第199回 アーヤさん の巻
天神伝説によると、多治比文子(たじひのあやこ)という巫女さんのもとに天神・道真が現れ「北野に祀ってくれ!」と宣託が下ります(唐突やな~)。
文子は貧しく神社をつくれなかったので、とりあえず自宅に祠をつくり天神を祀ります。
のち有力者の協力を得て北野に神社を創建、これが現在の北野天満宮です。
道真が亡くなってから40年も経ってから、菅原家と縁もゆかりもない多治比のところに突然宣託が下りたという点から推測すると、実際は多治比一族が「怨霊利権」を狙って天神宣託を持ち出し神社創建を目指したのでは?と思われます。
国家レベルの怨霊を引き合い出すことで国家公認の神社を支配し、利権を得るためです(資金や寄付がいっぱい出ますから!)。
当時の仏教は天台宗が最有力。対抗に真言宗でした(おそらく文子は真言宗系だったんじゃないかな?)
お金持ちの天台宗が文子に協力してたことによって北野神社の創建が急速に実現します。
当時は神社もお寺もごちゃまぜで、お寺が神社の運営もしていました。北野天満宮は神社ですが長らく天台宗の運営でした(今でもたまに北野天満宮と天台宗の合同イベントをやっているのはそういうわけだったんですね)。
北野神社には藤原氏がバックにつき、指折りの国家公認神社となりますが、運営の実権は天台宗が握ります。
現在も北野天満宮の境内には多治比文子オリジナルの「文子天満宮」だけでなく、文子を神として祀る小さな祠まで存在することから、多治比一族と天台宗の関係は円満だったようです。
ちなみに「文子は道真の乳母」説もあり、下京区にある文子天満宮の説明書きもそう書かれています。
しかし文子の年齢を考えると、宣託が下りた時点が西暦942年。道真が生きていたら97歳で、その乳母なら若くてもプラス15~20歳という計算になり、年代が合いません。ですのでこれは誤りか、もしくは文子を権威づけるためのデマでしょう。
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なんと、多治比文子を主人公にした小説があります。
怨霊利権で一発狙うという、当時の情景もナマナマしいフィクションです。文子のイメージぶっ壊れますがなかなか面白いです
(抜粋)
『色を売るエセ巫女…四十年以上前に死んだ菅原道真を祀る社を作ろうと誘われ…祟りを恐れる公卿達から寄進を得ようというのだ…』
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大人気の京都・北野天満宮。 時期になると本殿は参拝客であふれます。
そんな境内での片隅、人気(ひとけ)のない場所でひっそりと存在する「文子天満宮」。
こちらの祠こそが北野天満宮の「奥の院」、「本来の北野天満宮」といえそうです。 全体的に明るい境内の中でここだけ異色の空気感を漂わせています。
一の鳥居をくぐり参道をま~~っすぐ突き当たりまで歩くと、なんとたどり着くのは本殿ではなく「文子天満宮」なのです。
通常の神社は一の鳥居から参道をまっすぐ行くと突き当りが本殿です。しかし北野天満宮の場合は文子天満宮。「本殿」は参道を「曲がって」別ルートでたどり着きます。
一の鳥居をくぐって
参道をまっすぐ行くと
途中で左に折れる参道ルートが出現
曲がらずに直進すると
突き当りに文子天満宮が見えてくる
この周辺は初詣の混雑時期でも参拝客は少ない。
ほとんどの参拝客は参道途中の分かれ目を「左に曲がり」
なで牛や摂社が並ぶメインっぽい参道を通って立派な三光門くぐり、
「本殿」へ。
文子天満宮は怨霊道真の鎮魂を願ったオリジナル神社。
現在の「本殿」は「学問の神」として後付けになるからあえて参道を別ルートにしているのかな?と思いました。
境内のつくりからも「陰の本殿(?)」は文子天満宮なのではないか?という空想をしながら毎回北野に参拝しています。
(たしかに境内でここだけ明らかに「気」が違うのです。)