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クーピーでいえば白(モノトーン1)

【モノトーン】1

 午後2時、都心から郊外へ向かう下り電車は、あいている座席の方が多い。
 空は青く、丸みのある雲がぷかぷかと浮かび、気持ちよく晴れている土曜日の昼。各駅停車の車内の空気も穏やかに感じられる。電車は、ある駅に静かに滑り込んだ。

 イヤホンをつけ、ホームの一番前で並んでいたら、後ろでガヤガヤと話している声がした。音楽が聞こえづらくなって不快だ。何をそんなに大声で話しているのだろう。
 黒河内蓮(くろこうちれん)は、後ろの集団にイライラした。どうやら、年配の女性が5,6人いるようだ…。何気なく首を動かして、後ろの様子を伺った。
 
「ねぇ、今日の練習面白かったわね」
 その中の女性が言う。
「あの人、相変わらず下手!」
 と、手首をくいっと動かして笑って見せる。なんとなく相手を馬鹿にしているように蓮には聞こえた。ほんとに、ねぇ…、言いながら何人かが同じように笑う。

 ふう…。
 蓮は小さくため息をつく。イヤな集団に囲まれた…。この場所を選んだ自分に嫌気がする。移動しようか…。思った時、静かに電車がやってきた。
 ホームからスピードを緩める車内を見て過ごす。今更動くのも面倒だし…。
 すいてる…、思いながら観察する。長い椅子に3人…こちら側は5人…。
 3人掛けの場所に、一人…若い女性が車内から同じようにホームを見つめていて、一瞬、目が合った…。が、蓮はすぐに目を逸らせた。

「ああ、ほらほら、すいてるわ!」
 前に並んでいる自分を通り越して、先ほどの女性たちが、ずんずんと電車へ乗り込んだ。
 …ああ?
 蓮が横目で睨みつける。だが、彼女たちは気にもしていないようだ。ふと見ると、先ほど目が合った若い女性が、一瞬、立ち上がった。
 …席を譲ろうとした…空いているのに?
 蓮は、そっと、イヤホンの片方を外した。
「じゃあ、私たちはこっちに座るわね。」
 年配のグループの二人が長い席へ向かった。隣の入り口からは、ユニフォーム姿の男子グループがガヤガヤと乗ってくる。持っているのは、大きな荷物と、サッカーボールのようだ。何人かは座ったが、何人かは蓮の隣に並んで立った。
「なんでよ、いいじゃない。こっちならみんなで座れるんだからぁ」
 グループの中心にいるのだろう。率先して順番抜かしをした女性が、今度は、電車の中とは思えないほど大きな声で仲間に呼びかけた。
 お前ら、いくつだよ…。
 蓮は心の中で毒づいて、彼女たちを睨みつけた。
 3人は座り、反対側に一人若い女性が座っていた。その前に立って騒いでいるのは、白髪のショートカット、細身で目も細く、鼻がとがっているのが印象的なグループの一人。
 薄手のカラフルな幾何学模様のカーディガンと細身のジーンズ…。
 蓮は何気なく観察する。その女性は、目の前に座る女性の前で、唇の端を上げて、何か言っている。蓮は気になって聞いていた音楽を止めた。
 あれは、何をしているのだろう…?

 岩原マキヨは、座っている若い女を見おろした。
 全く、この子のせいで気分が悪い。白いパーカーなんか着て、20代中ほどか…。ふん、今が楽しくてしょうがない年ごろだろうね。まあ、若いから気づかないわけね…。
 岩原は、目の前の女性を見据えながら、顎を前へ突き出しすと、そのまま、くい、くいっと2回、斜め横に振った。
「…はい?何かありましたか?」
 白いパーカーの女性は、首の向いた方へ目を向けて、きょろきょろと何かを探しているような仕草をした。
 かぁ!わかんないの?人がせっかく周りに気づかれないように、ジェスチャーで訴えてあげているのに。
 岩原は叫びそうになるのを、ぐっと我慢して、もう一度首をくい、くいと動かした。
「…首を、どうかされましたか?」
 と、女性は上目遣いに岩原を心配した。
 なに?その、可愛いでしょアピール!ぶりっこしてんじゃないわよ。ああ、ほんとに気が利かない!
 岩原の顔がどんどん赤くなり、遠目でも、怒っている様子がわかるようだ。

 蓮は驚いている。
 そんなことする?こんなに人がいっぱいいるところで?
 目の前の状況が衝撃で思わず見入ってしまった。
「…席、譲りなさい。」
 まぁ、しょうがない、私は大人の女性だから、上品に教えてあげよう。必死で感情を抑え、声を低くして岩原は言う。
 助けた方が良いかな…。
 蓮は考えている。でも…と少し躊躇した。めんどくさいかも…。
「え、なぜですか?…こちらもあいておりますが?」
 彼女は、困ったように眉毛を下げ、掌で隣の座席を示した。少しだけ、微笑んで…。それは、なんとなく、相手を憐れんでいるように見えた。

 いやいや、それじゃあ…。
 蓮は、静かに慌てている。
 ケンカ売ってるようなもん…。

 その瞬間、岩原が切れた。
「何、笑ってんだ!バカにしやがって。気がきかねぇ女だな!」
 蓮は、心配通りのことが起きて、はぁと、一息吐いた。怒号が響き渡り、驚いた乗客たちが岩原へ集中する。
 やっぱりな…。ああ、だから車輛移動すれば良かった…。
「私たちは何人だ!」
「…7人くらいですか?」
「6人だよ!お前がいる場所は何人掛けだ!」
「ああ…3人ですね」

 マジか…。

 蓮は驚いた。若い女性の様子に驚いたのだ。
 この子…すげぇ。
「お前がどけば、全員一緒に座れるだろうが!馬鹿みたいにへらへらしやがって!」
「でも、他の皆様は、もう、すでにお座りになっていらっしゃいます。わざわざ、ご移動させるのですか?」
 その言葉遣いは、社会のマナーを分かっているように感じさせる。少なくとも、岩原よりは…。周りの乗客たちが、クスクス、こそこそと騒ぎ出した。
「なっ…んて生意気!ああ、こんな女はダメだ。気が利かない!女性として恥ずかしい」
「ちょっと、何?何しているの?」
 離れた場所に座った二人が、状況を見かねて、慌てた様子でその場へ向かった。
「だって、みんな一緒がいいでしょ?この子が居なきゃ、みぃんなで座れるんだよ。私たち6人だけで。仲良しのダンス仲間で。なんで離れなくちゃいけないの?」
「あなたどうしたの?そんなこと、別にどうでもいいじゃない」
 仲間の一人が、周囲の様子を気にしながら、必死で岩原を止めようとする。
「うるさい!あんたが私に指図できるなんて思わないで!金魚のふんのくせに!」
 と、逆に罵られ、仲間たちは目を丸くして固まってしまった。車内の多くがこちらへ注目している。
「わ…私たちはあっちへ座ってたでしょ。それで良いじゃない。ごめんなさいね」
 と、別の女性が、パーカーの彼女へ頭を下げて謝った。
「何言ってんの?こういう世間知らずにはね、ちゃぁんと教えてあげないと駄目でしょ!ああ、あなたみたいな人が、こういうバカ女を育てるんだ。偉そうに子育て語ってたくせに」
 と、岩原は唇の端をあげて、ニヤリ、と笑う。
「ああ、違う、悪いのはこの女なのに…。お前のせいで私たちの友情も壊れるわ。最悪。」
 と、パーカーの女性を睨みつつ、頭をフラフラと揺らして、床へへたり込むように座った。それはまるで、舞台女優か何かのように…。
 
 え~…?

 蓮は驚きを通り越して呆れている。こういう人って、ほんとにいるんだ…と、なんだか絶望的な気分になった。
 誰も何も言えず、もはや、仲間たちでさえ、静かになってしまった。
「…ちょっと、あなたひどすぎる…」
「いえ、すみません、気がきかなくて。私が早く動けば良かったんですよね。申し訳ありません。どうぞ、皆さんでお座りください」
 ようやく、仲間の一人が岩原を叱ろうとした時、パーカーの女性が、きれいな姿勢で頭を下げ、そのまま、静かにドア付近へ移動した。

 …ほぉ…

 車内で少し安堵の様な、感嘆の息づかいが聞こえたようだ。緊張感が少しほぐれて、蓮も、少し息がしやすくなる。
「…そうだよ、最初からそうすれば良かったんだよ、ねぇ?」
 へたり込んでいた岩原が、何事もなかったかのように立ち上がり、満面の笑みで仲間たちに微笑んだ。
「良かった~。やっとわかってくれた。みんなで勝ち取ったの、私たち仲間でね。やったぁ。ほら、座って。あんたも!」
 半ば強制的に、その場に座らされた女性たちは、苦虫をつぶしたような顔で下を向いた。
 あのババア…。
 蓮は腹の底がむずむずして不快だ。少しほっとしたこともあり、状況が見えてきたのか、岩原の態度に違和感と怒りが湧いてきたからだ。
 なんだそれ、どういうこと?あの子なんで何も言わないの?
 チラッと見ると、女性はバッグの中からイヤホンを取り出し、スマホを操作すると、そのまま静かに窓の外を眺めている…。
「おい!座れよ!」
 岩原が、また叫んだ。だが、仲間たちも、周りの人間も目を丸くした。それは、ドアに立つ女性に向けられていたからだ。
「お前が座らないと私たちが悪者になるだろ?あいてんだから座れ!ほら、座れ」
 女性は、イヤホンをしているが聞こえているようだ。岩原たちから見えない様に、顔を歪め耐えている。
「いやな女…ああやって私たちをいじめてるんだよ、見せしめみたいに。座れるのに座らないで…ひどい。ああ、怖い。ああいうのが一番怖いよ。いやだよねぇ」
  岩原の嫌味が車輌内に響いた。

 これって…公開処刑じゃねぇ?っていうか、なんで言い返さないの?言い返したくないの?だったら早く動けば良いし、座れば良いじゃん、意地張ってもしょうがないだろ…。
 次第にイライラが増してきて、蓮はパーカーの女性を睨むように見てしまった。
 大体、すぐ動けばこんな大騒ぎにならなかったし、みんなも嫌な気分にならなくて済んだし。あの言い方じゃ、そりゃババアも怒るしさ…。
 思いながら、彼女をなんとなく観察する。着ている物、持っている物、仕草や顔の表情…。別に、値踏みをしているとか変な感情は無く、子供のころからの、くせ、だ。
 というよりも、生きていくための手段だったから、蓮には当たり前のことなのだが、母には気を付けて、と時々指摘されていた。
 白いパーカーに緑のチェック柄のパンツを履き、身体は大きくもなく、小さくもなく。ボブの髪にシンプルなトートバッグを下げている、いわゆる、普通の…。女性は、下を向き顔を歪めると、ギュッと、小さな手で握りこぶしを握った…。
 
 その様子に、蓮は少し冷静さを取り戻す。
 …いや、違うか。今、俺この人のこと…。何が原因?アブね。違う方向に行くとこだった。どうしてこうなったんだっけ?まんまと惑わされてんじゃん…。

 しかし、これだけ人がいるのに、なんでみんな何も言わないんだろ?いや、それは俺も同じか…。じゃあ、言ってやろうかな…。でも…いや…めんどくせ…
う~ん…。
 蓮は、窓際の女性と同じように、目をつむり頭を下げる。ぐ~っと、こぶしを下腹のあたりで握って考えた…。
 よし!ちょっと、やっちゃうか…。
 ばっ、っと顔を上げ、蓮が動いた。隣で同じように目を丸くして見ていたサッカー少年たちに声をかける。
「な、ちょっと…協力してくれる?」

 岩原は、まだ女性にぐちぐちと文句を言っている。もういいじゃない。そういう仲間の声も耳に入らないほど、女性を罵ることに忙しいようだ。勝ち誇った顔で、ダサい服だの、地味だのと女性の見た目を罵っている。
 その時誰かが、座っている岩原の前に立ったせいで、影になった。
 こんなに広いのに、なんでそこに立つのよ、邪魔くさいわね。他にいっぱいあいてるじゃないの!
 きっ、と顔を上げると、高身長の男性が自分を見下ろし、つり革を掴んでぶらぶらと身体を揺らしている。若い男だ…。
「なによ…」
 言いながらも、岩原は自分の心臓が、思いのほか早く動いた。
 やばいかな?いや、いくらなんでも、何かされれば助けてくれるだろう。これだけ人がいるんだし。
 その男は、自分の顔を見ながら、顎を斜め上に、2回、くい、くいっと、動かして見せた…。
 はあ…?
 殴られたりするのかと、多少怯えた岩原だったが、男の様子に少し安堵した。すると、今度は、腹の底から沸々と何かがこみ上げてくる。
「…なんなのよ」
「え?わかんないの?女のくせに気が利かねぇな。どいてよ。俺たち座りたいから~」
 と、後ろの何人かを親指で指しながら言ったのは、蓮。
「す…座れば良いじゃない!あっちあいてるわよ。ほらほら、向こういって」
 脚を組み、手でしっしっ、と払うような仕草をする岩原を見て、同じ空間にいる女性たちは、小さくなって下を向いた。
「違う違う、俺たち全員で座りたいのよ。」
 と、連は、顔の前で手を左右にヒラヒラと動かして、少し笑った。
「ほら、俺たちは何人ですかぁ?」
 そういうと、サッカー少年たちが、ずらり、と姿を現した。その数5人…。
「あらやだ!嫌な言い方するわねぇ、いやらしい~」
 岩原の一番近くにいた女性が、手首をくいっと動かして、笑いながらフォローに入る。
 いや…、入ったつもりだろう。
「さっき、このおばちゃん、同じこと言ったじゃん!ほんと、いやらしいよねぇ。あんたも、そう思ってたんだぁ」
 ハハハ…蓮が高笑いすると、仲間はバツが悪そうに首を縮こませ、俯きながら舌を出した。
 この女、余計なこと言いやがって…岩原は仲間の女性を睨みつけた。
「だから、私たちは一緒にいたいからぁ…」
「同じことしてんだよ、あんたと!さっき、あの人にやっただろ!全部見てたぞ」
「だって…どかないから」
「なんで、あの人がどかなきゃいけないの?他に席あっただろ。」
「え?あは、だって私たちの方が上だから」
 と、岩原は両手を広げて、当然でしょ?というような仕草をして笑った。
「年が上だから?おばあちゃんだから、譲れよってこと?」
 と、言ったのはサッカー少年の一人。眼鏡をかけた小柄な子だ。その言い方は子供のように素直で、嫌味がない。クスクスと、乗客の何人かが小さく笑った。
「おばあっ…」
 岩原の目が強張った。…彼らは中高校生のようだ、自分の近くにいる同じ年代の人間を想像し、祖母と同じくらいと思うのは致し方ない。
「まあ、お年寄りは体力がないからねぇ」
 と、違う一人が言う。細身で高身長の男の子だ。切れ長の目でチラッと岩原を睨みつける。
「そうか?ダンスやってんだろ、元気じゃん。そういう時だけ年寄りぶるのは卑怯だよな」
 腕を組み、仁王立ちで岩原を見据えて言ったのは、スポーツブランドのヘアバンドをつけた男の子。髪の毛は黒く、強いくせ毛のようだ。
 さて、どうするかな…?
 蓮は座っている岩原をじっと見下ろした。彼女は明らかに狼狽した顔をしながら、目をキョロキョロと動かした後、手で顔を覆った。
「ああ、ひどい!」
 肩をすくめ小さくなり、泣いているような仕草をする。
 ああ、少しは気づいてくれたのか、誰もがそう思って、ほっとした次の瞬間
「席も譲れない気の利かない女のくせに、今度は、若い男を使って私たちをいじめるんだ。え~、信じられない…おそろしい…」
 と、指の間から彼女をのぞき込み、いかにもおぞましいものを見るような目で彼女を睨んだ。

 …ええ~?

 乗客の多くが、岩原の様子に目を丸くした。あからさまにのけぞって驚いている人もいるほどだ。車輛全体の空気が止まったかのように、変な緊張感が走る。
 きっと、彼女が今できる最善の仕返しとして、思いついたのだろう…。
「怖い…関係ないのに、私たち悪くないのに。ああ、怖い。ほんとに、いやらしい女…」
 と、両手で自身を抱くようにしながら続けた。もはや周りの仲間も、乗客も何も言えず、動けなくなった。
「ああ、気持ち悪い~」

 こいつ、マジでやべぇ…。
 蓮は目の前の物が何かわからなくなりそうだ。
 人間か?いや、魔女か?いや…漫画の敵キャラ、しかもボス…。

「ほら、みぃんなびっくりしてる。あんたが気持ち悪いからって!ああ、早く降りろよ!お前のせいで、電車の中、空気悪っ」
 どうして、こうなってしまったのだろう?誰に育ててもらったのだろう。何を食べたらこういう考え方になるんだろう、結婚してるのかな?息子とかいるのかな?今、ここでその子が、もしくは近所の人とか見てたらどうするのかな?
 と、蓮はいろんな方向へ考えを飛ばした。そうでもしないと…腹の中の感情が拳となって、岩原に向かってしまうからだ。
 冷静でいろ…。
 なんとか自分を落ち着かせる…。
「お前、いい加減にしろよ!」
 誰かが叫んだ。一緒にいる子でも、彼女本人でもなかった。近くにいたスーツ姿の、サラリーマン風の中年男性だ。別の緊張感が車内に広がる。
「何のつもりだ!偉そうにしやがって。お前みたいな奴が、日本の未来をダメにするんだよ」

 おお…

 一瞬で車内の空気が浄化されたように、サァっと明るくなった。
 正義の味方現る…。
 これなら、あの人だって…。
 高校生たちは目を輝やかせ、期待と歓喜の表情で岩原を見た。
「…はあ?なんでみんなあの子の味方なの?男ってバカみたい。若い女だからでしょ?あんな変な女なのに。ばぁか」
 と、彼女はひるむでもショックを受けるでもなく、サラリーマンにまでかみついた。
 ああ、こりゃダメだ…。
 しゅん、と音が聞こえるほど、何人かが肩を落とした。
「それにね、未来を作るのは政治家。わかる?そう、私たちは偉いのよ。」
 え…?
 岩原が性懲りもなく続けて、周りはまた目を丸めて固まった。何人かは、寒気を感じたのか、自分の身体を抱きしめるような仕草をする。サラリーマンも目の周りを強張らせて、ようやく、はっ、と、息を吐き捨てた。
「聞いて驚くなよ、お前ら何も言えなくなるからな。だって、ここに座ってるのはね、共和新党の俵(たわら)議員の奥さんだぞ」
 と、意気揚々と仲間の一人を指した。何も言わず静かにしていた友人の一人だ。岩原のまさかの紹介に、顔を明らかに強張らせた。
 有名な政党の、一度は名前を聞いたことがあるような政治家だ。その、妻…。
「すごいでしょう?私はそのお友達、親友なの。サークルも一緒、みんなは学校で役員も一緒にやったの。だから、ね、偉いのよ。」
 本気で言っているのだろうか…。これは、とんでもないヤツを相手にしちゃったかも…。
 蓮は、もはや恐怖だ。
「だから…なんだよ」
 言い出した手前、サラリーマンがなんとか声を絞り出した。
「はっ、お前、怖いだろう?ざまーみろ。だから私たちが優先、俵さんの知り合い、ね?偉いんだから。お前ら全員降りろ!みなさんに迷惑かけるな。そういうのをね、社会のゴミって言うんだよ。俵さんに言いつけてやる。」
 と、岩原は高校生たちを順番に指差すと、魔女のような顔で微笑んだ。誰も何も言わず、車内は、妙な空気で包まれた…。

「い…いい加減にしなさい!」
 岩原に向かって言ったのは俵議員の奥様…その人だ。あまりの重圧に耐えられなくなったのだろう。乗客の視線が全部、自分に集まってしまったからだ。
「なんで?」
 岩原が、きょとんと目を丸くした。
「あなた本気で言っているの?何をしているのかわかってるの?みっともない!」
「だって…私たちは偉いんだって…今の日本を作り上げた人たちだって俵さんが…」
「どうして彼の…夫の名前を出すのよ!」
「だって…仲良し…親友って…」
「仲良し!くだらないわね。あの子がどれだけ嫌な思いをしたと思うの?みなさんにどれだけ迷惑かけるの!本当にごめんなさい。」
 俵議員の奥様は、窓際に立つ女性と蓮たちに向けて頭を下げる。
「この人は問題児なの。何を言っても聞かない。聞こうとしない、一緒にいたくないのに、空気が読めずについてくるのよ。あなたこそ金魚の糞でしょ!今まで、我慢していたけど…私たちを巻き込まないで!」
 議員の妻は、もはや半狂乱だ。そりゃそうだよな…。全員が何も言えず、不穏な空気の中で、次の停車駅のアナウンスが鳴る。
「本当にすみません。皆さんすみません。」
 俵は車内にひたすら頭を下げ、岩原は呆然としている。
「もう、降りましょ…準備しないと、ね」
 ようやく仲間の一人が声をかけ、仲良し6人グループは動き始めた。
「やだ!なんでよ。私がどうして降りなきゃいけないの?」
 だが、岩原は子供のように泣き叫んでいる…。

 嘘だろ?

 高校生たちは固まってしまった。大人だろ?ちゃんとした政治家の奥さんと、その友達。自分の祖父や祖母と比べても、近所のおばちゃんや先生でも、こんな人にはあったことがない。年寄りだからか?年取るとそうなっていくのか…。
 あ、これってもしかして…。
「あなた、本当にどうしたの?もう、ボケちゃったの?」  
 仲間の一人が、岩原に神妙な面持ちで言った。
 まさに、それな…。
 高校生は自然とうんうん、と頷いた。
「はぁ?お前にそんなこと言われる筋合いねえよ。この馬鹿女」
 岩原が、唇の片方を上げ、にやついた顔で返した。その瞬間、全員の背筋が凍った。
 ああ、もしかして、この人は本当に…。
「いい加減にしてください!」
 声がして振り向くと、その声の主が白いパーカーの彼女だったので、車内の人間は全員驚いた。もちろん、蓮や高校生も…。
「ここは電車の中ですよ?恥ずかしくないのですか?あなた、先日も同じことをしましたよね?」
 彼女は言った。
 が、見ているその相手は、黒い巻き髪を垂らして、少しふくよかな身体に、生地の良さそうな薄い緑のワンピースを着た、俵議員の妻だ。
「…は?何言って…」
 ふっくらとした顔は、肌の色つやも良く、目鼻立ちもはっきりしていて華やかだが、小さく震え、徐々に青ざめていく。
 頬をひきつらせながら、ボリュームのある巻き髪を、大きな宝石が光る手で掻き上げた。高級な物を身に着け、見た目の華やかさもある…政治家の妻…。
 あ、わかりやすいキャラクター…。
 蓮は、変な感想を持った。なんだか、現実なのか、妄想の中にいるのか、良くわからなくなってきたのだ。
「先々週の同じ時間、同じ電車、同じ場所で!あなたは学生に言いました。私たち6人なの、あなたが移動してくれると皆で座れるのよ。って、男性をどかした」
 全員が一斉に、議員の妻に注目する。彼女はわかりやすく動揺し、荷物をまとめるふりをし始めた。
「その男性が同じように、あっちに行けば良いと言ったら、優先して、だって私たちは偉いんだもの、と、彼にだけ聞こえるように、いえ、そのつもりだったのでしょうけど、私は聞いてました。言い方が丁寧なだけで、彼女と、全く同じことしてましたよ」
「い、いい加減なこといわないで。私じゃないわよ、ねぇ」
 議員の妻は、友人たちに同意を求めるが、全員が一斉に目を逸らした。岩原だけは、涙目を丸くして、すがるような顔で見つめ、ひどいよ…と小さく言った。
「うっ!…この恩知らずどもが!」
 と、議員の妻は思わず叫んでしまった。
「この人は、その時座るのをためらった。」
 パーカーの女性は尚も続ける。この人は、と指した手は、岩原を示していて…。

  え…?

「なのに、あなたは言ったんですよ。いいのよ、座りなさい。私たちが悪者に見えちゃうでしょ!早く座れ!って」
 マジか…。
 蓮は、理解しようと頭が働き、身体が動けなくなっていた。
「この人が座ったら言いました。さっき怒ったのに急に優しい声を出して、だって、私たち親友じゃなぁい、って」
 モノマネ…なんだろうな。
 すごく嫌な印象を受ける言い方をする。でもたぶん、あの議員の妻は本当にそうやって言ったのだろうと思う。俵の周囲が誰も助け船を出さないからだ。
 何人かは、俵をじっと睨みつけている。きっと…良くない感情が、ある。
 もしかして、彼女…。
 蓮は、パーカーの女性を思わず見つめていた。
「やば…」
 高校生の一人が言った。なんだか寒くないのに体中に鳥肌が立っている。車内の視線は、彼女に集中していた。
「この人は、あなたの真似をして、あなたが言ったように偉いと勘違いして、あなたが言った親友という言葉を、素直に受けとめただけだよ。なのに、今、この人だけを悪者にして逃げようとしてる!」
 岩原は、床に正座して座り込み、涙目のままパーカーの女性を見つめている。議員の妻は、苦虫をつぶしたような顔で唇をかんだ。
 わあ…すごい…、かっこいい…。どういうこと?すごいね…。徐々に小さく彼女を賞賛する声が聞こえ始めた。
「この人は何も悪くない!ほんとに悪いのは、あなたです」
 彼女は、議員の妻を睨みつけて叫んだその目を見て、蓮は、全身に汗が噴き出した。
 なん…だ?
 あんなに大人しい感じだったのに、何だよ、ちゃんと怒れるじゃん。しかも、あんなに、悪口や嫌な思いをさせた人間を、何も悪くないって。
 なんだそれ…。
「あなたは前回言った。文句言う奴がいたら夫にやっつけてもらいましょ、って、共和新党はやりますって大声で。こんな公共の場で、大勢の前で笑いながら!」
 尚も睨みつけて彼女は続ける。背も体格も大きくないが、そこから出ている空気感に圧倒され、誰も何も言えなくなった。
「良いですよ。この時間この車両に、私必ず乗りますので、いつでもやっつけにきてください、どうぞ、議員の旦那様とご一緒に。」
 と、睨みながら、口角をあげた。
「あなたもいい加減にこの人から離れなさい!親友ってなんですか?」
 髪を振り乱し、メイクも落ちてしまった岩原は、先ほどよりも小さくなったように、蓮には見えた。
 うん、うん…。
 仲間の女性たちも、何か思うところがあるのだろう。泣きながら静かに、岩原の背中をさすっている。
「こんな風に、誰かを悪者にして、自分の身だけを守るような人間なんか、ほっとけ!」
 議員の妻は、もはや言い返すこともできないようだ。しれっとして見当違いの方を向いてやり過ごそうとしている。
「こんな人、友達になってあげなくて良い」
 と、最後に切り捨てた。

 なんだ…これ…。

 全員が立ち尽くしていると、駅に着いた車両のドアが勢いよく開いた。
「…ほら、降りましょ」
「俵さんも…」と、女性たちは議員の妻も気遣い、岩原の荷物を持ち、背中を支えて降りて行った。
「ごめんね、ありがとう…」
 降り際に、誰かのお礼が聞こえた気がしたのと同時に、どん!という音を立てて、ドアが勢いよく閉まった。そして、電車は静かに動き出す…。
 ふうぅ…。
 誰かの長いため息が聞こえるほど、車内は静まり返った。
「もう、どうするのよぉ!」
 ホームで泣き叫ぶ政治家の妻の声が、駅から離れて行く車内に、薄く届いた。
 しばらく、誰も何も言えなかった…。なんだったんだ、今の時間…。電車内の全員の思考が追い付かない。
 ああ、腹立つ…。
 蓮は何故かイライラする。が、何に対して腹が立っているのかわからなかった。あの、おばちゃんか、議員の妻か…。もしくは…。
と、パーカーの彼女をチラッと見た。
「あんな風に言えるなら、最初から言い返せばいいだろ。こんな…」
 口から思わず出てしまっていて、蓮は後悔する。
 ああ、やった…。言わなくても良いのに…。
「はい。すみません、ありがとうございました。」
 落ち着いた空気を纏って、静かな声でパーカーの彼女は頭を下げた。
「皆さんを巻き込んでしまって、すみませんでした。」
「そういう感じだと…俺たちカッコ悪いじゃんか!」
 と、助けに入った高校生が参戦した。
 ああ、だから、やっぱり言わなければ良かった…。
 自分の不甲斐なさに、蓮は、自分にイライラした。
「違います。皆さんがいたから、言えたんです」
 と、彼女は顔を上げた。
「誰も味方が居なかったら、あんな風に言えませんでした。皆さんのおかげです」
 と、車内全体を見渡しながら、チョコ、チョコ、と頭を下げる。
「ほんとに、ありがとうございました」
 そして、蓮をまっすぐに見てそう言った。

  ドキン。

 …いや、待て待て。なんだ、今の音。
 と、密かに慌てて、蓮は彼女から目を逸らせてしまった。
 俺、ヤな感じじゃん。ただ怒ってるカッコ悪い男みたいじゃん。
 蓮は思いながら、でも、彼女をまともに見ることはできなかった。心臓の音が耳に伝わり、顔全体が熱くなった。
「そうだぞ、偉そうにするな!」
 突然、そう言ったのは、男性だ。二人の目の前に座る年配の、どうやら夫婦のようだ。
「共和新党の俵ってのは有名だよ?お前、ほんとにやられるぞ。めちゃくちゃにされる。そんな若い小娘が偉そうに楯突くんじゃない」
 ええ?もう、良いんじゃねぇ?やっと落ち着いたのに…。なんでこんな大人ばっかりなんだろう。
 蓮は、自分の親の醜態を見た時のように、今度は恥ずかしさで顔が増々熱くなってくる。
「あんな風に、奥さんに恥かかせて。生意気に意見なんかしちゃダメだろ。バカ娘が」
 彼女は何も言わず立ち尽くしている。それに気を良くした男性は、身を乗り出し顔をゆがめた。
「大体ね、お前がすぐ動けば何も起こらなかったんだよ、こんな皆さんに迷惑かけてどういうつもりだ。全く…」
 尚も続けようとする男性の腕を、隣の女性が強くつかんで座らせた。妻だろう…。
「ごめんなさいね。何もわかってないのよ。あなたこそ本当に馬鹿ね…」
「え、な、何でお前が…なんでこんなのに謝ってんだ」
「彼女がカッコいいから、あなたは悔しいんでしょう?そんなに目立ちたいの?何がしたいの?」
「お、俺は共和新党をね、ずっと支持してるんだよ。議員ってのはすごいだろ?偉いだろうよ。その関係者にあんなことをしちゃダメだって、教えてあげてる…」
「教えてあげてる?随分上からね。じゃあ、あの人に教えてあげれば良かったじゃない。議員の奥様のくせに、お友達をいじめちゃダメだろって。」
「…だって、そんなことしたら、俺がやられるだろうよ」
「誰に?」
「…共和新党に」

 だっせぇ…。

 蓮は思っている。議員に言えないけど、若い女には強気のヤツとか…。
 ダサくね?
 それは、周りの高校生も思っている。こういう大人には、ならないようにしよう、と…。
「彼女が男だったら言わなかったでしょう?若い女性だから勝てると思ったの?みっともない」
「そんな偉い人にね、口聞けるだけですごいことだよ?政治家の妻なんて神様だろうよ。」
「神様!?まあ、あきれちゃう。」
「…何なんだよ、議員先生だぞ」
「まぁ、ほんとにあなたは情けない男ね」
「なんだと!お前、誰に向かって口聞いてんだ!」
 おいおい…。どうなってんだ。
 今度は夫婦げんかが始まりそうだ…。

「議員って偉いんですか?」
 突然、パーカーの彼女が、しれっと年配の男性へ聞いた。
「…は?偉いだろうよ。国民の代表、国を動かしてるんだよ。わかってる?」
「でも、それはその人の仕事ですよ」
「…そうだよ。でも、あんたよりは偉いだろうが」
「ここは電車の中で、公共の場で、社会です。」
「あ?何言ってんだよ、知ってるよ、馬鹿にしやがって、なめてんのか!」
「議員だからなんです?しかも、その奥さんですよ?」
「だからぁ…」
「私の叔父、民進党のコヤナギなんですよ。」
 え?
 男性はきょとんとした顔をして固まり、周囲の人々の動きも止まった…。
「席、譲っていただけますか?」
「な、なんでだよ、俺、関係ないだろ」
「だって、私も、偉いでしょ?議員の関係者だし」
「う、嘘だろうよ」
「え?叔父に電話しましょうか。共和新党の方が私を馬鹿にしたよ、民進党で、やっつけてよってね。」
 と、バッグの中を探り始めた。
「この、アマ…!」
 男性は、慌てて立ち上がり、女性へ向かう、が、隣の妻が手で制した。
「いい加減にしなさい、あなたの負けですよ。ああ、恥ずかしい、周りを見なさい」
「…ぐっ」
 車内の目が、自分に向いていて男性は驚いた。しかも、その目は一様に、軽蔑の眼差しだ。
「なんで?」
 鳩が豆鉄砲を打たれたような…。そんな顔で男性は目を丸くした。
「議員だろうが、その妻だろうが、親父だろうが、小娘だろうが、社会に出れば、ただの人だ!」
 パーカーの女性が言う。
「権力とか、ブランドとか、男とか女とか!そんなものに屈する価値観を、若い人に植え付けるのはやめていただけますか?」
 と、高校生たちを手で示した。睨みつける彼らの目は、男性の顔を、少し引きつらせた。
「…な、なんだ…よ」
 小さく、聞こえないように男性は毒づく。
「これ以上、恥ずかしい大人、を見せないでいただきたい!」
 おお…。賞賛の声が上がり、拍手が起こる。ククク…という嘲笑が年配の男性に向けられた。
「この…」
 尚も殴り掛かろうとする男性を、その妻と隣に座るサラリーマンに抑えた。かくん、と男性が力なく項垂れると、電車は次の停車駅に止まった。

「みなさん、ご迷惑をお掛けしました。」
 パーカーの女性は、開いた入口の前で振り返り、車内に向けて、また頭を下げた。
「ありがとうございました。あ、あと、先ほどの議員の方とはなんの関係もございません。嘘をついて申し訳ありません」
 と、にこやかに微笑んだ。
「なっ…んだ、やっぱり嘘じゃないか!」
 年配の男性が叫ぶと、周囲から、ええ?という、驚きの声と苦笑が起こる。
「て、いうか、民進党のコヤナギって誰?もっと社会勉強した方がいいよ、おじさん。だっせぇな!そんな人いないよぉだ」
 と、言うと、彼女はべぇっ、と舌を出した…。
「んなっ…」
 真っ赤な顔をして怒ろうとした男性の口を、その妻が手で抑える。
 ふがぁ、という変な叫び声になり車内に響いた。扉が閉まり、ホームで出発の音楽が鳴る…。
 蓮を含む車内の乗客は、呆然として、その様子を眺めていた…。
「お姉さんカッコいい!」
 と、少し離れた場所の3人の女子高生が、キャッキャ、と言いながら車内の窓越しからホームへ向けて手を振る。彼女は、一瞬不思議そうな顔をしたが、意味が通じると、全力で車内に向けて手を振り返した…。

 それは、とてもさわやかな顔で…。

 何、コレ…。

 ぷっ…。
 んふ、ふふ…
 あっはっは…。
 誰かが思わず噴き出したその声で、車内の大勢が笑いだした。多くは、高校生たちだ。

 空気が、変わった…。

 ふう…
 と、蓮は大きく息を吐いた。ようやく、普通に息が出来た気がしたのだ。
 なんだ、こりゃ…。
 何これ、どうなってんの、ドッキリなんじゃねぇ…口々に言いながら、隣にいる人、前に立つ人と乗客たちは笑いあっている…。
 高校生、買い物帰りの女性たち、サラリーマン…

 …笑いあった?

 ふと見ると、先ほどの年配の夫婦だけは、奥さんが怒り、男性は項垂れていて気の毒だ。
 そんな二人に、隣のサラリーマンが話しかけた。
「思いがけない展開でしたね」
 その顔も笑顔で…。
「ああ、いやはや…」
「あなたが飛び掛かったら、僕があなたを殴るところでした」
 ほんとにすみません、まったくもう…そう、言いながらも、周囲の反応に安堵の顔を見せると、近くの乗客たちもびっくりしたよね、良かったね、面白いねと続く。
 そして、そのまま車内全体で…。
 笑いあった…。

 なんて…

 平和な…。

 蓮は意図せず、全身に鳥肌が立っている…。
「…ああ、緊張した。」
 高校生の一人、くせ毛の高校生、坂本敬之助が言った。
「あ、ごめん、ありがとう。こんなことになるとは思ってなかった」
 蓮は慌てて手刀を切る。「助かったよ…」
「いえ、でもすごかったねぇ…」
 と、サッカー少年たちは、いたずらな笑顔を見せた。
「なぁ、あんな人っているんだな…。」
「もう、俺、びっくりした。あんな、おばあちゃんたちいるんだ」
 と言ったのは眼鏡の小柄な子、桃山飛翔(つばさ)
「おばあちゃんね、ふふ。…びっくりだよな。年取ると、ああなるものなのかな?」
 蓮は飛翔の無垢な言葉に、思わずクスクス笑ってしまう。
「人によりますよ。あれは、生きてる世界が狭い」
 と、背筋を伸ばして言うのは我妻佑真。長身の高校生。
「君…クールだな」
 面白い子たちと出会ったな…。
 なんとなく、兄貴たちと一緒にいる時の空気感にダブる…。
「ああ、もっと言ってやれば良かった!」
「な、大人だろってねぇ」
「政治家の奥さんと友達は偉いんだってぇ」
「いや、友達じゃなかったけどね。」
 口々に文句やギャグを言いながら、高校生たちは車内を移動し始めた。途中、何人かが「良くやった!」とか「かっこいいね」などど、声をかける。
 まさかの反応に、サッカー少年たちは顔を赤くした。そんな彼らを、蓮は可愛いと思う。
 …弟、みたいだな。

「あなたたちがいなかったらどうなってたことか…。ありがとう。すみません、私たちみたいな年寄りが迷惑かけちゃったわね。でも、みんながそうだと思わないでね」
 と、白髪の女性が、彼らに眉尻を下げて謝った。いやいや、そんな、何もしてないっす…。
 そうだ…。俺たちがどうとかいうよりも…。
 蓮は少し冷静さを取り戻し、先ほどの状況を思い返してみる。
「席はあいておりますが……ご移動させるのですか…どうぞお座りください」
 彼女の様子を思い出した。とてもきれいで、丁寧な言葉遣い、そして冷静で大人の対応だったのに、イメージが違った…。
 見た目は大人しそうで、言い返さないと思っていたから、ちょっと手助けをするつもりだったけど。
「議員だろうが、社会に出ればただの人だ!」
 なんか、俺たち完璧に霞んじゃうよね、サラリーマンもさ…。あんな感じで強くて、格好良かったら。で、しかも最後は子供みたいに。べぇって…。
 あれ?どっかで…
「なんか…似てんな」
 思わず、ふっ、と笑ってしまった。

「ボコボコに殴ってたら、どうなってたかなぁ」
 周囲に聞こえるくらいの声で、誰かが言った。
「お前にやられたら、あんなババアめちゃくちゃになってるよ。顔面骨折くらいしてるんじゃねぇ?いや、死ぬかも」
 と、もう一人が笑う。
 さっき一緒にいた子とは違うグループの、座席にいる二人が大声で話し出したのだ。敬之助たちは、少し顔をひきつらせる。きっと、この子たちとは違うタイプ…。
 知り合いが英雄扱いをされていることに、嫉妬したのだろうか。自分たちはもっと、と、アピールしたいのだろう。
 いわゆる…粋がりたい年齢の子供だ。
「あんなのさ、ボコボコにして動画とって拡散でしょ?」
「そうだよ、政治家の嫁と、その友達…で、あの地味な女!あいつもやべぇヤツだし。結構バスるんじゃね?あ~あ、俺たちが行けば良かった。」
「だよな、あんなもんじゃ済まねぇよ。ニュースとか出てたかも~」
 蓮は反省した。そうだった、そういう危険もあることだったのに…、と。
 迂闊に高校生を巻き込む形になってしまった。横にいる弟のような子たちを見ると、彼らは、微妙な顔で二人を見ていた。
 せっかく、良いことをして、周りにも褒めてもらったのに、こんな奴らと同類だと思われるのだろうか…。
「ほんとだね、良かったよ。彼らが冷静で、大人で助かった」
 と、蓮は座っている二人の前に立ち、真顔で見下ろした。
「殴って喧嘩とかになったらさ、逆に、彼らが捕まっちゃうもんね。危なかったよ~。簡単にお願いしてごめんね。ありがとう、君たちは考えて行動してくれて」
 と、一転して、敬之助たちには笑顔で手刀を切った。
「でも、正当防衛ってのがある。未成年だしね〜」
「相手が悪いことをするから、やられるんだ。死んでもしょうがねぇよ」
 高校生たちは蓮を見上げて睨みつける。ガキだと思って馬鹿にすんなよ、そう言いたげだ。
「法的にはそうなるけど、君らが、人を殴った、それは事実として残る」
「でも、悪い奴はやっつけられるじゃん。ヒーローものってそうだろ?悪者は死ぬ。ばぁんって爆発してよ」
 へっへ、と、身体の大きな一人が、馬鹿にしたように近くにいる仲間たちと笑った。
「どんな理由があっても、人を傷つけたら悪く言われるよ。しかも相手が政治がらみ。マスコミにめちゃくちゃにされて、何も知らない関係ない奴らが騒ぎ立てる。金使って簡単にもみ消されて、家族まで晒されて、あいつらの良いように、君が悪者にされるだけだ。」
 高校生は、ぐっと静かになった。蓮の声が低く、良く響いたからだ。
「本当に良かったこの人たちで。君たちに頼んでたら、今頃、警察沙汰になってたな。」
 ふうっ、と蓮は、胸をなでおろす仕草をした。
「しかもさ、動画撮った?そんなに言うなら、やってやれば良いよ、今すぐにでも。でも、ほんとは写真も撮ってないでしょ?うん…ま、しょうがないよ。そんなもんだよ君たちは。でも…なんか、ちょっとカッコ悪い、けど、ね」
 と、蓮は眉尻を下げ、憐れむように笑って見せる。高校生二人は、苦虫をつぶしたような顔で下を向いた。
「彼らは、ずっと先のことを考えて行動したんだ。冷静に慎重にね。」
「だって、悪いのはあのババアだろ!情けねぇ、男があんだけ行ったのになめられてんじゃねぇよ。あんなもん、殺してやれば良いんだよ。」
「君たちは高校生だよ」
「だから何だよ。ばーか」
「軽はずみな言動は気を付けた方が良いよ。この先自分のやったことで、君自身が悩む時がくるかもしれないからね」
「…あ?」
「危うく、君たちの人生に傷をつけるところだった。」
 蓮は、睨みつける高校生をチラッと見て、優しく敬之助たちに向けて微笑んだ。
「君たちは大丈夫だ。未来の自分に誇れる、宝物ができたね」
 その笑顔を見て、敬之助たち高校生の胸が、ズキュウンと、鳴った…。

【モノトーン】2へつづく…。

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