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独身アラフォー女性の奮闘記#14 年相応の情緒と音楽ジャンルを照合してみた

私はロック少女だった。アイドルには目もくれず、ジャニーズやLDHなどの男性グループにハマることなく人生を40年以上過ごしてきた。
くだ巻きシリーズにもちょこっと記載した通り、先月から某人のコンサートに足を運んでいるのだが、終演後ふと思うことがあり、帰宅後にインターネットや自宅に保管している大量のVHSにて、昔の映像を漁り始めた。

血湧き肉踊る感覚は、いつだってロックンロールが思い出させてくれるはずだ。


今の私はロックじゃない

別に、今更尖っていることがかっこいいとも思わないし、だらしないのを良しとも思わない。でも、今の私、全然ロックじゃないじゃん。
そう思った。
他者からの評価ではもしかしたら、まだまだそうなのかも知れない。40歳になっても、落ち着くことなく、自分の人生をエンジョイしていて、自由に生きているから。
でも、自分比で考えた時に、10代の頃や20代の頃のヒリヒリした感覚っていうのは、もうなくなってしまったように感じる。それは、大人になったんだから当たり前のことなんだろうけれど、カチッとハマる感覚っていうものが、年々鈍ってきていることに、少しだけ寂しさを感じることがある。

若い頃の私は、会いたいと思った人に会えたし、向こうからやって来ることも多々あった。やりたいと思う仕事がすんなりと手に入った。好きな人は私のことを好きになった。結構、いろんなことが思い通りになることが多かった。
スピリチュアルな人はそれを引き寄せと呼ぶし、一般的には運の良さとも判断されるし、個人的には自分の執念だと思ったこともある。
そんなマジックが、30代で消えてしまった。疲れ果てて、欲しいものも、会いたい人も、好きな人もできなくなった。手の届く範囲の、愛犬や友人で満足できた。それでも、人生で一番の憧れだった人との仕事をする機会が与えられたし、その時は「まだ舞える…!」と思ったけれど、その仕事にも紆余曲折があって、その後、周囲の嫉妬や羨望から結構な痛い目にあったりもした。

そんな周囲との摩擦が面倒に思えて、私は争わなくなったし、怒ることも少なくなった。数年ぶりに人に会うと、総じて「優しくなった」とか「まるくなった」と言われるくらいには、昔の私は口を開けば誰かに喧嘩を売っているようなものだった。優しくなったことは、むしろ良いことだけど、自分の中でしっくりこない時がある。私って、こんなにも、言いたいことも言えない人間だったっけ?Poison…。


世界の終わり

THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのデビュー曲の歌詞の冒頭に、「悪いのは全部君だと思ってた 狂っているのはあんたなんだって」とある。
とんでもねえや。
この曲が世に放たれた当時、中学生だった私は、学校の教師でめちゃくちゃ嫌いな女がいた。理由もなく呼び出されて、全く別の子の悪事について責められたので、逆にその教師を泣かせて家に帰ったら、母に学校から電話があったと言われて叱られた。
モヤモヤした私は大音量で、この「世界の終わり」という楽曲を聴いた。狂っているのはあいつだ、そう思いながら。
そういう思春期ゴリゴリ厨二病ロック少女だった私は、高校生になって寮に入ると、結構な悪事を重ねるようになった。もちろん、法律には触れない範囲で、しかし、校則はバリバリ破っていた。国外だったこともあり、自由という名の下で、不自由さを痛感して大暴れしていた。

私が好きなロックンロールは、尖っていてもどこかロマンチックなものが多かったと思う。上記の「世界の終わり」だって、「紅茶飲み干して君は静かに待つ パンを焼きながら待ち焦がれている」という一説があるが、紅茶とパンっていう部分に、中坊ながら物凄くロマン溢れてて素敵だな、と感じていた。
そして、私はまごうことなき正統派の厨二病だったので、破滅への憧れもあった。
別に明日死んでも悔いがないように、言いたいことも言うし、やりたいことはやる、みたいな、完全に親泣かせの子供だった。

「明日死ぬかも知れないし」っていうのは、今でも思っている。
ただ、今は親より先には死にたいわけではない。たくさん親不孝をしてきて、嫁にすら行けてない私が、親より先に死んだらもう目も当てられないじゃない。そんなことを思うくらいには、大人になったし、私のロックな心も落ち着いてしまった。

<参考>「世界の終わり」解散ライブ、最後の1曲として披露された映像。
故人になってしまったアベフトシが神々しすぎて泣ける。わかる人にはわかるんじゃなかろうか、このエモさ、このヒリつき。


もはやフォークだ

昨今の私は、ちょっとロックな気持ちを味わいたくて、火遊びをしてみたり、刺激を求めて異性との出会いを体験してみたりしたものの、最早ロックの勢いではなかった。人生のBPM100超えなんて、もう絶対無理。80でも無理。
そう、これはフォークだ。まあせめて、フォークロックという位置付けにしようか。

ただ、穏やかに日々を過ごしている時点で、物足りないと感じてしまっていることが問題なのだ。普通に考えて、穏やかな日常なんて、本当はとても幸せなことなのに、なんで私はそれで満足できないんだろう。
つい先日8年ぶりに再会した下北沢の友人たちからは「アマリリス、全然変わってなくて安心した!」と言われてちょっと嬉しかった。むしろ、店長には「あの当時武士の如し貞操観念だったのにどうした?」とか心配までされた。あれ?てことは当時の私もきらきら武士だったってこと…?おかしいな、あの時点でもうロックではなかったのか?え…?ファンクだったってこと?なるほど…?

とりあえず、ロックから途中何故かファンクを経て、今フォークに落ち着いたよってことにしておこう。このまま行けば、最終的にはやっぱり演歌にたどり着いてしまうのだろうか。

でも、フォークの情緒は嫌いじゃない。40代の私にはハマるんじゃないかな、とすら思える。少し脳を使って文学的部分を取り込んだり、歴史的背景をきちんと噛み砕いて考慮していく過程が、怒りやアンチテーゼ的なエネルギー放出だけをするよりも、合っているのかも知れない。


俺のビートを刻んでくれ

冴えない気持ちの理由は分かりきっている。
もう本当に、さっさと成仏してもらうしかない感情が蟠っているだけなのだ。

友達なら、沢山でもないけれど、信頼できる人達がいる。
家族も少ないし物理的な距離の問題でなかなか会わないけれど、仲が悪いわけではない。
私は、パートナーと呼べる人が欲しい。それが恋人でも結婚相手にもなり得る人なのかもしれないけれど、私と一緒に、残りの人生という音楽を奏でてくれる人がいたら良いなと思う。
アラフォーで独身なんて訳ありだと言うけど、そんなのお互い様だし、私がこうして存在しているんだから、別に、異性だって、見た目が悪くなくてそれなりに稼ぎがあって、真面目に生きてきただけの人だって居るかもしれないじゃないか。キングクリムゾンさんに出会った時、そんな人を見つけたと思った。彼が真面目だったかどうかなんて、今となってはもう、知る由もないけれど、でも、あの「見つけた!」という感覚を、また私は別の誰かでも良いから味わってみたいな、と思う。無敵だった若い頃の私には当たり前にあった感覚だったから。

無敵の私の人生のBGMはいつだってロックンロールだったんだから、これからも、ロックなビートを刻んで行かなきゃ。何言ってるんだろう。ダサくて笑える。
とりあえず、この外的要因によるLOWな気持ちが天に召されるまでは、プログレで行くしかなさそうなので、この曲をテーマソングに設定しようか。
あれ、私全然成仏させる気ないのかな…?
あーあ、ジャズが好きって言ってたことも思い出してしまった。プログレッシブロックって、ジャズ要素も入ってるよね…納得。

おやすみ、stranger。
早く忘れられますように。

21世紀のスキッツォイド・マン(精神異常者) / King Crimson

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