期待と評価
今日も雨。
今年の梅雨は例年より長い見通しらしい。
いい仕事をすることは
それがたとえ文句なしに
良質で密度の濃いものであったにせよ
よい評価を得ることとイコールになりえない。
評価と期待はコインの裏表。
評価はもともと期待に対し計られるものかもしれない。
だから、もし良い評価を得たければ
まわりの期待通りのことをやればよい。
でも、それだけでは何か足りないと思う。
コーヒーに氷を三つ。
期待した通りに物事が進んでいる時、
人はそれを自然のなりゆきと捉える。
そろそろ出かけなきゃ。
朝、いつものようにエンジンをかけ、
サイドブレーキを外し、
シフトレバーをDにする。
車は期待通りに走り出す。
うまくいっている時、
人はエンジンのことなど、
気にも留めない。
当たり前のことは、
当たり前に人の心をすり抜け、
一度過ぎればその存在すら忘れてしまう。
それは
きれいに並んだ食器棚。
洗い立ての皿は
勝手に棚には戻らない。
そこには誰かの時間が
その行為の為に消費されている。
それをした人には見えている仕事が、
他人には見えないのだ。
見えないのだから、
評価はおろか、
期待すらもとから無いのかもしれない。
理不尽なのは
期待もなかったくせに、
できていない事に対しては
大抵冷たい非難が
どしゃぶりの雨のように降ってくること。
やって当たり前。
さらに、もっとやらないと
無いものにされてしまう。
つまりサービスというのは、
それが一旦当たり前になってしまった途端
忘れ去られてしまうだけでなく、
さらに求められてしまうもの。
だから、どれだけやっても、
不平ばかり聞かされることになる。
仕事帰り。
フロントグラスに叩きつけられた雨粒
信号機が滲む。
人間の感覚というのは、
変化に対しより強く反応するのだという。
夜、お気に入りのアロマオイルを
ディヒューザーに垂らし寝床に入る。
はじめはふんわり薫っていた香りが
次第に感じられなくなる。
窓にしたたる雨が天井に影つくる。
私は寝返りをうちながら考える。
人間なんていい加減なものだ。
だから、他人の評価なんか考えない方がいい。しかし、そう思いつつも、また一方で思う。
人は自分を他人という鏡により知る生き物だ。
仕事でまわりの評価が高くなれば嬉しいし、自分の頑張りに対し、評価してもらえないのはやはり落ち込む。たとえ頑張りが独りよがりだとしても、評価の閾値に達してないに過ぎないにしても。
そもそもそれを他人に期待するのは間違いなのか?
自分がワクワクして楽しければよいだろう。
でもそれだけでは何かが足りない。
おそらくヒントは
「この世界に対して何か役に立てているか?」
ということ。
世界とは人だけのことでなく、
草、樹々、昆虫、動物、空気、空、つまりすべてのこと。
嗚呼、結局ありきたりな結論になってしまった。
理想は自分のワクワクと人の幸せの両方を、自分自身が実感できることなのかもしれない。
他の期待を感じるではなくて、
他の幸せを感じようとするアンテナ。
それが持てたらこんな思いなどせずに済むのだろうか。
やれやれ、
今日もヘトヘトだ。