真夜中のちいさな冒険
うちの猫は家から出さないけど、
世の外猫たちは、夜な夜な「猫の集会」なるものを開いているらしい。
そういえば、私も
昔一度だけ見たことがある。
あれは確か、大学2年の夏のこと。
あまりの暑さで深夜まで眠れず、
テレビも、いつしか通販番組ばかりになってしまった。
画面上部に表示された時計は、午前4時になろうとしていた。
じきまた、もわっとした朝がやってくる。
うんざりするような蝉の声と、あの熱帯夜にくたびれた空気とともに。
さっきからテレビでは、薄水色のストライプシャツを着た小男が、絨毯にわざとトマトジュースをこぼしている。さらに靴の底で擦りつける。次は牛乳。これみよがしに。
「おいおい何するんだ。あーあ、なんてこった(日本語吹替)」慌てる司会者。
「なあに心配ないさ。見ててごらん」と、小男。
持っていたスプレーを吹きかけると泡とともに汚れが浮き上がる。
会場からざわめきの声。
司会者は口をあんぐり。
お電話はお早めに。今なら同じ値段でさらに、もう一つお付けします。
深夜のテレビショッピングは、いつも未来に対し楽観的だ。人は何か新しい物を手にする事により、都合の悪い日常は、今より劇的に良くできる。それが彼らのメッセージだ。
テレビ画面で繰り広げられる、深夜の奇跡の数々が何よりの証拠。
そして最後に、
おもむろに選択を迫るのだ。
買うのか?それとも買わないのか?
選んだ者は救われる。投資は美徳。
それが彼らの宗教だ。
このまま一晩中、
酸素の泡が汚れを溶かす様を見つめ、
恍惚に浸るという選択肢もあった。
あったけれども、とにかく暑かったし、無性に夜風に当たりたかった。
それに、せっかくこんな時間まで眠れないなら、朝日がのぼるのを見るのも粋かしら云々。
若さのなせる技か、
はたまた、有り余るエネルギーまかせの行き当たりばったりか、
なんだっていい。
そんな訳で静まり返る夜の街に出ることにした。
とりあえず銭湯の側を通り、中華飯店脇の小道を入る。
街灯もまばらなその狭い道には、かすかな人の気配がある。それはそこに眠る人々の寝息とも、昼の営みの微かな余韻とも言える。静寂の隅に微かな湿り気がある。
しばらく行くと、古い寺が見えた。
境内は周囲を家屋に囲まれており、表通りからは見えない。
山門代わりの石の柱を見上げると、街灯を背にトラ猫が一匹、じっとこちらを見ている。
近づいても逃げようとはしない。
私がそっとさし出した手のひらの匂いを嗅ぐ。
ヒゲが当たってくすぐったい。ここらあたりに飼われているのだろうか。
しばらく歩く。自分の足音しか聞こえない。
さっきのトラ猫に会った時、私は少しほっとしていた。胸のあたりが懐かしい温かさで満たされていた。
夜は昼よりも強く自分を意識する。
世間が寝静まった深夜、
私と世界の間には狭く深い断絶がある。
寂しさを紛らわすためには、
テレビショッピングを眺めるしかなかった。
この世界には私と同じように孤独な誰かが確かにいると、あのトラ猫は知らせてくれたのだろうか。
一人を感じる時、人は自分の事しか見えない。
しんとした空気が少しずつ動き出すのを頬で感じた。見上げると、空はいつしか藍色になっていた。
ふいに、ひらけた場所に出る。
両サイドを古い平家のアパートに挟まれた、幅5m程の道に、7、8匹くらい、猫たちが適度な間隔をあけ、何をするでもなく佇んでいた。脇には古い井戸のポンプがある。猫たちは、向きもまばらで、互いに目が合うでも合わないでもなく、絶妙な距離を保っている。ごろんと寝転ぶ子もいれば、井戸の脇に座り自分の手を舐めている子もいた。
私は少し離れた所にしゃがみ、しばらく猫たちを眺めていた。彼らは他の猫にするのと同様、距離を保ちながら、私を受け入れているように感じた。
もう東の空が明るい。
新聞配達のバイクが走る音がした。
私には、それが現実がゆっくりと動き出す音に聞こえた。