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やさしさと負債の境界線

人にやさしくするのって難しい。

「やさしくする」と「大切にする」という行動にはどのような違いがあるのか自分なりに考えることがある。

「やさしくする」とは、相手を助けたいという気持ちから、自分が今まで培った方法で相手に手を差し伸べること。これは見方を変えれば一方的な行動であり、時には相手が望んでいない形での支援にもなりうることがある。

それに対して「大切にする」というのは、相手の立場ややり方を尊重しつつ、見守りながら必要に応じてサポートすること。つまり、相手が望むかどうかを見極めたうえで行動する姿勢ともいえる。自分の中での分け方はこんな感じ。

「やさしくする」ことが過ぎると、受け取る側にとっては「負債」になる場合がある。これは、相手が心から感謝しているかどうかに関わらず、やさしさを受けることで自分が何かを返さねばならないという心理的な負担が生まれるから。

相手に負債を背負わすことなしに施しをおこなうのがどうしたら可能なのかはいつもなかなかに難しいことになるからです。

兼本浩祐. 普通という異常 健常発達という病 (講談社現代新書) (pp.40-41). 講談社. Kindle 版.

以前読んだ『普通という異常 健常発達という病』という本のなかで上の一文を見て、深く共感した。この言葉は、相手へのやさしさが無意識のうちに負担になっていないかを考えるきっかけとなり、自分にとっても腑に落ちる内容だった。

やさしすぎる人が「やさしすぎる」と言われるのは、この無意識な負債を背負わせる行為もはらんでいるからだと思う。一方で、やさしさが負債にならないよう常に心掛けていると、いざ誰かを助けたいと感じたときに、ふと立ち止まって考え込んでしまうことがある。

数年前に友人と公園を歩いていた際、目の前で高齢の男性が足を滑らせて転倒してしまった。そのとき、近くにいた人や友人はすぐに駆け寄り、男性が立ち上がるのをサポートしていたが、自分は男性の帽子を拾って渡す程度の行動しかできなかった。

このとき、すばやく行動できる友人のやさしさと行動力に感嘆する一方で、その場からすぐ踏み出せない自分に少し嫌気が差した。

この「二の足を踏む」感覚の背景には、「この行動が相手に負担にならないだろうか」という躊躇があるのかもしれない。本来、助けたいという純粋な気持ちがあっても、それが相手にとって不本意な負担になるかもしれないという考えが、行動をためらわせる要因となっているのである。

たとえば、電車に乗っているときに高齢の方に席を譲るかどうか悩むのもこの考えがあるからだと思う。次の駅で降りるんじゃないか、そうすると無意味に座ったり立たせたりすることになるのではないか、とかいろんなことを考えてしまう。

やさしさを持つことは素晴らしいことであるが、それが「負債」として受け取られるリスクも抱えている。「テイカー(受け手)」と呼ばれる人のように、無条件で他人からのサポートを受けることを心地よく感じて、相手の気持ちに対して負担を感じることが少ない人もいるかもしれないが、すべての人がそうとは限らない。やさしくした本人にあまり恩恵がない形でのやさしさや支援が積み重なると、それは相手にとって精神的な負担として蓄積されることがある。

日常生活の中で、やさしさがどのように相手に影響を与えているかを意識し続けることは難しい。真心からの行動であっても、相手が負担に感じる可能性を常に頭に入れながら行動することは、時に自分自身の行動を制限してしまうことになる。そのため、時には「やさしさ」を行使するかどうかに悩むこともある。

人にやさしくするということは、ただ手を差し伸べるだけではなく、相手の気持ちや立場を尊重する複雑なプロセスを含んでいる。やさしさが相手の負担とならないよう配慮し、本当の意味で相手を「大切にする」やさしさを、自分も意識しながら追求していきたい。

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