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不妊治療を経て妊娠、帝王切開…40歳目前で経験した出産記録

2023年12月26日の火曜日。人生最大の瞬間を味わった。

70歳を超えるベテラン院長が、診察の時と変わらない声のトーンで「もうすぐ出るよ」と言った。自分の腹を見るが、目の前は青いシートが掛けられているので、私からは手術用の丸いライトしか見えない。

全身麻酔のため首から下の感覚はない。自分のお腹が切られる。赤ちゃんが引っ張り出される。それを待つ。

「どうか無事でいて……」

この言葉を繰り返し、唱えた。

これは、40歳目前に経験した3日間の出産記録だ。娘が生まれた日を過ぎた今こそ、振り返ってみたい。

・・・

12月23日の土曜日。里帰り出産のため、実家の名古屋にいた私は、予定日が1日過ぎたことを気にしていた。午前中に予約していた産院に行き、診察を受けたところ、院長から触診で産道を広げてもらった。痛い……。2年間の不妊治療も合わせると、3年ほど触診を受けてきた。慣れていたが、それでも毎回肩に緊張が走った。

診察から帰ってくると、奈良から夫が来てくれていた。夕飯は母と夫の3人でしゃぶしゃぶを食べに行く。隣の席には、子どもを連れた家族。首の座っていない赤ちゃんを持ち運びできるチャイルドシートに乗せて連れていた。「元気そうなお母さんと赤ちゃんだな。お腹の赤ちゃんもきっと大丈夫」と思った。

24日の朝、少し出血していた。血は少しずつ増え、生理痛のような痛みを感じた。産院に電話をかけて助産師さんに相談。「心配でしたら、一度来てください」と言われ来院。院長先生が休みのため、院長の息子である医師がエコーで診察してくれた。

「少し破水してますね。羊水が出過ぎると赤ちゃんが苦しくなります。すぐ入院してください」

破水!? 予備知識ではもっと水っぽいものが出ると思っていたが、血液が混じった羊水だったのか。準備していた入院セットを母に持って来てもらう。24日のクリスマスイブ。私が注文しておいたクリスマスケーキの一切れを、夫が届けてくれた。

24日の夕飯時はまだ元気だった。病院の食事とともに

私たち夫婦は立ち合い出産を希望していた。夫には個室のソファで寝泊まりしてもらおうとも思ったが、今日生まれる可能性はなさそう。夫には一度実家に帰ってもらう。今思えば、泊まってもらえばよかったかもしれない。深夜、下腹部からチクチクと刺すような痛みを感じ、熟睡できないまま朝を迎えた。私の体力と精神力は、ここでガクンと落ちた。

25日早朝7時、院長が診察しに来てくれた。

「うーん、これは高位破水だねぇ」

コウイハスイ……? 知らない言葉に戸惑う。子宮口より離れた部位で卵膜が破れ、羊水が流出することらしい。けれど子宮口は1センチも開いていない。そのため、破水はしても、出産できないのである。そこで、点滴とともに陣痛促進剤を右手首の血管から入れることになった。促進剤が10ml単位で増えていくごとに、下腹部を握りつぶされるような痛みを感じて、悲鳴をあげた。

そこからは地獄だった。嘔吐、下痢、鼻血、身体の穴から水分が抜けていく。震える手で、夫に「グリーンDAKARAとゼリー買ってきて」とLINE。

25日午前10時、夫がやってくる。少しほっとする。けれど、余裕はない。陣痛は波のようにやってきてはおさまるものだと聞いていた。波じゃない。エンドレスで痛い。陣痛促進剤の破壊力はすさまじい。「だれか助けて」「こんなの無理」と叫びながら無意識に壁に爪を立てた。看護師さんと夫が交代で背中をさすってくれていたようだが、パニックになっていて、さすられていることがわからない。助産師さんに促されて息をふーふーとするけれど、その呼吸が震えてできないぐらいだった。

25日午後1時、私の状態を見かねた先生が陣痛促進剤を停止。麻酔もなく産道から産むなんて、とても耐えられないと思った。

幸い、このクリニックの院長は麻酔科医でもあり、無痛分娩も可能だった。だが、必要だと思う妊婦にのみ対応する方針だったので、私は自然分娩を選んでいた。今思うと恥ずかしいけれど、泣き声で「先生、私、下から産む気力がありません」と言った。

院長は残念そうな顔をして「一つ心配なのはね」と言った。私の骨盤に比べて、赤ちゃんが大きい。無痛分娩はいきみの感覚が取りづらいから、もしかすると卵巣破裂を起こすかもしれないそうだ。

「もう一晩、子宮口が開くのを粘ってみよう」と院長。

もう一晩…。陣痛促進剤を止めても、痛みは続いている。これをもう1日耐える……。考えるだけで頭の中は絶望感でいっぱいだった。

けれど、人は信じるものがあると強いものだ。「赤ちゃんもがんばっているんだ。2人で乗り越えるんだ」と思うと、1晩を乗り越える意欲が湧いた。

25日午後5時、陣痛促進剤の効き目は切れたものの、10分に1度の感覚で陣痛がやってくる。点滴を打つ腕の血管が紫色になっていた。個室に移動し、「産道よ、ひらけ!」と念じながら耐える。夫には泊まってもらい、背中をさすってもらう。

陣痛促進剤や点滴で血管が紫色に浮き出る

26日深夜1時、痛くて眠れない。この痛みを和らげる方法はないか――。陣痛が収まる数分に、いろんな体勢を試した。ベッドに浅く座り、身体を丸め、深呼吸しながら貧乏ゆすりのような感じで膝を揺らすと、幾分か痛みが紛れた。夫がソファで寝息を立て始めた。長い夜を2人で堪えるより、夫には少しでも体力を温存してもらおう。そう思い、助産師さんに補助してもらいながら陣痛室へ移動した。

痛みが和らいだら、横になる。うとうとするとすぐ陣痛で飛び上がる。「(陣痛が)きました!」と声を張り上げ、横にいる助産師さんにさすってもらう。膝を貧乏ゆすりしながら、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と唱える。痛みが和らぐと、「ありがとうございます」と言って、すぐ横になった。

夕方から翌朝7時まで10分に1度。たぶん100回以上。院長が陣痛室にやってきた。触診したところ、赤ちゃんが骨盤まで降りてきているとのこと。「これなら、無痛分娩も可能」と言われた。ただ、完全に破水しきれていない。子宮口は出産間際には10センチ以上広がるが、この時は2センチ。一晩耐えて、1センチしか広がらなかった自分の子宮口、なぜ……。

院長からは「80%の確率で下から産めると思う。麻酔を打って、子宮膜にメスを入れることになるけどね。あとの20%はもう帝王切開。どちらも選べるよ」と提案された。

助産師に呼ばれた夫は、その説明を受けて「うーん……」とうなった。そりゃそうだ。昨日、私の骨盤の大きさでは無痛分娩をすると卵巣破裂の可能性がある、と説明を受けたのだ。「帝王切開を選んだ方がいいんじゃない?」と夫。私も悩んだが、2晩耐えてきたお産である。「産道を通ること」という出産のセオリーに、やはり挑戦したいと思った。院長と助産師さんには一度退出してもらい、夫と話した。

「赤ちゃんが無事に生まれるなら、私はどんな方法でもいい。でも下から産む可能性にかけたい。危ないとわかったら、すぐ帝王切開にしてもらおう」

院長が戻って来て、私たちの意志を伝えると、すぐに必要な書類を説明してくれた。夫が頷き、サインした。しっかり読むという選択肢は私にはなく、クリニックの皆さんと夫を信じて身を任せるしかなかった。

26日午前11時ごろ、出産するための処置室へ移動。院長から麻酔を打ってもらう。横向きになり、身体をぐっとまるめるよう指導を受け、その通りにした。打つ場所が悪ければ、なにかしら後遺症が残るかもしれないと、様々な事例を読んで知っていた。頭によぎった不安をかき消して、赤ちゃんが無事に生まれることだけを考えた。

数分後、嘘のように痛みが引いていく。無痛分娩は、子宮がある程度開くまで麻酔を打てない。完璧な「無痛」とは言えないが、出産の痛みが軽減されるというのは本当にありがたい。リスクはあるものの、「出産は痛くてなんぼ」という固定観念が和らぐのはいいことだと思う。日本の麻酔科医がもっと増えるよう、産後に何か行動しよう、と思った。

麻酔が効くのを待つ間、夫に「写真を撮って」とお願いするくらいの余裕ができた。1晩目を共に過ごしてくれた看護師さんが「池田さん、2晩もよくがんばりましたね」と手を握ってくれた。「本当に大変でしたけど、今は楽しみです」と返した。

26日午後1時半、分娩室にビーッビーッと警告音が鳴り響いた。夫と私は顔を見合わせた。赤ちゃんの心拍が急激に下がった時の機械音だった。助産師さんがドタドタッとかけよってきて、私に酸素マスクをつけた。アラームはすぐ止んだが、緊迫した空気が流れる。

その後は、怒涛の出産だった。駆け付けた院長から緊急帝王切開を提案され、夫と私はすぐに承諾書にサインした。赤ちゃんの心拍はすぐに回復したものの、いつ同じことが起きるかわからない。時間との勝負であることは容易に想像できた。麻酔が効き始めて、左脚の感覚がなくなっていた。助産師さんに両腕に担がれ、右足で飛び跳ねながら分娩室の奥にある手術台へ移動した。

水色に覆われた手術衣の院長と息子医師、看護士&助産師4名に囲まれ、帝王切開が始まった。私はほぼ裸である。無痛分娩用の麻酔の針が抜かれ、今度は帝王切開用の麻酔を打つ。頭ははっきりしている。手術を受けた経験がない私は、不安をまぎらわすために、助産師さんに話しかけた。

「おでこの絆創膏、どうしたんですか?」

手術をする人間がする質問ではないことはわかっていた。けれど、おでこに絆創膏を貼った助産師さんは、にこっと笑って答えてくれた。

「シミをレーザーで取ったんですよ」

「いいなぁ、私も出産したら、シミ取りレーザーをしたいです」

「なかなか効果ありますよぉ」

少しでも普通の話がしたかった。

12月26日午後2時14分、その時がきた。「ウアァ」という鳥のなき声に似た赤ん坊の第一声。顔についた体液を吸引されているのか、鼻と口を吸われて苦しそうな声が聞こえた。

横で手を握ってくれる看護士さんが「おめでとう」と言うのと同時に、院長から持ち上げられた我が子が現れた。彼女は黄色く濁った羊水を額につけ、眩しそうに顔をしかめている。胴体を見た。直径2センチの太いホースのような臍帯がぶら下がっている。

院長は「羊水が黄色くなってた、帝王切開に決断してよかったね」と言った。もしかしたら、心音が急に下がったのは、赤ちゃんが「お母さん、もう体力ないやろ。産道通るのやめるわ」という意思表示だったのかな。もしくは、羊水の塊が喉に詰まったのかなと思った。

3094グラム。私が生まれた時の体重より1000グラムも大きい。彼女は身体の汚れをふき取られ、横たわる私の胸にやってきた。はじけるように泣いていた我が子は、私の心臓の音を聞いて、すうっと静かになった。私から最初に出た言葉は、かすれた涙声の「よかったね、がんばったね」だった。

お世話になったベテラン院長と

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この日を迎えるために、私は2021年11月から不妊治療を始めた。タイミング療法、人工授精、体外受精という治療段階を経て、39歳で妊娠。高齢出産と呼ばれる年齢のため、体調にだいぶ気をつけていたが、振り返ると、おだやかな妊婦生活だったと思う。

出産して1年が経過した今、痛くて起き上がるのもやっとだった帝王切開の傷の痛みは、ほぼない。人間の回復って素晴らしい。産婦人科医ってすごい。

娘の生まれた頃から今までの写真を見返すと、「いつのまにこんなに大きくなったの?」と驚く。一歳になった娘は後追いが始まった。「ああ、私、長生きしなくちゃ」と思う。育児と仕事と、自分が求められることに挑戦しながら、健康的に生きたいと思います。

(記:池田アユリ)

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池田 アユリ@インタビューライター
お読みいただきありがとうございました! いい記事を書けるよう、精進します!