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性について思うこと。あらがえなさを生きること。

「性」について思うこと。


「性」という言葉は私に「偶然」という言葉を連れてきます。

性の違いとは人間にとって遺伝子の染色体にxを持つかyを持つかの違いでしかなく、そしてそのどちらを持つかは遺伝的な「偶然」でしかないからです。


私は烏骨鶏を卵から孵した経験が二度ありますが、一度目は5羽中3羽がメス、二度目は3羽中1羽がメスでした。つまり割合はちょうど50%ずつであり、ほら美しいまでに、かわいいヒヨコちゃんたちの性を決定づける要素は「偶然」であり、どちらに生まれるかは彼らにとって「確率」の問題でしかありません。



したがって私自身が女として生まれたことに特別な意味はたぶんありません。そこに感想もありません。私たちが男であるとか女であるかというのには実は深い理由はなく、基本的に両者の違いは偶然性以外にないと思っています。


しかし「身体性」というものは確かにあります。


私たちがこうして肉体を有している以上、性に圧倒的な「あらがえなさ」があるのは確かです。それはべつに、「男はこうだ」とか「女はこうあるべき」といった、何かを区別したり規制するものではなくて、「確かに何かが身体に仕込まれている」というあらがえなさです。これは烏骨鶏を見ていれば分かることです。


オスは雄叫びを上げ、メスは卵を産み、反対のことは起こりません。オスにはオスの、メスにはメスの役割があり、彼らのそれは人間以上に顕著です。私たちだって誰もが経験しているように、そこに意思がなくたって身体が変化するし、意思がなくたって気持ちが動きます。そのことです。


そしてそれに従うことは、何かに負けている、というものではないし、克服しなきゃいけないものでもない気がします。なぜなら私たちは、生きている限り常に「身体」であり続け、そしてやはり男か女であるのは「偶然」でしかないからです。だからそこに本来、虚しさは、なくていいはずです。


そして実は、私が今noteで烏骨鶏エッセイで描いているのは、まさにそのことについてです。

「あらがえない『偶然』を自分として生きること」。

言葉では言い表し難いものですが…性の話であり命の話であるこれを、私は彼らから教えてもらっていて、上手く書けるといいなーと思っています。



彼らのはなし-note|新川ネリ


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