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不確かな少女に何を見る【サカナクション 演出考察・感想】


前回に引き続き、アダプトツアーについて。
(ライブレポについてはこちらで書いているので是非!)

今回は、どうしても私が言葉にしたかった、演出面の話。


本題に入る前に、少し私の話をさせてほしい。
私には5つ上の兄がいる。
兄はとても絵が上手かった。
中学や高校の勉強など自分の将来に関係ない、と国語や数学などの義務教育での必須科目への不満を吐き、学校に行かない時期もあった。この変な頑固さは私と同じで血の繋がりを感じたが、妹ながら兄の将来を心配していた。
しかし、兄はその言葉通り、自分の絵の才能だけで美大へと進学した。
打って変わって、私は絵が下手だった。
美術の教科書を見ても心惹かれるものなどこれっぽっちもなかった。
兄の持つ美術に対する理解や熱心な眼差しを羨ましい、とさえ思った。

兄の大学の卒業制作展は、京都の美術館で行われた。
私は、有名な美術作品を見ても、目の前の艶やかな絵そのものよりも、その作品制作の背景が気になるタイプだったので、もちろん自ら進んで美術館に足を運んだことなどなかった。
卒業制作展、ということで、親と一緒に歴史を感じる立派な外観をした美術館へと足を踏み入れた。
卒業生の作品は、絵、映像、彫刻、遊具のような大掛かりな作品まで、幅広くあった。
「へー」とか、「ほー」とか言いながら進んでたと思う。
その中で、優秀作品と書かれた、大きな繭のような作品の前で私は足を止めた。
目の前のそれが何なのか、添えられていたキャプションを読んでもわからなかった。
私にわかったのは、目の前のそれが"優秀作品として選ばれた"という事実だけだった。
じっと眺める私を不思議に思ったのか、親が「どうかした?」と聞いてきた。
私はそのまま思ったことを口にした。
「これって…何を表してるの?よくわからないから見てたんだけど……」

親はその言葉を聞いて、ふふっと少し笑いながら、
「芸術作品って頭で考えて答えを導き出すことじゃないよ」と、私に告げた。

念の為断っておくと、私の親は美術館が好きだが、別に芸術に精通しているわけではない。でも、その時言われた言葉はなぜか私の中でしっくりきた。
それと同時に、「私は芸術作品に意味を探してしまうから、芸術鑑賞に不向きなのかもしれない」と思った。
以降、私は美術館に行っても、目の前の芸術に対して、ただ"見る"という行為しかしなくなった。頭が働いてしまえば、すぐ「なぜ?」という疑問が浮かんで、どうしても答えを見つけたくなるからだ。

それから10年経った今でも、私は"芸術作品"というものに対して少なからず苦手意識を持っている。
それは私が正しい物差しで作品を測れない、作品の製作者やそれを見に来ている人たちと同等な立ち位置で作品を見ることができない、という劣等感が原因でもある。




話を現在に戻す。

今回のアダプトツアーでは、【舞台×MV×ライブ】というコンセプトがある。
今までのライブと違って、舞台上に2階建ての建造物を置き、バンドが演奏する中、同時進行で役者さんが演技をする、というまさに【舞台×MV×ライブ】というコンセプトにふさわしいものだった。
配信ライブでも同様のコンセプトで演出を行っていたが、私は目の前の役者さんの演技を、美術館で知らない絵を見るような感覚で見ていた。
「なんで?」「どうして?」という感情ではなく、ただ目の前にあるから見る、という対象でしかなかった。
だから、今回のリアルライブでも、音楽を聴きに来て目の前にいるから演技も見る、みたいな感覚でいた。
そんな軽い感覚でいた、はずだった。



はずだったのに、


『ティーンエイジ』で私は完全にその世界へと堕ちてしまった。


『ティーンエイジ』

配信ライブで見たとき、この曲での演技はどこか狂気じみていて、ゾッとした記憶がある。
それもあってか、曲が始まった時に思わず役者さんへと目を向けた。

小さな部屋に1人ぽつんと佇む少女。
カメラに抜かれるその表情はどこか虚ろげで魂を抜かれてしまったかのような無の状態だった。
まるで何かに怯えているかのようにも見えた。
そして、私は疑問に思ってしまった。


(あれ、この子はどうしてこの部屋に閉じこもっているのだろう…)


今まで、美術館の絵のように"そこにあるものを見る"ということだけしていた私の思考が動いた瞬間だった。
私の思考は考えることを決して止めなかった。


そういえばライブの初めも、四角い箱に閉じ込められていたよな…
なんでこんなに不安そうな面持ちなんだろう…?
何を思ってるんだろう…?
何かに追い詰められてる…?


ぐるぐると思考を巡らせている私の頭に曲が間を割って入ってくる。

時が経って すぐに大人になって
さらけ出せなくなって もう戻れなくなって

だけどまた振り返って 何かを確かめて
苦しむフリをして 誰かに背を向けて
読み飽きた本を読んで また言葉に埋もれ
旅に出たくなって 君を思い出して

同じメロディで次々と紡がれる言葉。
まるで自分に言い聞かせているかのような羅列。


気づいたら私はぶらんと降ろしていた手をぐっと力の限り握っていた。
爪痕がつくくらい、強く、強く何かに堪えていた。
(今思えば私の内に秘めたる叫びを抑えるように、拳を握ることでグッと堪えていたのかもしれない。)
歌が終わった途端に響き渡る、細かく刻むギターの音。
そして、それをかき消すくらいの狂気に満ちた笑い声。


私はモニターに映る少女の狂気を。
舞台上の一室でカメラに向かって何かを訴えかける少女の狂気を。
息をするのも忘れて、呆然と見ていた。


握りしめていた手はいつの間にか力を失い、また、だらんと落ちていた。
今までリズムをとっていた私の身体は完全に停止し、目の前の光景を見つめながら、ただただぼうっと突っ立っていた。
気づいたら、頬に涙が伝っていた。


芸術を上っ面だけで見ていた私は、目の前の芸術に私なりの意味を見出し初めていた。
少女が生きるあの部屋はきっと内面世界で。
表に出せず、ずっと我慢していたものがあったんじゃないだろうか。
それがある日、何かの拍子でプツンと糸が切れた。


私は常日頃から思っているが、
人間は誰しも内側に狂気を飼っている
目の前の少女の姿、それこそ私が思う人間らしさそのものだった。
あの狂気じみた笑いは、
人間であるために内側に潜み、
人間であろうと足掻いた彼女の心の叫びだったんじゃないだろうか。


ぼうっと立ちすくみ呆気にとられたまま、
会場の静寂にギターの音が鳴り響く。
その最初のワンフレーズで私は少女のある可能性・決意に気づいてしまった。

『壁』

この曲は、自死の歌だ。
もしかして、もしかしたら、さっきまで見ていた少女は、終わりを、死を選ぼうとしているのではないか、と。
そんな考えが過ぎってしまって、
少女の必死の叫びに誰も気づけなかったこと、背中をさすってあげられなかったこと、暗い冷たい夜に寄り添ってあげられなかったこと、
そんな数々の後悔が湧き上がる。
痛みを全部理解するのはきっと私にはできない。
でも、なんで、もうちょっと早く、彼女の異変に気づいていたら。。

モニターに映る名前も知らない少女に対して、

私は何もできなかった自責の念を感じて、とめどなく涙が溢れる。

もしかしたら私は目の前の少女に誰かを投影して見ていたのかもしれない。

僕が覚悟を決めたのは 庭の花が咲く頃
君に話したらちょっぴり 淋しがってくれたね

あぁ、結局、あの少女のことを救えなかったのかもしれない……



溢れ出そうとする涙を必死にこらえながらそう思っていた時、聞き馴染みのあるギターメロディが流れ出す。

『目が明く藍色』

イントロのギターが救いのメロディに聞こえて、私はその場で崩れ落ちそうになる。
もう目の前は涙で潤んでまともにステージを見ることすらできない。
青い照明は海の水面みたいにキラキラ光って見えた。

メガアクアイイロ

呪文のような言葉の連鎖。
救いを求めるように、何かにすがるように、私たちは手を掲げ、その言葉を心の中で反芻する。

藍色の空が青になる 
その時が来たら いつか いつか

君の声を聴かせてよ ずっと

ここでモニターに、先ほどの少女が、青空の下、どこか晴れやかな表情をして微笑んでいる光景が映し出される。


それを見て、「あぁ、あの子は救われたんだな……」と安堵した。
この世じゃないどこかに行くことで救われたのかもしれないし、
私じゃない誰かが手を差し伸べたのかもしれない。
「君の声を聴かせてよ ずっと」という歌詞も、今は声を聞くことすら叶わなくなったからどうか声を聴かせてほしい、という意味かもしれない。
声が聞きたいから別の世界になんて行かないで。と彼女の手を掴んで放った言葉かもしれない。

そして曲終わりには、一郎さんが手を高らかに上げ、握っていたピックを落とし、
ピックを失ったその手で少女の手をがっしりと掴んで、曲が終わりを告げる。


その光景を見て、彼女という存在が、決して疎ましいものなんかじゃない、という許しのようなものに感じた。
生きることや悩むことは罰なんかじゃない。
しっかりと、がっしりと、手を取り合ってるその光景が、救いに思えて、声にならない感情が静かに頬を伝ってとめどなく流れ落ちた。


=====

このライブで、私にとって美術館の絵画だった目の前の光景が一気に私の脳みそを刺激してきたことに、私が一番驚いた。
身体はその場で留まっていて、耳も目も舞台に釘付けとなっていたけど、脳みそだけはずっと思考を止めなかったのだ。

1人の人間、それも他人として途中まで捉えていた「名前も知らない少女」は、もしかしたら、「私」なのかもしれないと思った。
「私の中に潜む私」
きっと誰の中にも潜んでいる、表に出さない、もう1人の内面世界の自分。
だからこそ、こんなにも彼女の痛みが、苦しみが、リアルに伝わってきたのかもしれない。
つまり、彼女が演じていたのは、
「名前も知らない少女」ではなく、「あなた」であり「私」。

それも、実体として存在しない「内側の感情」だったのではないだろうか。


以前、配信ライブの弱点として"視点の固定"を挙げたが、"感情が希薄になる"という点も弱点として挙げられるだろう。
しかし、リアルライブでは、視点を自分の意思で自由に動かせるし、演者の熱も気迫もありありと伝わってくる。
今回のアダプトツアーでは、それを強く感じたライブだった。
配信ライブを見て今回のツアーに参加したため、より目の前の音・演技・演出に、私という意識が大きく飲み込まれたのかもしれない。


10年前までは、目の前の「なぜ?」に明確な答えを求めていた。
でも今は、私なりの考えができる、十人十色にいろんな感じ方ができていいじゃないか、と思う。
ごちゃごちゃと頭で考えてしまう癖は治ってないけど、別に答えを出さなくてもいいんじゃないいだろうか。
だってこれは算数式じゃなくて、舞台でありMVであるライブである芸術作品だから。
私の今回の考察はもしかしたら、とても的外れなものかもしれない。
でも、これが私の感じたことで、私がたどり着いた私の問いへの答えなのだ。

二面性を持つ人間らしい私を。
考えることを止めなかった私を。
何かを想って涙を流せる私を。
何にも染まっていない、透明なもう1人の私を。

1つ余さず、全部認めて愛してあげよう。



このツアーを生で体験したみなさんは、
舞台上の「少女」に「何」を見ましたか?






(ちなみに、あの少女の正体は、女優の川床 明日香さん(19)です。今後が楽しみな女優さんですね〜)


きいろ。


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きいろ。
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