自由に生きるとは
昔に比べて、仕事にしかり娯楽にしかり、選択肢が増えたように思う。それは、とても素晴らしいことだし、人間の可能性の増大を意味している。
ただ、選択肢が増えたからこそ、生き方に迷う人も増えたように思う。人材業界の多さがそれを物語っているのではなかろうか。かくいう自分も例によって、迷い人にもれないのだが。
ネットが広く普及し、個人で生きる術が広まった社会。昔のように皆に右にならえでサラリーマンとして生涯を全うする時代は終わりを告げた。
みんなと同じ、ではなく、みんなと違うことが重宝されるようになったと思う。
でも、だからこそ普通に生きることしかしてこなかった者達は埋もれてしまい、誰かに指南を求めるようになる。
ネットの教育ビジネスで稼ぐ人が多いのもうなづける。
みんな、教科書という道標が欲しいから。
アメリカの大学の研究で、これから必要なスキルは「独学力」だ。という記事を見たことがあるが確かにその通りなのかもしれない。
自由な社会だからこそ、その自由な中で自分らしく生きるスキルが必要なのだ。自己を確立し自分で考え、現実と戦っていくスキルが。
そんなわけで、ここ数年、個人で稼ぐ方法を模索していたのだけど、どれも継続できず結果的にサラリーマンに甘んじているのが今の現状だ。
今までの自分の行動が間違っていたとは思わない。大学を中退している身としては、サラリーマンをしている限り、他の同僚たちよりも給与に差が出てしまうことは明白だから。投資なり副業なりでお金を作ろうとすることは、間違ってはいない。ただ、その手段が難しい。
僕は正直言って、ろくに学校にも通えていなかった社会不適合者だ。ただ何故だか行動力と好奇心の塊だったりする。色々挑戦した結果、借金を数百万抱えた過去すらある。今、自分が普通に暮らせているのは日本が平和だからに他ならない。
自由に生きることは難しい。
きっと、ぬくぬくサラリーマンをしている方が楽ではある。僕が働く介護業界は基本的に人手不足で、引き止められることはあっても、辞めさせられることは自分が事件を起こさない限り、基本的にあり得ない。気の合う仲間や家族と過ごしながら生涯を終える。それもまた、1つの幸せの形だと思う。
富や名声を手に入れようと、最後は死ぬのだ。
なら、愛に生きようではないか。
学生時代の頃の僕はそう思っていた。
だからこそ福祉の仕事を志し、かれこれ4年ほど従事している。一般企業に勤めるよりも、より利他的な仕事の方が幸せを感じやすいと思ったからだ。
ただ、所詮はサラリーマン。すべて業務内でやるほか無いのだ。
とはいえ、起業したいと思うほど、今の僕は自分が見えていないわけじゃない。僕は誰かの役に立ちたいというより、誰かの役に立てる凄い自分になりたい奴だから。自分しか見えていないのだ。
お客様の為だとか、困っている人の為だとか、そんな風には考えられない。いつだって、自分が見ているのは、目の前の利用者じゃなくて、自分が周りからどう見られているかだった。
自分のちっぽけさに嫌気が指す。
子供の頃から何も変わっていなくて。それが分かるから、1人で稼ぐなんて無理だと思っている自分がいる。ただ、周りと協調して物事に取り組む能力はない。
自由に生きる為には、自由に生きる力を持っていなければならない。海を船で進むなら、航海術や操舵技術が必要なように。
自分には、まだそのスキルはない。
ずっと、諦めて生きてきたから。
途中ですべて投げ出して来たから。
結果、何も残っていない。
自由は残酷だ。
力なき者にとって。
て、嘆いても仕方ないから
今日も今日とて、物語を描いていたりする。
いつか発表できっかなー。