見出し画像

従兄との別れとデジタルとの距離感

従兄が亡くなり初めて墓参りに行ったのは彼が亡くなって数年経った頃だった。彼とは特段仲が良かったわけではない。それでも自ら命を絶って亡くなったと聞かされたときは動揺した。身近な人では初めてのことだったから。

年始の親戚の集まりでたまに顔を合わせ、一言二言話す程度の間柄。私がいない年もあれば、彼がいない年もあったし、会ったのはちゃんと数えれば10回あるかないか。

その日は父に車で連れられて従兄の墓がある墓地に向かった。雲一つない快晴。墓地のある一帯は公園の敷地内に併設されていた。近くの駐車場から細い坂道を登った先の高台に従兄の墓はあった。

墓地の周りには目印になるようなものがないため、場所を忘れないようGoogle Mapでピン留めしようとスマホを開いた。するとそこには『墓参り』という既存の地図リストがあった。

数年前、母方の祖母が亡くなったときに墓の場所の備忘として登録したリストで、思わぬところで同じことを考えていた昔の自分に出くわし、少し苦笑した。そのリストに従兄の墓も追加した。

私から見た彼は場を明るくさせるムードメーカーのようなタイプで、親戚の集まりでは叔母さんたちをいつも笑わせていた印象があり、愛想笑いしかできない私とは真逆の世界の住人に思えた。バスケ部で活発に活動し、地元の自治体に就職、結婚も早く、友人にも恵まれているようだった。そんな彼だったからこそ余計に「なぜ?」という疑問が浮かんだ。

ただ考えてみれば、従兄とは10回しか会ったことがなく、従兄の近況は親経由でしか聞いてこなかったため彼のことはほとんど知らなかった。それに彼には彼の事情があったのであろうと思い、亡くなったことを聞かされた当時も根掘り葉掘り聞くこともしなかった。気にならないといえば嘘になるが、今さら改めて追求するのも蒸し返すようで違うと思った。

地図リストに従兄の墓がある墓地を追加した際、お墓とGoogle Mapの組み合わせがそうさせているのか、ふとデジタルで管理することが罰当たりなことをしているのではないかという感覚に陥った。

数代にわたり受け継がれてきた墓石を、デジタルで「保存」することにどこか違和感があった。墓とは故人や先祖の魂が宿る、いわば重みのある「物質」。「墓」という形あるものが、一瞬で画面に映し出されるリストの一部になると、何か大事なものをそぎ落としているような気がした。デジタルの恩恵で墓参りの便利さを実感しつつも、意図せず故人が消え去る「感覚」に少し戸惑いが残った。

風が強かったせいか、なかなか線香に火がつかず苦戦している父の横へ風を遮るように立った。その間、親族の墓の場所を忘れることの方が失礼だと自分に言い聞かせることで、それ以上考えることをやめた。無事、線香に火が付いた。手を合わせ目を閉じているとき、従兄について何か思いを巡らせたかったが、あまりキレイに整理できなかった。

墓の前から立ち去ろうとしたとき、横にある戒名碑が目に入った。碑に刻まれた年を見て、その頃自分が何をしていたか思い返そうとした。頭に浮かんだのは、今の会社に入るときに作成した職務経歴書の履歴欄だった。仕事人間というわけでもないのに、自分の人生を所属していた会社とともにしか捉えることができないことに、少し嫌気がさした。

坂を降りて車へ戻るとき、高台から公園一帯を見下ろす。さきほどまでの風が今度は心地よく、別れを惜しむように肌を撫でていった。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集