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自分を真ん中に持ってくるのが難しかったとき、バス停を少しずつ動かして希望の位置まで持ってくる話が役に立った

好きなものを「好き」ということが、昔から苦手だった。誰かが欲しそうにしているラスト1個のケーキがあれば、自分が欲しくてもその人に譲った。気になる人がいても、別の友だちが好きといえば、だまって忘れようとした。

使いたいクレヨンがあっても、手を伸ばす人がいればサッと手を引っ込める。それも、知られないようにこっそりと。自分が我慢して済むのなら、すました顔をしてその場をやり過ごした。お互いに、好意を持って友人になりかけたのに、間に割り込んでくる人がいると、面倒くさくなって、自分から疎遠になりがちだった。

人の「ほしい気持ち」や「独占欲」に敏感で苦手意識があった。さらに、自分を真ん中に持ってくるのが、難しい。なぜだろうか。もともと、繊細だったのかも知れないし、子どものころ、ふいに出た両親の何かひと言で傷ついたのかも知れない。

いずれにせよ、物心ついたころから「自分なんか、はじっこにいればいい」「我慢して平和になるなら、それでいい」と思っていた。家族のなかでは、ボロ雑巾のような存在だと。自己肯定感が常に低かった。

自分が真ん中にいることが苦手だった。堂々と胸を張って「これが欲しい」「あなたが好き」「これは嫌い」「あそこは行きたくない」と言える人が不思議だった。テレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」に出てくるハイジや、映画「かぐや姫の物語」のかぐや姫にイライラさえした。もっとまわりを見て、遠慮して。すこし我慢したらと思っていた。

本当の力が100あるとする。それを100あると認識するのが、難しい。大人になっても、100に対して3くらいの実力だと思っていた。「ダニング=クルーガー効果」の逆パターンだ。

希望の大学にも入れたし、第一志望の仕事にも就けた。しかし「こんなんじゃ、だめだ」といつも満足できなかった。物足りないし、努力が足りない。もっと、もっと、上をと思ってストイックに生きていた。子どもが産まれても、それは続いた。

ところがある日、自分が乳がんであることが発覚。人生のリミットをいきなり、突きつけられる(実際、リミットはいつでも誰にでもある)。今までやってきたことは、心から望んでいたことだったろだろうか。本当はどうしたかったのかを、何度も自問自答した。

そうして何年もかけて少しずつ、自分を真ん中に持ってきた。オリエンタルラジオのコント「あっちゃんかっこいい」でやっていた、「バス停を数センチずつ動かして、希望の位置まで持ってくる」方法だ。バス停を動かすのは至難の業。だが、何年もかけてなら確かにできるかも知れない。

寝る前、どんなものを着て眠るのか。素材はコットンかポリエステルか。眠る瞬間、どんなことを考えたいのか。朝の目覚め方は、太陽を浴びたいのか、それとも、布団のなかで深呼吸したいのか、スマホをチェックしたいのか。朝ごはんは、和か洋か。何を食べたいのか。オーガニックに配慮したものが良いのか。それらを、どんな器にどうやって盛りつけるのか。

家族や他人に、どんな言葉をどんな表情で語りかけるのか。どんな道具を使って、家の中をどのくらい清潔にするか。家電や日用品など、部屋のなかに何を置くのか。何をどうやって購入し、何を捨てるのか(ここが一番大事かと)。

友だちは、どんな人と喋りたいか。どんな話を語るのか。ランチは、どんな服装をして、どこで食べるのか。

そうやって、逐一問いかけながら、自身の薄皮を少しずつはいでいく。そして、好きなもの・大切に思う一軍だけで固めていった。自分の思いに素直になる作業は、なかなか難しい。しかし、違うと思うことは、即座にバックしてやり直す。または、何もしないのがいいことも。

ハイジが干し草のベッドの上ですやすや眠るように、やっと最近、のびのび過ごせていると実感している。話したい人には積極的に誘い、会いたい人に会う。行きたい店に足を運んで、食べたいものを味わって食べる。書きたいものを、熟考して書く。嬉しかったら、感謝して素直に喜ぶ。嫌な人とは会わない。やりたくないことは、きっぱり断る。

かぐや姫が目指した月より、もっとはるか遠くの星を目指す気持ちで、過ごしたい。何がやりたいのかを明確にして、自分をど真ん中に持っていきたい。オリエンタルラジオよ、アイデアのヒントになるコントをありがとう。


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