大手拓次短編小說「沈黙の人」(旧字旧仮名.全文收錄)
承上一篇所言,我最近瀏覽日本的古本屋中關於大手拓次的結果,查詢到一本引人注目的書:〈少年愛文学選〉(高原英理編,2021/4)。
依照其他作者,幾乎可以肯定這是一本小說選錄,否則我想突然切換到讀詩的心情,讀者應該喘不過氣吧。因為網路上查不到全文,於是我在全集目錄中獲得了〈沉默之人〉的頁數,沒想到竟是第5卷——詩論.雜纂I的一部份,翻開來看,是一篇小說格式的文章。
由於研究不深,筆者一直不知道拓次寫過小說。〈沉默之人〉於明治41年(1908)4月16日起稿,目前20歲;這年……根據年譜沒什麼特別的,除了九月時獅王牙膏在磯部蓋了碳酸鈣工廠,就是七月拓次的學年末試驗成績……沒有達到及格標準的平均值……有點好ㄒㄧㄠ……這不是重點,由於網路查不到全文,身為拓次愛好者的熱心人士,就讓筆者來和大家分享這篇短篇小說吧。因為沒太多換行,讀起來確實擁擠,可是又不方便將原文擅自改動,希望各位能看清楚吧。
至於文中兩位主角:太田惣一與吉川吉次,這個關鍵字……我沒什麼可以說的了。如果筆者理解正確,「吉川惣一郎」是1912年.25歲開始使用。我是不太清楚這部小說與拓次實際經歷的關聯,只是這對名字實在難以不讓人聯想。
那麼,以下就是舊字舊假名版的〈沉默之人〉。內容已過著作權保護期限歡迎自由使用,但還是希望若引用可附註「電子化作成:雨下松」。
**以下は、『沈黙の人』の旧字旧仮名版です。 著作権保護期間を過ぎた内容ですので、ご自由にご利用いただけますが、転載・引用される場合は「電子化作成:雨下松」と付記していただけると幸いです。**
四月十六日起稿
沈黙の人
拓次作
(一)
神田小川亭の左隣りの鳥渡した天麩羅屋には年は言はなくつても解るだらう美しい女児が居る。惣一は現今も寂しい心である。
それといふのも、恋人の冷たい心柄からであるのだ。其の寂しい心を持つた惣一は、何時も夕飯後の散歩には聊か四囲の薄暗いのを心強く感じて、中央大学の側の路次からひよこり出て、小川町の停留場辺から左へ折れて、而も必ず右側を、そら、例の天麩羅屋の前を通つて行くのだ。賑かな街の悉皆の物像が暮色に包まれて、電燈や瓦斯の光で思ひ思ひに輝いてるのを見ると、何だか之が自分の真実の友であるかのやうに想はれて、悲哀な現実的の笑が心に表はれる。それが惣一に取つては、只一つの笑であるのだ。毎夕毎夕此の笑が繰返されるのであるが、最う此頃はその影さへも止めなくなつた。さう一月位は充分続いて居た。言つて置くが、続いて居た内は、悲哀な現実的の笑といふ袋の中に取り入れられて在つた様なもので、他の物が見えなかつた。どういふものか此の頃それが醒めた。同時に心の寂しさは一層痛切に感じて来た。それからは夕方にも外へ出ない。
惣一の家は神田錦町三丁目の立派な料理屋である。町内でも事件のある時には屹度相談されるのだ。ほらいふ風な家に似合はない、至極真面目で、主婦を初め召使の女中まで爪の垢ほども艶めいた噂の立つた事はない。それで東京中でも白粉気のない、意気の好いたらしい家と云へば誰でも此の勝見楼を除いては、彼れ此れと指を折つても見当らないだらう。それも其の筈、時があつたら、近所の髪結でも魚屋でも八百屋でもいいから、『勝見楼の主婦は、』と聴いて見給へ、皆一様に、『優しくつて強い、思ひ遣りのある粋な方です、』と答へるであらう。主婦といふのが惣一の生みの母で、三日に一度づつ瀟酒とした新しい丸髷姿になる、平素は、風通名仙の、渋い羽織で素人な紛装………といふ風で数年を守つて来てゐる。未だ四十の大年増には三年も間がある女盛り、少し遅いが、三十七位は分別の女の盛りである。がために甲乙の親切者が実直に、未だお若いにと話を持込めば、鸚鵡返しに『まあお断り致しませう、』と奇麗な言葉を聞かされて、顔を落して素気なく引き返すのである。
惣一の父といふは、義にかけては一歩も引を取らない生粋の江戸児であつたが、惣一の十三の時、高等小学の二年になつた春である、武蔵野の郊外で愛馬から落ちたのが病因で痩せこけた身体となつて仕舞ひ、蒼白い頰や脣、その頰や屑は同じ様な寂しい冷たい色となつて、その年の五月の十四日の雨のふる夜半、子の惣一と千枝子、妻の睦代とを残して亡くなつたのであつた。終焉の言には、二人の児等を立派に養育つて呉れ、と二度三度苦しい息を次いだ、その時睦代は夫の腕を抱いて、熱い涙を誓言の証と枯木のやうな腕に刻んだ。悲痛い此の夜が明けてから睦代は勝見楼の主婦として、孤独世の中に立つた。夫の遺業を継いだ此の新しい主婦は、断末魔の誓ひの涙に云ひ識らぬ強味を感じ、それに依つて敵対つて来る障害を打破する事が出来た。恁麼事情であつたから世間の評判も誠に善く、陰ながら助力した者もあるとの事。睦代は何方かと云へば否極めて神経質の方であるが、些細の事に見てゐてもはらはらする様に槭々するのとは一毛色違つてゐる。一度きりつと心に沁みた事は五年が十年でも正然と元の儘で、以前の強さで保つてゐるといふ性質なので夫の生前にも恁麼事があつた。或冬の風のひどい日であつた、千枝子と惣一が平素のやうに、学校へ行く間際になつて、両親の二人が口論を始めた。父親は珍らしく、朝から長火鉢の側に、弁慶縞の座蒲団を敷いて、煙草を吸つて居たが、母親が惣一に襟巻をして遣るのを見付けて、
『馬鹿な、襟巻なんか為て遣る奴があるか』
『だつて貴方、恁麼に寒いんぢあありませんか』
『寒い。それだから不善いんだ、弱くなつて感冒ばかり引いてるあないか、取つて遣れ、取つて遣れ。』
『そんな事被仰つて、仕様はありやしませんよ、取つて遣れば、又引くんですもの、おほゝゝ貴方覚えて被在(いちつしや)るでせう、惣一が八歳に成つた年、初めて尋常小学校に登校る時、ねえ貴方、『子といふ者は可愛いからなあ』と被仰つて、御自分で、惣一の襟巻を買つて被在つたではありませんか、今になつて那麼事被仰るんですもの、可笑しいわ。』
『うーむ、左様だつけな、好し、敗けた敗けた。』
惣一は小児心に、不思議に思つた。そして母さんが早く襟巻をさせて呉れればいいと思つてゐた。所が、母親は見事勝つて、惣一に襟巻をさせて、静かに学校へ遣つた。登校途すがら惣一は何だか嬉しくつて、お父さんも、母さんも、一層懐かしいやうな気がした。歿後になつてから、母は此の時の事を思ひ出して、幾度も、惣一や千枝子に話して聴かした。で、惣一も千枝子も、母さんと共に、阿父さんの在つた昔を恋しがつた。今でも母は、月月の十四日には、仏様に、僅か計りでも供物をして、香の煙を薫らせて居る。心の中は、黒染の衣に、髪を落したも同様である。
(二)
春の日光は麗々と書斎の丸窓から差し込んで、六畳の室に、惣一孤りの横面貌を照してゐる。今年十八になつた惣一は、色の白い、品の美い面貌を、机に伏せて、深く思ひに沈んで今飛白の筒袖の姿が、殊に頸筋の辺が、弾機の弾かれた様に激しく顫へる。はたと止んだ。障子に鳥影がしたので、するともなく窓を開けて見廻したが解らなかつた。窓の外面には、檜とそれから、奇麗な二三の常緑木とが在つて、小葉は伸々と蠟塗の艶に、如何にも豊かげに光つてゐるので。恰度今惣一が顔を出して眺めた時、軟かい葉陰の庭石に、若い、襟足のきらつと白い女がゐたが、惣一の眼には見えなかつた。之も小さい幸である。
書き懸けの手紙を展げて、墨を磨つて居る惣一の頭脳には、昨年の五月六月、九月の秋の初めになつて、確然と終生の恋人となつて仕舞つた吉川吉次さんの、恋しい顔や身体の有様が充溢になつて、火の環、熱の環が砕けん計に胸の中を回つてゐる。吉次さんは、惣一と同じ京華中学の三年である。惣一より二つ年下の十六で何所となく初々しい、一目見ても家で大事がられてゐるのが推察られる程である。平素、繻子綾の制服と姿体の好い帽子、カンガルー皮の靴を履いて、坂田といふ友と一緒に、毎朝登校する。坂田は惣一と同じ四年である。惣一が二年の頃は、吉次さんと惣一とは、胡蝶倶楽部の仲間で、面白く野球など遣つて遊んだのであるが、惣一は三年になつた時分から、急に元気が無くなつて、何時も、何時も、何か考へてゐるやうで、呆然と、道路を歩いて居る時でも、電車の中でも、気の脱けたやうに成つて居た。であるから、同窓の友は皆な、惣一の心事を解し難ねて、行常の激変を不思議がらない者は無かつた。
『太田近頃如何したんだ。馬鹿に陰気ぢあないか』などといふ言を聞く事は度々あつた。惣一が此の秘密なる心事を打ち明けた者は一人もない。惣一に取つては、兄とも思はれてゐる(同窓から)斎藤にさへ、洩さなかつた。堅く堪へて、不幸なる初恋の真味に、つくづく泣いた。併し茲に注意して置きたいのは、前年の夏休みの終りから、惣一は、口に出しては言へない、又自分にも解らない、薄く而も影のやうで深い深い異様な不安、人生の恐れ、を感ずるやうになつて、何を見ても、何を為ても、寂しくつて耐らないので、強いて自分の弱性を矯めようと勉めたが、少しの甲斐も無かつた。とはいへ、惣一も、十七の少年であつたので、年齢相応に、勇ましい、華麗な海軍兵学校生徒の短剣やら服やらを頻りに夢みてゐた。だから内の湯殿へ行つても、鏡へ向つて身体を映して、細そりした身体を、之なら大丈夫合格だと、一人ほくほく頷いてゐたが、其の癖、誠心から軍人に成らうなどと思つてゐたのではなく、只其風姿が如何にも雄々しく、男らしいのが気に入つて、自分も一時は那麼風が遣つて見たかつたのである。前にも云つた通り、吉次さんを単に可愛い児、と思つて一緒に遊んだのが、惣一の二年の頃、三年になつた春の末から、恥かしい初恋の芽が生ひて、一月と過ぎ二月と経つたが、内気な惣一は、自分一人で快々と懐ひ悩んで夏休みは終つたのだ。明日から学校に行かなければならないかと染染嫌になつたけれど、吉次さんに会はれるかと思ふと、又行つて見たいやうな、行つて見たい気がした。学校へ行つたが、恥しいので吉次さんの顔を真面に視る事が不能かつた、さう如何しても不能かつた。教室で、校庭で、控所で、往復の途で、吉次さんの事が片時も頭脳を去らなかつた。斯くして一年過ぎた。惣一の眼はどんより曇つた。
一年後の春の今日である。
墨を置いて惣一は、立つて洋服のポッケットから小さい手帖を取り出した。之は惣一が学校へ行つて居る間でも近所に居る時でも吉次さんが烈しく恋しくなつた瞬間に、心の底で叫ぶ恋の文字を書いたものである。それを見て吉次さん所へやる手紙を書き初めた。半切を、幾枚も幾枚も書き損つて、漸く一枚書き上げた、最其の時には、惣一の眼には涙が充溢になつて居た。恐懼と希望と、恥辱と煩悶と、交る交る胸を衝いて来るが、又言へない暖かい軟かい情がひろがつて来る。種々の想像を描きながら、手紙を読んで見る、自分の心の中の所有情熱を注いで書いたものである、けれども、兄弟になつて下さい、兄弟になつて下さいが、余り沢山ある様で、少変に思はれた。と、また、必つと吉次さんは僕の心を察して呉れる、兄弟になつて呉れるだらうと深く深く考へて行く間にふと、自分の身を「さう」として置いて、他の人の身の上の様な事になつて胸に浮んで来る、其の浮んで来る事が、胸を裂くかと奇しまれる程強烈なつたり、果敢ない運命の人が心の中で歌ふ小さい歌のやうにも弱くなつた、それが強い時は自分の身の上で、弱い時は他人、のやうに、一人で定めて、一人で思つて、自ら慰めた。然し又、別の路から考へに沈み沈んで行くと、果敢ない弱い人と自分も成つて仕舞ふ。失神して死にたいやう?に自分は思つてるのではなからふか、手紙を遣つても、吉次さんは宮田の稚児になつてゐるといふ話だから、多分僕の願は駄目だかも知れない、と急に悲しくなつて、最う手紙を遣るのも嫌になる、そこを勉めて交を求めて、恋の血潮の高潮に達した時、手紙を出した。ポストから、ゆたりゆたり帰つて来る。
(三)
夜中に眼が覚めた。十月の中旬である。惣一の好きな秋の夜である。暗い空の中に、今日の様を思つて見た、残念で堪らない。
珍らしく今日は、学校の帰途に、吉次さんと惣一と、武井といふ吉次さんの同級の友と、此三人限りで一緒になつた。惣一は多羞である故、実に得難い好キ会であると信じ乍らも、吉次さんの肩に手をかけよう、かけようと思つたが、中中出来ない、だんだんと、つまらない話をして来ると最う二人と別れなければならない所、一間先は路が二つに分かれてゐる。惣一は、はつと電気を覚えて、吉次さんの肩へ手を捲いた。
『武井、寄つて行かうか』
吉次さんは思はず声を出した様に思はれた、惣一は、足が振るほど血が騒いだ。武井は大人しい男子である故、
『さうだね、如何しようか』ときまらぬらしい。
『寄つて行きたまへ、ねえ武井君』
と惣一は云ひながらも吉次さんの肩をしつかりと抱いてゐて、
『ね、寄つて行きたまへ』と又続けた。
『寄つて行かうか』、吉次さんの声は稍落ついて居た。
『ああ、寄つて行から』
武井は之では来るのだ、惣一は武井が来ないで、吉次さん一人で来るのなら好いと思つたが仕方がない、
『来たまへ』
と惣一は三人して、自家の方へ行く、中央大学の側の路次を這入つた時、又惣一は吉次さんの肩に手を捲いた、其の心はうれしかつた。門を入つて書さいに通つた、惣一は、嬉しいばかりに、大急ぎで服をぬいで、着換へて、座つた、其の時二人は何か、本を見て居た、惣一は又も吉次さんの肩に手を捲いて、本を覗き込んだ、頬づりをした、武井には知れない様に。一体武井は極く温和である故に、少しも心が置かれないのである。恥しいから、立ち上つて見たが、如何しようもない、
『武井君、碁を打たないか』と聞くと
『僕は知らない』と答へた。
実は吉次さんに言つて見たいのだが、気まりが悪くつて云へなかつたのである。漸くして二人は帰つた。惣一は帰る時に、門口まで行つて、
『又、来たまへ』と吉次さんの肩にかろく触た。其の日の夕方は、無闇に、心がせかせかしてうれしく、全生れて初めての嬉しかつた日である。
あ、………今思ふと、お茶も出さなかつた、と心付いて、急にすまない様な心地がして、如何したら、いいだらう、実に気の毒だつた、僕ばかりうれしがつて居て少しも、そんな事は気が付かなかつたのである。吉次さんは何と思つてるだらう。切角来て呉れたのに、残念な事をした。ああ、気のきかない奴だ、と自分を叱つて見たが、果は悲しくなつた。翌朝、吉次さんの所へ手紙を出した。別に返事は来ない、惣一は悶える。気が増々沈む。又手紙をやつて、どうか又、僕の所へ来るようにと云つたが、返事もないし、来もしない、増々心が陰気になる。其れ以来学校へも欠席勝になる、到々母に言つて、学校を止めた。吉次さんの心が解らない解らないと何時でも思つて居る。又惣一は心血を注いだ手紙を送つた。所が、或朝、朝飯してると、来た、飯を止めて書斎へ飛んで行つて読むと、ああ、宮田のアレになつてるから、すまないが、兄弟にはなれない、その代り、親友にならうと。口惜しくつて、泣いた、泣いた、それでもその手紙がなつかしくつて、大事に大事にしまつてある。
* * * *
惣一は其の翌春に、他の学校へ入学して、次の年の三月卒業した、その年に吉次さんも卒業 のである。卒業した年の秋に惣一は某私立大学の文科へ這入つた。吉次さんは家に何もしないでゐる。惣一は考へて見ると、 恋してから最早五年になる。惣一は廿二で、吉次さんは二十である。惣一は未だ吉次さんを恋しく思つてゐる、 どんなに吉次さんが変らうが僕の心は永劫に変らないと、惣一は心秘かに理解してゐる。
(完)
筆者閱後雜談
非常的狗血、非常的經典,你愛的男人早就被別的男人把走了,但過了五年你還是愛得死去活來,真有你的,太田惣一。
至於與作者本人的關聯,早逝的父母親和有一名妹妹的家庭關係或許有參考,但祖父母、兄姊沒有出現,以及故事舞台位於東京,除了父母為圍巾鬥嘴的溫暖回憶或許有參考兒時記憶,看來沒有多少關係。
從戀愛角度來看,若吉川吉次原型確實使用拓次於明治39年4月.19歲有過一面之緣的那位「吉川吉次」(呃,名字一模一樣,但我們還是保留一點點不是這樣的可能性。確切日期是1906/4/13(五),全集五.p.586日記有記載,隔天拓次得知其名),那麼以下筆者猜測,或許這篇小說是拓次從自身對吉川單純的思念所寫出的虛構創作。
根據全集五.p.1252的年譜紀錄,拓次從1906年那一次偶然過後,再也沒有遇見吉川氏的紀錄。前面已提到拓次於1912年開始使用吉川惣一郎作為筆名,同時此筆名初次使用,貌似是於北原白秋主宰《朱欒》文藝誌的12月號,發表〈藍色的蟾蜍〉〈慰安〉兩詩的那次。
這一年,25歲的拓次從位於東京的早稻田大學英文科以〈私の象徴詩論〉畢業論文在29人中以第6名的佳績畢業。(說是這麼說但前面被留級還是很好笑,偏科啊……笑著就哭了)
小說背景位於東京,想來也和拓次在此生活已久有關。我們總結回來,拓次於1906年10月入學,1908年4月16日開始寫〈沉默之人〉,1912年7月畢業,同年12月開始用吉川當筆名的姓。
你問這順序根本對不上,我講這麼多是為什麼?
仔細想想看,這傢伙才單戀兩年吉川就寫了「惣一已經愛了吉次五年」,又四年後還是愛得把只見過一面的14、5歲的小男生的姓氏拿來當筆名,「惣一郎」好歹是安中中學時期的戀人!居然可以拿來並列……從好笑突然想到有點毛骨悚然……到底在想什麼,拓次…………
不論如何,這篇小說的內容與拓次的真實經歷並無太大關連,故筆者推斷並非私小說,不過他對吉川吉次的愛是真的。完。
話又說回來這位姓高原的編輯者到底是怎麼挑出藏得如此深的甚至還不是公開發表的作品的?!