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少なくとも、コーチであろうと決意した。

暗闇の、対話の森を、白杖を持ち、みんなと声を掛け合い手をつないで駆け抜けた、そのあとで。
目が見えないこと、あるいは不確実性や不透明度の高い時代を生きることは、必ずしも前に進めないこと、あるいは価値を発揮できないことを意味しない。

コーチになろう、とは思わない。

コーチになることと、コーチであることは別だ。
僕は高校生の頃に自らのマネジメントに課題意識を持ち、大学1年生からコーチングを学んできた。そして、今では若手社会人や学生さんを中心に、彼らの人生の選択肢をともに考えるお手伝いをしている。

以前より”コーチング”という行為は好きだった。一方で、”コーチになりたいか”と言われれば、「それは違う」とはっきりと答えたと思う。しかし、それがなぜかはわからなかった。

コーチとは、対話相手すなわちクライアントさんの思考や感情を、心理学や文化人類学、あるいは哲学や倫理などの複雑性の高い情報を踏まえたうえで、俯瞰し、ただ共にある存在だ。コーチはクライアントの前では”コーチ自身”の情熱や興味関心を見せることを許されない。無意識に承認につながってしまう情報は、クライアントさんの内側への意識の矢印を狂わせてしまう。

それが”コーチとして”正しい姿なのだろう。しかし、僕はそこにはときめかないし、そうなりたいとも思わない。


あくまでも、ひとりのプレイヤーとして。

僕は、そのひとが、その自我の中の、そのひとしか持っていない内発的動機や好奇心が強ければ強いほど、その人にワクワクするし、かかわっていたいと思う質だ。

僕の周りには、そんなユニークで強烈な内発的動機、あるいは自我そのもののが輝いている人がたくさんいる。そういう人とかかわるためには、やはり僕自身が武器とできる自我、あるいは経験、あるいは好奇心を持っていなければいけない。そうでなければ、イノベーションは起きないし、それぞれの経験は交わらず、失敗はシェアできず、対話から学びも生まれない。

僕はコーチとしてあろうと思う。

しかしそのことは、僕自身がプレイヤーとして活動すること、つまり自ら理想を描き、人間性の明るい部分も暗い部分も見つめながら、葛藤し、挑戦することを制限するものではない。自分自身も挑戦しているからこそ、この人になら自分の(まだあやふやな)理想をぶつけてみたい、そう思ってもらえるのではないか。

僕はどうありたいか。

最近の僕のコーチングは、コンサルティングに寄ってきてしまっていた。

僕は傾聴することが好きだ。しかしそれと同じぐらい、相手の話を聞きながら感情や思考をともに歩くことが好きだし、そういうものを分解すること、メタファーを使って理解する、共通認識を持つ、”あぁ、そうだよ!そう思ってたんだ!”となることが好きだ。

しかし、それはあまりにも傾聴とはかけ離れたものだった。

対話の森で僕がどうありたいかを自分と対話した際に思い浮かんだのは、倫理や哲学、歴史、文化人類学、そのほか”これまで人類がいかに技術(テクノロジー、仕組み、制度、思想)を作り出しまたそれと付き合ってきたか”が詰まっている本棚を背景にして、目の前のクライアントさんと向き合っている姿だった。

僕がやりたいことは、目の前のクライアントさん(これからは、対話相手と呼ぼう。)が、どんな社会を実現したいのか、そしてそのためにはどんなキャリアを歩んだらいいのか。それについてともに議論することである。

それができるのは、もちろん”プロフェッショナルのコーチ”だ。しかし、僕自身として、自分自身も複雑な知識や哲学の間で葛藤し、自ら理想や妄想を形にしていきたい。コーチとして、そしてプレイヤーとして、その両方ができるからこそ、自分なりの”コーチ”を実現できると考えている。

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目が見えないこと、あるいは不確実性や不透明度の高い時代を生きることは、必ずしも前に進めないこと、あるいは価値を発揮できないことを意味しない。

仲間と声を掛け合って、白杖という道具を手にすれば、たとえ暗闇に包まれていても前に進むことができる。

私はあなたの白杖になるつもりはない。この複雑で、不確実で、しかしどこへでもつながっている森を歩いていこうとする、あくまでも暗闇に包まれた森をともに歩く仲間として、あなたと共にある。

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対話の森

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