見出し画像

【連載小説】トリプルムーン 9/39

赤い月、青い月、緑の月
それぞれの月が浮かぶ異なる世界を、
真っ直ぐな足取りで彷徨い続けている。

世界の仕組みを何も知らない無垢な俺は、
真実を知る彼女の気持ちに、
少しでも辿り着くことが出来るのだろうか?

青春文学パラレルストーリー「トリプルムーン」全39話
1話~31話・・・無料
32話~39話・・・各話100円
マガジン・・・(32話掲載以降:600円) 

※第1話はこちら※


----------------------------------------------------



***第9話***

 清々しい風が流れる夜の散歩道は、やさしい心持ちで俺たちを出迎えながら、穏やかで飾らない時間をあつらえていた。
 街外れの丘へと続く郊外の道は、車道もない住宅街の奥を抜けた先に続いている。

 お目当ての丘までは階段も手すりもない細い坂道を上っていくが、視界を遮る木々や住宅もないので見晴しはよく、街の明かりがどこまでも広がっている様子がうかがえた。
 この道が舗装されたのはずいぶん前のようなので、砂利や石ころが道のあちこちに散らばっているが、それを踏み鳴らすごとに適度な雑音が広がり、単調な二人の足音に丁度いいパーカッションのようなリズムのアクセントを付けてくれていた。


「食後の運動にしては、ちょっと遠かったかな?大丈夫?疲れてないか?」
「うん、まあこれくらいは、たまには必要だし、大丈夫だよ。ありがとう。」


 俺はそこでいったん歩みを止め、さっきコンビニで買った水を飲もうかと勧めた。彼女は、確かにそうだねと言って、互いにペットボトルの水をひとくち飲んだ。
 飲みながらふと夜空を見上げると、思ったよりも多くの星が輝いているのに気が付いた。


「けっこう星出てるな。」
「うん、街外れだといつもよりもよく見えるね。」


 彼女はまるで想い出のアルバムでもめくるかのように、夜空に瞬く星たちを嬉々として見つめている。
 そんな彼女の横顔を見て、このままじっと見つめていたいという衝動に一瞬駆られたが、不器用な俺には、水を飲むふりをしてちらりと横目で彼女の顔を盗み見るのが精一杯だった。


「はやく丘の上に行って、月を見ようよ。」
「そうだな。」


 星と水で元気を取り戻した彼女は、残りの坂道を一気に駆け上がり、あっという間に丘の上の広場へと走り去っていった。
 本当にマイペースなやつだなと、軽いため息をつきはしたが、俺も早く月が見たかったので、彼女に合わせるように残りの坂道を走って登ることにした。

 砂利道のパーカッションは二人の足音に合わせて素早いリズムで音を鳴らし、音楽的な潮目を高めるようにしながら、俺たちを月の見える丘の上へと導いてくれていった。

 満天の星が広がる夜空のキャンバスは、緑色の満月を中心にしながら世界中の輝きを一堂にかき集めたように、煌びやかに丘の上を照らしていた。
 余計な色合いは何もなく、マスカット色の艶やかな月と星と夜空が、シンプルで美しいひとつの完成された概念のように浮かび上がっている。

 やがては沈み、欠けていく、その儚い予感もどこか退廃的で美しい、ある意味で一つの世界の縮図を描ききった見事な芸術作品のようでさえあった。
 素直に美しい、綺麗な星空だなと思った。毎晩俺の頭上にこんなものが浮かんでいるのかと思うと、この世界もまだまだ捨てたもんじゃないのかもしれない。


「まるで夜空のシャンデリア。」


 大きめの声で呟いた俺の冗談めいた感嘆は、月に夢中な彼女の耳にはまったく届かず、虚しい独り言として空を切った。
 彼女は俺の存在などまったく忘れてしまったかのように、真剣な様子でじっと月を見つめていた。

 よほど月が好きなのだろう。特に今夜のように満月を丘の上で眺めることなどは滅多にないだろうから、文字通り夢中になっているのかもしれない。
 俺も緑の月を拝もうと星空を見やると、穏やかな沈黙がそっと丘の上に流れこんできた。

 そのあいだ俺たちは少しだけ月に近付き、月もまた俺たちに少し歩み寄ってくれたような気がした。
 初雁こそ飛んではいなかったが、コウモリが一羽キイキイと消え入るような声で鳴きながら目の前を通り過ぎて行った。


「寒くないか?」


 少しばかり沈黙が続いたので、俺は何かきっかけを作ろうと彼女に声をかけてみた。
 そう言って彼女の横顔を見ると、彼女の頬には一筋の涙が流れていた。


「どうした?大丈夫か?」


 慌てて彼女の顔を覗き込むと、彼女は瞬きもせずにゆっくりとこっちを向いた。


「ごめん、ありがとう。」


 なかば放心状態の彼女は、呆けた顔で俺の瞳の奥をぼんやり見つめている。彼女の顔は、まるで霞の中で揺らめくろうそくの火のように、虚ろ気で実体のないふわふわとした表情をしていた。

 ふいに思索に耽ることがある彼女だが、それにしてもさすがに大丈夫かなと心配になるほどだった。そう思って俺が彼女の肩に手を伸ばそうとした時、彼女は出し抜けに口を開いた。


「ちょっと美味しそうな色してるよね、緑の月って。」
「えっ?」


 そう言うと、彼女はいつもと同じような無邪気な表情に戻り、瞳の奥にはいたずらな輝きが蘇っていた。


「美味しそう?ああ、まあ、見方によっては美味しそうかもな。グラスとウィスキーがあればロックの替わりに沈めてやってもいいかもしれない。」
「ウィスキー?ハイボールさえ飲めないのに?」


「あれはきっと炭酸が邪道なだけさ。本物のウィスキーと本物のグラスがあれば、俺だってウィスキーのひとつくらい飲み干してやるよ。」
「氷の替わりになる、本物の月もあれば、だよね。」


「ああ、グラスに入るほどの小さくて美味しそうな月があれば、ウィスキーだって美味しく飲んでやるさ。」
「なんだかトンチみたいね。屏風の中の虎、グラスの中の月。」


「たしかに。」


 そうやって二人で笑い合うと、彼女はいつもの調子を取り戻し、俺もずいぶんリラックスした心持ちになっていった。

 柔らかい夜風は、丘に生える草花をそよそよと揺らし、やさしい夜を一段と深めようと、街に向かってささやかな子守唄を歌い始めていた。
 月は夜の主役でありながら、すべての人の人生の脇役にもなれる器用な演技力で、静かな夜にぼんやりと浮かび上がっている。

「私ね、結婚するの。」


<<第8話     |     第10話>>


>>トリプルムーン・マガジン<<

この記事が参加している募集