阪神淡路大震災から25年
画像の短歌連作は去年の1月にあみもの短歌に寄稿したものです。「kobe mon amour」雨虎俊寛
以下は僕が昔やっていたブログ記事からです。書いた頃は東日本大震災が起こることも知るよしもなく…… そして阪神淡路大震災の短歌を詠むことになるだなんて。
ちょうど11年前の今日
早朝、職場の仮眠室で飛び起きた
職場のすぐ後ろは線路
始発電車が脱線したのでは!?
と、感じる程の衝撃
地震だと思わなかった
神戸には親戚がいて
年の近い3人兄弟の従兄弟がいたのでよく遊びに行ってた
職場のTVを点けると
どうも神戸らしい
すぐに神戸の親戚を思い出して電話するも……
回線がパンクしてて繋がらない
自分家に連絡を入れると親父が「1回だけ電話が繋がって皆無事だ でも今は連絡が取れない」
TV報道が伝える
死者200名以上、行方不明者はかなりの数に及ぶ……
翌日、僕の両親がすぐにリュックに水と日持ちする食料を抱えて出発
僕の職場からも次々と援助隊が送られる
派遣を希望するも……
まだ2年目のひよっ子
それでもいつ派遣されるか解からないので自宅待機
そして数日後に大阪の学校に通っていた従兄弟と共に彼の被災した家に向かった
途中までは異常な大渋滞を除けば普段と変わらぬ景色
しかし武庫川を越えてからは……
幼少の頃から慣れ親しんだ神戸の街に近づくにつれ……
傍らの従兄弟は大袈裟に生まれ育ったかつての街並みとの違いを笑い飛ばした
目の前の壊れた街並みが信じれなかった
倒壊している民家
高速道路が崩れて寝ている
三宮駅前の華やかさは消え
親戚宅の兵庫区に入ってからようやく僕にも微かな面影を見出せた
不謹慎にも映画を思い起こした
不謹慎にも戦争の跡ってこんなだろうなと思った
ついこの前に訪れたばかりなのに
かつての輝いていた神戸は違う街になってた
この街で育った傍らの従兄弟の表情を忘れるコトは無いだろう
親戚宅は半壊状態だった
周りを見渡すも僕の見慣れた活気ある街並みの面影は無い
現実感を失った
伯母さんは「天ぷらが食べたい」と言った
僕より背の高い、恰幅の良い伯母がやつれていた
大阪に引き上げる前に想い出の場所を訪れた
そのままに残っていて欲しかった
でも……
何箇所かは知らない場所になってた
薄笑いしか出来なかった
伯母達は大阪に身を寄せずに残ると言った
これからしなくてはならないコトが山積みだと
仮設住宅の申し込み等、休んでいられないと
戻る家があるのが申し訳なかった
戻れば普通の生活があるのが心苦しかった
落ち着くまで何度も神戸に足を運んだ
仮住まいが決まって無事に引越した時の伯母達の顔も忘れるコトは出来ない
あれから11年
神戸の街も復興した
全てでは無いけれど
想い出の場所も様変わりした
あのコが見たら驚くだろう
あれから11年
災害・事故・事件・戦争……
最近は想定できないコトが起きても動じなくなってきた
異常なコトだと思う
災害も
テロも
戦争も
貧困も
治せぬ病も
事件も
事故も
虐待も
自殺も
悲しい出来事……
目を逸らしちゃイケナイ
決して遠い国の話でも、自分と関係の無い話でも無い
いつ自分自身や自分の周りで起こるか判らない
だから!
せめて好きな人とその好きな人の大切な人の幸せを願いたい
「願うこと」のが大切さを教えてくれたあの歌を
今日は彼の地に手向けよう
どうか全ての魂に安らぎをどうか全ての魂に安らぎを
R.I.P.