じないように。
 私も、彼らが自分を包む膜に穴をあける助けになるための授業を模索してゆく。

(でもゴメン、私やっぱり誤字のうち変人だけは書き直させようかな。私みたいな大人になったら困るからネ!←名残)

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