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第190回 右大臣の牛車 の巻(第4部 最終回)
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道真の棺を運ぶ途中で牛が動かなくなった場所に道真は埋葬されました。それがのちの太宰府天満宮になったという伝説が最終回のネタです。
史実では弟子の味酒安行(うまさけのやすゆき)が奔走し、道真鎮魂のために安楽寺(のちの太宰府天満宮)を創建します。
しかしここで注目は…
創建者の名前に味酒安行と連名で時平の弟・藤原仲平(なかひら)の名前があるのです。
仲平は藤原基経(もとつね)の次男。つまり藤原摂関家では時平に次ぐ人で、元服式では天皇が戴冠するという、皇太子なみの異例待遇がなされたのが時平とこの仲平です。
それほどの人物が道真寺の創建に関わったのはなぜでしょうか
私のマンガ的空想…
本当は時平自ら道真を弔いたかった。しかし立場上それができなかったため弟・仲平にそれをさせた…というもの。
醍醐帝だけではなく時平の承認やバックアップなく道真寺を創建できるはずないからです。
道真のお寺が完成した頃すでに時平は亡くなって10年ぐらい経っていたようです。時平が絡んでいたかどうかは断定できません。
しかしお寺創建までのオペレーション
「お寺を創建したいという申請 ⇒ 会議で検討 ⇒ 予算の算出 ⇒ お寺の設計・工事の工程を計画・建材の収集・人員の確保 ⇒ 建設開始 ⇒ 完成」
までを考えると、時系列的にぎりぎり時平が絡んでいた可能性があるのです。
この頃はまだ道真怨霊説が流布していたというリアルタイムでの史実はないようで、創建の目的は純粋に道真を弔うためだったと思われます。
この後おそらく…政治的な意図で「怨霊・道真」が利用され、さまざまな利害関係者がそれに乗っかり、政権を揺るがしていくことになります。