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踊りのこと

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踊りについて考えたことや、見た舞台について
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#パフォーミングアーツ

『Melody Cup』 高嶺格

※こちらは2011年2月20日に書いた過去の記録です _______________________ ・LEDを持った男の人。裸で、震えている。 ・影絵とリズムで始まって、ひとりずつ踊りながらマイクで自己紹介。 ・ディーバさんのTV番組。かけ離れた翻訳をする司会者。 司会者がお客さんにマイクを向けた途端に、舞台という架空の場所が現実に降りてくる。ゼロであるはずの自分という受け手が急に現れる。 こういうふうに舞台上からお客さんに急にふる、という演出はいくらもあるけれどそれ

¥150

fable

アイスランドで Natsuki Tamuraさんと一緒に作品を作りました。 自分のからだが色んなものに見えるような、その場面を見たひとが自分の中にあるいつかの景色に帰ることができるような在り方でいたいとよく考える。 踊っている自分がおじいさんに見えたり少女に見えたり動物に見えたりするといい。別の世界の別の時間の生き物に見えたり、ある神話とかに見えたりしたらいい。 目の前にいるからだが知らない言葉で何かを話しているような、それが何なのかを辿ろうとしているうちに、もしかしてすべ

再生

Dans le Brouillard 2

26日に LE 100ECS で踊りました。 今回、本番の出来は悪くなかったような気がするのだけれど、反省点は多々…。 久しぶりに舞台をいちから作ってみて改めて思うことだけれど、音楽も自分が思い描くようなものを同時に当ててゆかないと、微妙な時間や密度の操作ができない。 既存の音楽に合わせるようなことをするともたつくし、それだけで独立して成り立つように作られているため、からだを加えようとすると音の要素が多すぎる。 音や光も舞台上に存在する以上ダンサーの身体と同じく大事な要素だから、できたら音楽家と照明家と一緒にいちから作っていきたいところなのだけれど、けれど実際には、そこまでの潤沢な予算や時間が持てることはまれ。 ついありものの音楽を使い、灯りは本番前に照明家さんにイメージを伝えてざあっと作ってもらうようなことになりがちだ。 - (毎本番後に思うことなので本当に反省しているのか自分でも疑っているのだけれど)ぎりぎりになって追い詰められないと本気が出ないようなところがあって、ほんとうにいけない。 舞台が決まってからずっと考えたり生活の中のふとした瞬間にもからだでイメージを再現したりしているのだけれど、なかなか大筋というか骨組みが建てられない。 本番が差し迫ってやっと「これだ!」という画面が見えてきたり、縦糸と横糸が噛み合ったりする。 共演者をはらはらさせるのはもちろん、自分自身ずーっと長い期間気を揉むことになるし、他のことに手がつかないままなので、もうちょっとなんとかならないものかな…。 - 今まで自分が演出した作品はそんなにたくさんはない。 けれど、どういうものを作ることができて、どういうものは作ることができないのかが、だいぶ分かってきたかもしれない。 私の作ってきた作品はとにかく体が強く密度をつくらないと成り立たない、からだの質感でものを言おうとするものばかりだ。 画面全体が劇的に変化するというより、ひとつのことを深掘りして、一緒にそれについてきてもらうような。 しかし、からだで重力や時間操作をするタイプの踊り手がその場にいればいいけれど、いつもそうとは限らない。ふとした拍子に集中をそこまで高められないことがある場合、急に舞台はすかすかになるだろう。 もうちょっと実際の視覚としての画面を作れるように幅を広げられたらな。 - ひとりで踊ることも好きだけれど、やっぱり舞台上に私以外の存在がいるというのはいいものだな。 私ひとりではつくることができない景色を立ち上げることができる。 ひとりでは見ることのできない景色をそこに見ることができる。 私がただの遠景にもなれるし、お客さんの視線(や耳)を他方にあずけているあいだに、もうひとつの感覚をかさね、もうひとつの時間に触れてみることができる。 信頼できる共演者や、音楽や灯りが舞台上にあれば、私だけがしゃかりきに舞台上に存在しなくても良い。 隣で繰り広げられているものごとに委ね、私も体験して、発見して、その場でなにかを生むことができる。 その瞬間を信じて待って、ひつようがあれば返答すればいい。 - 今回の劇場は照明も自分たちで全部好きにやって良いよというものだったのでとてもびっくりした。日本だったらこの規模の劇場だとセキュリティ上考えられないんじゃないかな。照明器具はとても重いし、高いところに吊ってあるのでその扱いを間違うと怪我に繋がる。 バトンから照明を外したり移動させたりという作業は怖くてできなかったので、もともと設置されていた照明の首を振ったりスポットを絞ったりしただけで照明を作ってみた。 あんな短時間でオペを覚えてくれたDavidさんには感謝しかない。 私のああでもないこうでもないに付き合って解釈して、時には私の脱線をやんわりと戻してくれ、舞台に一緒にいてくれた共演者の亜美ちゃんにもありがとう。 ほんとにできるのか…と恐ろしくて色んな人に積極的に「来てね」と言えなかったんだけど、もっと色んな人に見てもらえたらよかったな。 ※追記:なんだかひとりで作ったような書き方になってしまったけれど今回の作品はふたりが持つイメージとか今問題としていること、関心ごとを出し合ってそれを原案とし、作りました。 - 撮って頂いたビデオをvimeoにアップロードしました。 編集せずに全部のせたので46分ととても長いですがお時間のある時にぜひ。 □Dans le Brouillard 2 演出:朝弘佳央理 ダンス・原案:藤原亜美・朝弘佳央理 照明:David BLOCK 映像:實川順也 写真:丹羽史尋 □Dans le Brouillard 2 Mise en scène: Kaori ASAHIRO Interprétation: Ami FUJIWARA / Kaori ASAHIRO Lumière: David BLOCK Tournage: Junya JITSUKAWA Photo: Fumihiro NIWA

『Mnémosyne』 Josef Nadj

Josef Nadjを見にいった。 時間前にまず通された広い会場には、ナジさんが撮ったモノクロの写真が150点ほど飾ってある。 どれも、干からびたカエルのポートレートだ。 カエルはさまざまなポーズを取って、さまざまなものと写っている。 花とか、何かの部品のようなものに寄り添っていたり、ターンテーブルに載ってぐるぐる回されているものもあるし、なかなかにユーモラスで可愛らしい。 私は子供の頃、道端で自動車に轢かれてぺったんこになって干からびているカエルを見つけるとそのままにして

『Skid』(ヨーテボリバレエ/ダミアン・ジャレ振付)

ヨーテボリバレエの『skid』(ダミアン・ジャレ振付)を見た。 10㎡、34°に傾いた大きな滑り台が舞台。 衣装の膝や肘や足の裏には滑り止めがついていて、斜面で踊ることを可能にしている。 34°の床面で踊るのは観客が想像するよりはるかに大変だと思う。 照明を当てられると観客席はうんと暗いので姿勢によってはとても怖いと思う。(実際、客席に背を向けた状態からブリッヂをするような動きは、見ている私のほうがひやひやした) 滑らない靴によって(坂に対して)垂直に立つことができるのに、

破裂の瞬間、Melody Cupのこと

書いておきたいような、でももうちょっと煮詰めないと書けないようなものごとがあって、じゃあしばらくはそのことをなんとなく頭の片隅に置きながら機会があればそこにちょっと立ち寄りながら普通に生活してみようか、普通に生活しながら気になる本を読んだりはっとするものごとに心を留めていればそのことがだんだん味付けされてくるかもしれない、とも思う、けれどそういうことをしているときっと私はこのことを忘れてしまうんだろう。 だからといって中途半端なことばにしかならないうちにそれを誰かが読めるかた