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その「おこだわり」、俺にはいるか?

「こだわり」という言葉をポジティブに扱う風潮

個人的な感覚では一時期よりかは落ち着いてきた感はあるけど、まだ残っている気がする。言葉自体は「自分なりの意見を持ち、それを守る」という前向きな意味に取られがちだが、実際には自分で自分の自由を奪う要素として機能していることも少なくない。

以前ネットで見かけた記事に、同棲相手がたたんでくれたタオルを自分のたたみ方で改めてたたみ直すという話があり、個人的に「うわぁ...」と思った記憶がある。

その行為でいったい誰がトクをするというのか。

たたみ直すという二度手間もあるし、それを見た相手も良い気分にはならないだろうし、そもそもどうせまた使うんだろうし、その行為にどれほどの意味があるのか疑問だった。

私もこれまで自分とは異なるタオルのたたみ方をする方と一緒に暮らしたことはあったけど、わざわざたたみ直すようなことはしなかった。

「あ、たたみ方違うんだなあ」ということは思えど、「そのたたみ方ではダメだ!」なんて相手に対して思うことはない。むしろ今では「たたんでくれて、ありがとう」ぐらいの感覚で受け止めるのが自然となっている。

他人との関係の中で見えてくる「こだわり」は、人間関係を容易に消耗させる要因となりうるのかもしれない

先日『あちこちオードリー』という番組を観ていたとき、伊集院光さんが自身のラジオ番組に送られてきたメールは自分で選びたいというこだわりの話をしているときに、以下のようなことを仰っていた。

こだわりっていう言葉を良いように使いすぎ。
自分はなるべくたくさん来たメールを自分で選ぶところからやりたいという「こだわり」があるんだけど、こだわりって辞書で引くとね「他人がさほど気にしないことに病的に執着すること」って書いてあって。
だから、そんなにプラスのイメージはない。俺のその全メール見たいっていう病気。

あちこちオードリー リアルタイム配信 | TVer

また、昔『タモリのジャポニカロゴス』という番組だったかと思うけど、その中でタモリさんが「こだわり」という言葉が好きではないというくだりがあって、「「こだわり」を辞書で引いて一番最初に出てくるのが「融通が利かない」」みたいなことを仰ってたと記憶している。

タオルのたたみ方の話を読んで、このことを思い出した。

自分のなかにある「こだわり」が、本当に必要な「こだわり」なのかは疑った方がいいのかもしれない。実際「こだわり」と思っていたものも、その根本にあるのは「固執」だったと気付くことも多々ある。

ただ単に自分が固執しているだけで周りには迷惑でしかないことなのに、何かにケチをつけたり、そもそもの目的を見失って手段が目的化しているだけで、それを本人は「こだわり」と称して自分の価値観として捉えている可能性がある。

他人の行動に少しでも違和を感じると、それを否定したくなることがあるが、その背景にある自分の価値観の危うさに気付いていないだけなのかもしれない。

「こだわり」を備えていること自体が悪いわけではないが、自分の記憶を再構築し、時には「そのこだわりは手放しても良いのでは?」と問い掛けることで、他人との関係が自然に安定し自分自身にもある程度の自由が生まれる気がする。

自分の中にそういった「こだわり」ができてないか、定期的に見つめなおしたい。

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あまやく
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