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『Saltburn(ソルトバーン)』感想文〜「そういうふうにしか生きられない」ひとたちの狂騒曲

妙ちきりんな風貌の男が裕福な家庭に入り込んで一家を破滅させてしまう。
主演をつとめたのがバリー・コーガンであることから、ヨルゴス・ランティモスの『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』(2017)を思い浮かべた人は多いと思う(なんなら鹿のコスプレやなんかもする)が、鑑賞中に俺の脳裏をたえずよぎり続けたのは、ピエル・パオロ・パゾリーニの『テオレマ』(1968)だった。「謎」としか言いようのない異様な男がある日とつぜん家族の一員として振る舞い、一家を籠絡しはじめる。彼が去ったあと、家族たちはみなそれぞれにキチガイゲージ(笑)を解放、娘は彼を思うあまり病死し、息子は芸術家に転向して自作にションベンをぶっ掛け、奥さんは行きずりの男と寝まくる色情狂と化し、極めつけに父親は公衆の面前で全裸になって自然へと帰っていく(笑)。パゾリーニのそれは徹頭徹尾、不条理劇として演出されていたのだけれど、本作『Saltburn』のほうは『テオレマ』をベースに、現代的なアップデートを施したような映画だ。

監督のエメラルド・フェネルは、前作であり長編デビュー作でもある『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020)でいきなりアカデミー賞の脚本賞を受賞し、世界に衝撃を与えた。いま改めてFilmarksに書いたレビューを読むと、けっこうボロクソ言ってる(笑)。まあでもあの時は、似非リベラル論客たちが口を揃えていう「(劇中で描かれる男たちのナチュラルな加害性について)われわれも他人事ではないんですよ!」とかいうあまりにも主語のデカすぎるコメントに対する反発のようなものがあったのかもしれない。お前らのような身に覚えがありまくりな性犯罪者予備軍と一緒にするんじゃあないよ、と。ただし、同性の女なのになぜかレイプの加害者である男の側に与するいわゆる「名誉男性」の問題を克明に描いていたり、とかく暗く重くなりがちなこの手の題材をポップにキッチュにスマートに料理してみせるなど、見どころの多い映画ではあった。

本作『Saltburn』はざっくり二部構成のかたちをとっている。第一部の舞台はイギリスの名門オックスフォード大学だ。新入生のオリヴァー(バリー・コーガン)は、貧しい家庭環境に対するコンプレックスや生来の根暗さがたたり、初日から浮きまくってしまう。この辺の描写は限りなくオリヴァー側の人間である俺にとってはかなりキツかった。とくに、晩餐のテーブルで対面に座ったアイツとのやり取り。「友達がいない同士が打算で付き合ってるんだけども、心の中ではお互いのことを見下しまくっている」という、あの距離感が絶妙すぎる…(笑)。そんなオリヴァーくん、初日に一目惚れしたイケメン陽キャのフィリックス(ジェイコブ・エロルディ)とひょんなことから仲良くなり、それをきっかけに陽キャグループの仲間入りを果たす。そしてある日、夏季休暇をソルトバーンにあるフィリックスの豪邸で過ごさないか、という提案を受ける。

本作のテーマはまず「階級の断絶」と言っていいと思う。ソルトバーンに舞台を移した映画の第二部では、毛並みの良さを鼻にかけるイヤミな上流階級のフィリックス一家と、身なりも立ち居振る舞いも洗練されておらない労働者階級のオリヴァーとが絶えず対比される。しかし、本作『Saltburn』が絶妙だなと思うのは、上流階級の描き方だ。上流階級の人たちを断罪されるべき悪として割り切ってしまわないのだ。たしかに最初はそんな感じに見えるかもしれない。父親のサー・ジェイムズは尊大で傲慢でオリヴァーのことを微塵も歓迎してくれないし、母親のエルスペスは無神経な言動でもってオリヴァーの心を抉ってくるし、いとこのファーリーはのべつに当てこすりばっかり言ってくるし、肝心のフィリックスは家族にいじめられるオリヴァーをちっとも助けてくれない。ところが、オリヴァーが一家に取り入りはじめ、物語の終盤でとある悲劇が起きるに及んで、この一家がとたんに憐れむべき・同情すべき人たちに変わってしまうのである。

唐突で申し訳ないが、俺が生涯ベスト映画にたびたびあげている『狼は天使の匂い』(1972)と『レスラー』(2008)にはある共通点がある。「そういうふうにしか生きられない人間」を主人公にしているところだ。人はそれを単に「不器用」だと呼ぶのかもしれないが、『狼は〜』のラストで警察に包囲された主人公2人が童心に帰って射的を始めたり、家族に愛想を尽かされた『レスラー』の主人公が自分の命を削りながら大技を繰り出すその生き様は、まさに「そういうふうにしか生きられない」としか形容しようがないのだ。俺自身、こういう生き方の向こう側まで突き抜けてしまった人間を描く映画が大好きだ。そして本作のフィリックス一家も「そういうふうにしか生きられない」人たちで構成されている。悲劇による動揺を悟られまいとなんとか上流階級の家父長の役を演じ続けようとするサー・ジェイムズ。弟に対する溺愛の感情とそれが決して叶わない欠落とを行きずりの男で埋め合わせようとする姉のヴェニシア。そして、ファーリーは富裕なイギリスの白人と貧乏なアメリカの黒人という二重のアイデンティティの間で引き裂かれている。劇中でもっともオリヴァーに近いのはこいつなのかもしれない。彼がのべつに繰り出す減らず口はオリヴァーに向けられているようでいて、実は自分自身にも向けられている。

上流階級の人間くささが露わになると同時に前景化してくるのが、オリヴァーのもつ異常性だ。けれども、本作の登場人物のなかでもっとも「そういうふうにしか生きられない」のもまたオリヴァーなのだ。彼の語る過去や境遇はそのほとんどが嘘なので、どこまで信じればよいのかわからないのだが、嘘を駆使して人を操ることでなんらかの利益を得てきたであろうことは想像に難くない(裏を返せば嘘のせいでまともな人付き合いができないわけだが…)。しかし、嘘をつき続け、自分の気持ちと真摯に向き合うことから避け続けてきたがゆえに、もはや嘘とまことの境目がわからなくなってしまっている。さらに、人生を嘘で塗り固めたオリヴァーはフィリックスに対する感情が愛なのか憎しみなのかもわからない。オリヴァーがフィリックスの埋まった土の上にチンポをブッ挿し、墓とファックするあの強烈な長回しのショットは滑稽であると同時に強く胸を打たれてしまう。心の中にわだかまった愛と憎とのアンビバレンツをオリヴァーなりになんとか表現しようとしているようにも見えるからだ。

てな具合に、残りの15分ぐらいまではいい感じで映画を楽しんでいたのだが、ラストにとんでもないどんでん返しと怒涛の伏線回収がある。もちろん未見の観客のためにその詳細は描かないが、俺はここで興醒めしてしまった。ここまで2時間かけて人間という存在のままならなさやコインの裏表の関係である愛と憎とを描いてきた本作が突然、陳腐なジャンル映画の文脈に回収されてしまうのである。巷に山積するフェミニズムや性加害の問題をジャンル映画化することで成功した前作『プロミシング・ヤング・ウーマン』とはうってかわり、本作『Saltburn』は上質な人間ドラマをB級スリラーにすり替えることでみごとに失敗してしまった。そのことが残念でならない。

⭐︎3.7点(5.0点満点)

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