【短編小説】グリーンバスター
「先輩、本当にこの道でいいんですか?」
「いいんだよ。こっちのほうが早いんだよ」
そう言いながら車のウインドウを開け、先輩はポケットからタバコを取り出した。
いつもより機嫌が良さそうなのは、さっきの商談が想定よりも早くまとまったおかげだろう。
このご時世、営業車は当たり前に禁煙なのだが、先輩たちは「これは加熱式だから。タバコとは違うから」と当たり前のようにタバコを吸う。
問題なのはそこじゃなくて、ニオイとか、お客様と直に接する営業って仕事への心構えとか、そういうことではないかといつも思うのだが、当たり前ながら新人の僕はそれを注意できるような立場にはなかった。
先輩のルール違反を忖度していることに若干ざわつく心を落ち着かせつつ、僕は車を走らせた。
それにしても、暗い。まだ昼間なのに、車のライトが自動で点いている。いくら今日の天気が曇りだといっても、これは暗すぎだ。
その暗さは、道路脇を縁取る何本もの大木と、その間を埋めるように生い茂ったツタのせいだった。伸び放題のそれらがトンネルのようになり、この街灯もセンターラインもない田舎道をすっかり覆い隠してしまっていた。
「すごい道ですね、ここ。なんか、ツタ? がめちゃくちゃ茂ってますし」
『なんでこんな道選んだんだよ』そんなニュアンスをそっとにじませながら言ってみた。
行きに通った、コンビニとカーディーラーと怪しいスナックが無限にループする国道のほうがよっぽどマシだ。距離は近いのかもしれないが、こんな道を早く帰れる気がしない。
「ああ、葛な。田舎じゃどこもこんな感じだな」
特に表情を変えたりすることもなく、先輩がタバコを吸いながら言った。
たぶん、僕が込めたニュアンスはわかっているのだろう。だからこその、この態度だ。
「クズ?」
「知らないのか? 葛だよ。葛餅とか、葛根湯とかの」
「えっ、くず餅のくずってこれなんですか?」
そういえば前に関西の葛餅をテレビで見た気がする。関東の小麦粉からできた白いやつとは違って、葛粉からできているから見た目が違うとか、そんな内容だったような。
そのことを話そうとする前に、先輩が話を始めてしまった。
僕の反応がスイッチを入れてしまったらしい。まあ、世の中の『先輩』という存在の大半は後輩の疑問が大好物だから仕方ない。
「そうだよ。こいつはとにかく強い植物なんだ。荒れ地でも育つし、周りの植物に絡んで枯らしながらあっという間に増えてく。かなり昔に日本からアメリカにも持ち込まれたんだが、あっちでも今では手がつけられないほど増えて、グリーンモンスターなんて呼ばれてるらしい」
「へえー。先輩って、物知りですね」
淀みなく出てきたウンチクに感心して、素直にそんな声が出た。
初めて知る内容だったこともあるけれど、先輩が植物について詳しいなんて意外だ。もしかするとアウトドア系の趣味でもあるのかな。いかにもな体育会系だし……
「お前もさあ……」
まずい。その「お前もさあ」のイントネーションはめちゃくちゃ面倒なやつだ。
だいたい、この後はありがたいがありがたくないアドバイスが続いて、聞きたくもない話に礼を言ったりしなければならなくなるのだ。
「今は商品知識とか覚えるので精一杯だと思うけどさ、仕事と全く関係のないことでもいろいろ興味持って知識入れといたほうがいいよ。引き出しを増やしとけば、どこかで何かが客と話すための取っ掛かりになるからさ。特にこういう田舎の客ってのはさ……」
あー、はい。そうですね。
口には出さなかったが、僕はそんな棒読みの相槌をうった。
どうして、世の中にはこう「私の人生は君より一段階上を行ってます」みたいな空気を出してくる人間がいるんだろう。
こういうタイプ、本当に苦手だ。人の考えを知りもせずに自分の考えを唯一の正解みたいに語らないでもらってもいいですかね。やっぱりダメですよね、語りたいですもんね。
先輩はありがたいアドバイスを早々に終えて、三年前に訪問先の庭にあった柿の木から商談をまとめたという武勇伝を自慢気に語りだした。ちなみに聞くのは本人と他の先輩を合わせて、五回目だ。
それを適度に聞き流しながら運転に集中しようと努めた、その時だった。
車の数十メートル先で、葛の茂みがざわざわと揺れているのに気がついた。動物でも出てくるのかと警戒して減速したが、様子がおかしい。
それから目の前で起こったのは、信じがたいことだった。葛は激しく揺れながら、何本かのツタを空へ向かってものすごい速さで撚り合わせていく。ツタの数はどんどん増えて、あっという間に近くの電柱2本ぶんの太さと、道路を覆う木々の枝に届くほどの長さになった。
そして、その極太のツタは急にぴたりと動きを止めたかと思うと、ぎゅるりとねじれて車の進路を塞ぐように不自然に垂れ下がった。
さながら、巨大な蛇が獲物を狙って頭をもたげているかのようだ。あの赤紫色の花は瞳といったところか。こちらを鋭く……
ちょっと待った。
獲物を狙うってなんだよ……獲物って……
……もしかして、この、車?
そこまで考えたとき、巨大な葛の蛇はこちらに向かってきた。
ただの絡み合った蔓は確かにこちらに向かって口を開け、無音の殺意をこちらに浴びせかけてきた。確かに、僕はそう感じたのだ。
「ひゅっ」
驚きのあまり、声が出なかった。代わりに音をたてて息を呑みながら、僕は全力でブレーキペダルを踏みつける。
ガツン。大きく揺れた体を、シートベルトが乱暴に受け止めた。
「うおっ!」
先輩がそんな声を上げた。
話をしながらスマホでも見ていたのか、完全に予想外の急ブレーキだったのだろう。
申し訳ないけどこっちだって完全に予想外だ。今は先輩に「すみません」の一言を言う余裕すらない。目の前の異常事態に釘付けで、助手席のほうを見ることもできないのだ。
「おい! なんだよおま……え」
先輩の機嫌が悪そうな声から急に感情が消え失せた。
ようやく、目の前の異様な光景に気がついたらしい。たぶん呆気にとられてしまっているのだろう。
巨大な葛の蛇は相変わらずこちらを睨み、ゆらゆらと揺れている。ブレーキを踏んだものの、そこから僕は身じろぎひとつできなくなってしまっていた。
まるで、蛇に睨まれた蛙だ。今なら、そんな蛙とも気持ちが通じ合える気がする。きっと、「あれ、すごくない? 睨まれたらマジで体動かなくなるんだねー」みたいな感じで盛り上がる。
いや、蛙と共感しあってる場合じゃないだろ。この状況から抜け出す方法を聞けって話だよ。その前に、蛇に睨まれた経験のある蛙って生存できてるのか?
いやだからそういう話じゃなくて。本当にこれ、どうしたらいいんだ。
……どうしたらいいんですかね。
頭の中では、そんなバカみたいなことが次から次へと浮かんでは消えていく。
それを止めてくれたのは先輩だった。
先輩がいきなり僕の頭をバチン、と叩いて
「馬鹿野郎、バックだ! 逃げんだよ!」
と叫んだのだ。
それを聞いて、僕はすぐさまギアをバックに入れた。
「バックだ」「逃げろ」。単純で明快。それはどうしたらいいのかわからずにフリーズしてしまっている頭と体でもすぐに実行できる指示だった。
「遅いんだよ! もっと吹かせ! 後ろ見ててやるから!」
「はい!」
先輩に運転席のヘッドレストをバンバン叩かれながら、僕は必死にアクセルを踏み込む。
なんだこれ。
最悪のシチュエーションだ。これは間違いなく一生思い出に残る。良かったことを無理やり見つけるなら、この道が直線で、他に車が一切走っていないことくらいだ。
薄暗い田舎道を、車は猛然とバックで走りだした。
すると、それに合わせて葛の蛇も動き始めた。周りのツルと一緒に様々な概念や常識をブチブチと引きちぎりながら、決して速くはないが全く安心できないスピードで移動している。
まさか、あそこから加速して……そんな、まさか。
アクセルを踏む足が小刻みに震えだしそうになるのを太もものあたりを拳で叩いてごまかしながら、僕は泣きそうになっていた。
どうしてこうなったんだ。
先輩に怒鳴られながらアクセル全開、ノールックで車をバックさせて、目の前ではこんなB級パニック映画みたいな光景が繰り広げられているなんて。
先輩が言ってたグリーンモンスターってこういうこと? 田舎怖すぎでは?
こんなのに出くわしたら、地元の人はどうしてるんだ?
その答えは、意外と早く出た。
「ひゅっ」
また声にもならない変な音が喉から出た。
いきなり、車と葛の蛇の間を遮るように人が現れたのだ。近くの茂みから出て来たのだろうが、葛の蛇だけを見ていた僕には何もないところから人が湧いて出たように見えた。
その人物は、この暗い道でも目立つ派手なピンクのツナギ姿だった。背中まである黒髪を一つに束ね、右手にはその身長と同じくらいの長い棒を持っている。こちらに背中を向けているから顔はわからないけど、体つきからしてたぶん女性だろう。
「危ない」、「逃げて」。そう声をかけようとウインドウの開閉ボタンに手を伸ばそうとした時、あろうことかその人物は葛の蛇に向かって走り出した。
焦った僕がウインドウを開けるのに四苦八苦しているうち、その人物は葛の蛇のすぐそばまで来ていた。葛の蛇が吐き出す殺意なんてものともしない様子で、走る速度を落とさないまま両手であの棒を打ち付ける。
すると、蛇の巨体が一瞬動きを止めた後、細かく左右に揺れた。よく見てみると、頭近くのツタがちぎれている。
棒のほうに目をやれば、片方の先端に鎌らしきものがついていた。ただの棒ではなく、1メートル以上の長い柄がついた草刈り鎌。その刃で切りつけたのだ。
のたうつ葛の蛇の周りを素早く駆け回りながら、その人物はその長い柄の鎌を器用に振り回していった。向かってくる頭や尻尾をかわし、上下左右から二度三度と勢いよく刃を叩きつけるたび、撚り合わさったツタが少しずつただの雑草に戻っていく。
倒しているのか? ……あれを。
ようやく目の前の光景を理解した僕に、先輩が声をかけた。
「あそこの道入れ! 看板のところ、左!」
「えっ? は、はい!」
さすがに前だけを見ているわけにはいかなくなって、僕は後ろを向いた。一気に減速しながら必死にハンドルを切ると、車は先輩が指示した道へと少々心配になる傾き方をしながらもなんとか入ってくれた。
車が90度向きを変えたとき、一瞬見えたのは道路に散らばる大量の葛と、その傍らに立つピンクのツナギの人物だった。
横道に車体を隠すように入った後、僕は先輩の指示で車を停めた。
二人でしばらく息を殺してさっきの道の方向を見つめていたが、何も動きがないと見て取ると先輩は大きく息を吐いてから
「……大丈夫そうだな」
とつぶやいた。
「そう……ですかね……」
そう答えた瞬間、全身から疲労感が一気に吹き出してきて、僕はハンドルに突っ伏してしまった。あんな異常な緊張を強いられたんだから当たり前だ。額には変な汗をかいているし、手も震えだした。
本当に、とんでもない体験だった。とにかく無事にやり過ごせてよかった。あの人がいたおかげだ。あのまま逃げているだけなら、どこかで追いつかれたかもしれない。
けど、あの人は何者なんだ? 驚きもせずに立ち向かっていったんだからあれの存在は知っているということだろう。あの長い柄の鎌も扱い慣れていた様子だし、あれを退治したのだって初めてじゃなさそうだ。いったい……
「なあ、ちょっとそこの店入るか。休憩しようぜ」
肩を叩かれて体を起こすと、先輩が後ろを指していた。その方向を見てみると、何か建物がある。その前には『定食』『コーヒー』と書かれたのぼりが見えた。
「はい」
そのままゆっくりと車をバックさせて、店を目指す。
そこは小さな食堂だった。看板の『やまなか食堂』という文字はすっかり色褪せてしまっているが、店構えはきれいにしてある。こういう場所の店にありがちな、入りづらい雰囲気は全く感じなかった。
「いらっしゃいませー! 空いてるお席にどうぞー」
店に入ると、奥から中年の女性が笑顔で迎えてくれた。女性はテキパキと準備をし、僕たちが席に着くのとほぼ同時に、コップと水の入ったピッチャーを置いた。それから、一緒に豆皿も並べ、
「こちらサービスです、どうぞ!」
と言った。
豆皿を見てみると、何か透明な塊にきな粉と黒蜜がかかっている。これはテレビで見たことがある。関西風の……
「くず餅?」
「はい! この辺りの名物なんですよ。本葛100パーセント! 山からハンターが獲ってきた鮮度抜群のものを使っているんです!」
なるほど。関東でこのタイプのくず餅なんて珍しいな。
……ん?
「ハンターが」、「獲ってきた」?
ハキハキした口調で言われたから思わず「へえーそうなんですねー」なんて返そうと思ったが、なんだかものすごく違和感のある情報が含まれていた気がする。
ええと、それは植物の採集をするプラントハンターという意味合いでよろしいでしょうか。よろしいですよね? もしかして、さっきのあれみたいなのがこの辺りでは日常だったりするとか、まさかそんなことありませんよね?
頭の中で一気に噴出した疑問のやり場に迷っているうちに、不意に背後から声がした。
「おばちゃん」
「ひゅっ」
突然店に現れた人物を見て、僕の喉からはまた変な音が出た。
そこに立っていた人物は、ど派手なピンクのツナギに身を包んだ、長い髪の若い女性だったからだ。そう、さっきあの葛の蛇と格闘を繰り広げていたあの人だ。あの長い柄の鎌は持っていなかったが、代わりに体の半分ほどもの大きさがあるビニール袋を持っていた。
女性だとは思っていたけれど、近くで見るとモデルみたいに身長が高くて、日本人形みたいな切れ長の瞳が印象的だった。刃物みたいにシャープな印象のクールビューティーだ。年は僕と同じか、もっと若いかもしれない。きっと、ピンクのツナギ姿じゃなかったらモデルみたいに見えたことだろう。
それにしても、人が入ってきた気配は全くしなかった。さっき同様、どこからかフッと湧いて出てきたかのようだ。
「あら、ユメちゃん」
店の女性はそれに驚くこともなく、ピンクのツナギの人物に笑顔を見せた。おそらくは顔見知りなのだろう。
ユメと呼ばれたあの女性は、店の女性に笑みを返すわけでも、あいさつをするわけでもなく、真顔のままだった。そして、僕らには目もくれずに店の女性の前までやって来て、手にしていたビニール袋を差し出すと、
「これ、今獲った」
とぶっきらぼうに言った。
袋は茶色の物体でいっぱいだった。ぱっと見、木の枝に見えたが、土にまみれているのでたぶん何かの根だろう。根にしてもかなりの太さだ。20センチくらいの長さでぶつ切りにしてあるようだが、一本がサツマイモくらいに太い。
「あらー、いつもありがとうね。代金はあとで届けるわね」
店の女性がそう言って袋を受け取ろうとしたのをユメと呼ばれた女性は手で軽く制すると、店の奥にある厨房まで運んでいった。
「運んでもらっちゃって悪かったわね」
「今回、かなり重いから。気をつけて」
「わかったわ」
なんだ、普通の子なのかな。二人のやり取りを見ていて僕はそう感じていた。
さっき鎌を振り回していたの様子に加えてこの雰囲気や口調だから、怖い人なのかと勝手に思っていた。けれど、店の女性も好意的な様子だし、そんなことはなさそうだ。「気をつけて」のイントネーションには、ちゃんと人を思いやるようなニュアンスが感じられた。
まあ、あんな化け物を鎌一本で倒してしまう女性だという点は考慮しなければいけないけれど。
「それじゃ、これで」
これまたぶっきらぼうに言うと、ユメと呼ばれた女性は店の女性に会釈をしてから、何かに気づいたように僕らの席に視線を向けてきた。
そうだ、どんな人なのかを見ている場合じゃなかった。さっきのお礼を言わないと。
まさかこんなところでまた会うとは思っていなかったから、そんなところに気が回っていなかった。
「あの、さっきは……」
僕がそう声をかけた時、ユメと呼ばれた女性の視線の先に気がついた。見ていたのは、僕らではなく先輩だ。何かを確認するようにじっと見つめている。先輩のほうはといえば、見たことがないくらい焦った顔でその視線から顔をそらしていた。
えっ、何? 先輩ちょっと震えてるし。
「トウマ兄ちゃん」
ユメと呼ばれた女性が口を開く。トウマというのは先輩の名前だ。
その声を聞いた先輩の体がびくっと揺れた。
「おじさん、怒ってたよ」
さらにそう続けられると、先輩は顔をそらしたまま何かを考えているようだった。
しばらく店の中に妙な静寂を作り出した後、先輩は意を決したような表情でユメと呼ばれた女性の方に向き直り、
「……今度帰るってユメから親父に言っといてくれ」
と、なにか並々ならぬ決意を感じる声で言った。
「わかった」
その決意をそんなあっさりした一言で受け取ると、ユメと呼ばれた女性はすぐに店を出ていってしまった。先輩はその背中を見送ると、まるで大事な案件が終わったときのような大きなため息を吐いている。
僕はといえば、二人が交わした言葉の内容に驚いてしまって、お礼を言うチャンスを完璧に逃した。
……ええと、どういうこと? 先輩があの女性を呼び捨てにした? 向こうも先輩の名前を知っていて、それに「兄ちゃん」って呼んでたな。おじさんが、親父で、ということは……
「えっ、トウマ兄ちゃんって……えっ、ええーっ!」
そんな大声を張り上げた僕を、先輩はまた「馬鹿野郎」と叩いた。その顔はなんだか恥ずかしそうだった。
「まあ、ここらの人間でもあまり知らない話なんだけどな」
あの後、店で葛餅を食べながら先輩がそう前置きしてから真相を話してくれた。
この辺りでは稀に葛が「ああいうやつ」になることがあり、それを退治することを生業にする家と、この店のように退治した葛を葛餅にする家があるのだそうだ。
「ああいうやつって、あんなのが出てきたら大騒ぎになりませんか? テレビとか来たことないんですか?」
「あれはな、地元の人間しか知らないような場所にしか出てこない。それに、この辺ではいわゆる『山が病気の状態』だって考えられてる。誰だって病気の時に周りで騒がれたくないだろ? だから誰も騒がないんだ。うちやユメんちみたいな人間に退治されて、病気が治るのを静かに待つんだよ」
「でも、最近だったら写真とか動画とか……」
「お前、なんか撮る余裕あったか?」
「いいえ」
「この話を友達にして、信じてもらえると思うか?」
「思えません」
「そういうことだ」
そして、あのユメさんと先輩はその「退治する家」の人間で、先輩は隣町が実家の親戚同士。小さい時からよく知っているそうだ。
先輩がクズに詳しかったのはアウトドア趣味なんかじゃなく、先輩の言葉を借りれば『家業を継ぐための修行の一環』だからということだった。
「じゃあ、先輩があの時あれを倒してくれたら良かったんじゃ?」
「無理言うな。道具もないし。それにこの辺はユメの家の担当だから誰か来ると思ってたし。それにな、俺は逃げたんだ。修行を」
「どういうことですか?」
先輩が言いづらそうに教えてくれたのは、「退治する家」は代々長男か長女がその役割を継いでいくこと、先輩は一人っ子長男なのにその役割を継ぐのが嫌で、大学を卒業したら実家に戻るという約束を無視して親に内緒で就職を決めてしまったということだった。それから実家とはほとんど連絡を取っていなかったらしい。
「そんな状態なのに、よくこの案件担当しましたね。めっちゃ実家近くじゃないですか」
「いや、土地勘あるし、地元トークで有利だと思ってさ」
「はあ……なるほど」
そんな状態の中さっきの出来事に遭遇し、先輩はきちんと家業を継いで役目を果たしているユメさんを初めて目にしたらしい。
今までは古臭いしきたりに縛られてばかりのつまらない仕事だと思っていたのが、ユメさんの姿を見てこれは絶やしてはいけない仕事なんだと認識が変わったのだという。
「ユメが……俺の中ではちっちゃい女の子のイメージしかなかったあの子が継いだんだって思ったらさ、やっぱり、続いてきたことには意味があるのかな、やりもしないで意味がないなんて決めつけちゃいけないのかな、なんてな」
先輩ははにかみながらそう言うと、葛餅を一切れ口に運んだ。
僕もつられて食べてみたが、つるりとした口当たりの中に花や草のような香りが同時にいくつも広がってすごく美味しい。関東のものしか食べたことがなかった僕には衝撃的だった。同じ名前なのに、全く違う食べ物だ。
「美味いだろ? ここのはよその本葛の葛餅とも全く違う。山の香りがそのまま入ってるんだ」
何度もうなずく僕にそう言った先輩は、どの武勇伝を聞かせるときよりも誇らしい顔をしていた。
それから三か月後、先輩は会社を退職した。
『実家の家業を継ぐ』という理由に、皆が先輩の家業を詮索する中、僕は何も言わずにおいた。
だって、信じてもらえないと思うから。
「今年も来たなあ」
僕は家に届いた宅配便の箱をテーブルに置いた。中身は見なくてもわかっている。葛餅だ。
先輩が会社を辞めてしばらく経ち、僕にも先輩風を吹かせる相手ができた頃から、毎年家に葛餅が届くようになった。他の同僚や先輩にも届いているみたいだから、年賀状感覚で送ってくれているのだろう。
『一度手に入れた人脈のリストは何が何でも生かしておきたい』、営業マンだった時に叩き込まれたマインドがそうさせるのかもしれない。辞める前に会社の人の住所を聞けるだけ聞いていったみたいだったもんな。
箱を開けると、きれいに包装された包みが出てきた。包みにかけられた飾り紐に小さな手紙が挟んである。これも毎年のことだった。あの人、会社でもお礼状とか毎回マメだったもんな。
手紙を開いてみると、今年は便箋のサイズに見合わない量の文章が小さな文字でびっしりと綴られていた。
『ようやく家業もつつがなくこなせるようになり、伝統的な仕事を続けていくことの面白さや難しさを感じながら日々を過ごしております。私見ではありますが、このような仕事が未来に渡り持続していくには、クリエイティブな視点を持って伝統に新たな側面を与えてやることが必要不可欠です。つきましては、この度新たに事業を展開する運びとなりました……』
そこまで読んで、葛餅の箱を持ち上げてみると、A4三つ折りカラー印刷のリーフレットが入っていた。
『株式会社 グリーンバスター ~雑草を唯一無二の”資源”へ~』
そう書かれた文字の下で、ツナギ姿の先輩が笑っている。
あれだけ『営業は見た目が大切』とか言って美容やスーツにかなり気を遣っていた人が、今や日焼けした顔で、ツナギ姿。こんなくしゃくしゃの笑顔、見たことがない。
箱の送り状を見てみれば、去年まで先輩の名前だった送り主はその会社の名前になっていた。
……あーあ。いい、笑顔じゃん。
「あはは、やっぱこの人苦手かも」
僕はそのリーフレットを箱に戻すと、葛餅を開けにキッチンへ向かった。
葛もすっかり枯れちゃった季節になってしまいましたが、お読みいただきありがとうございましたー
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