わたしという概念が生まれたときの記憶。
人間としての最初の記憶
まだ目が見えない、光しかかんじないときの記憶
いま思い出すとそれは、
分離/二元性の概念が吸収された瞬間。
わたしという概念が生まれたときの記憶。
その瞬間は、概念と呼べるほどカッチリしたものではなくニュアンス。
「そういうもんなんだよ、ここは」っていう具合に
“ここのルール“が伝播された瞬間の記憶。
わたしは自宅の玄関すぐ横の部屋で寝かされていた。そこに隣のおばさんがやってきて「赤ちゃん見てもいい?」と声をかけて、母が「いいよ」と返事をした。おばさんは、可愛いいなあというような感じで近づいてきた。
「わたしとあなた」という認識で。
「わたしとあなた」という概念を、わたしたちは口頭で教わったのではなくて、この世界で認識しあっている空気感として、触れた。
わたしにとってのそれは、おばさんの言葉を超えたところのコンタクトだった。
“あなた”はなんて可愛いんだろう という気持ち。
“あなた=自分とは別のもの”として認識されている感覚。
空気で十分に伝わる、伝播する。原初のやりとり。
純粋な記憶としては、その声や気配が誰なのかというラベルもない映像。わたしがその記憶を想起して「あの場所は自宅の一室で、まっしろい光に包まれて、あの声の主は、隣のおばさんで、それに返事したのはお母さんだな」と今となってはそうおもう、と解釈しているもの。
以前、呼吸法でやるヒプノセラピーみたいなもので体験した感覚とこのときの感覚は似ている。意識が、ただまっさらに、世界をみている。そのとき、世界は分離していない。いわゆる非二元でいわれている、単にあるこれ。
最初に肉体に入ったとき、まだわたしたちの認識は分離していない。
よく映画で出てくる時空をワープするような映像
次元のトンネルを通って肉体にはいってくるビジョン。
肉体にはいって、純粋な意識として、
“わたし”という概念・イメージなしに、
ただ世界をみている。
生まれたての視力はぼやけていて、光の明暗でしかなくて
あとは、そのほかの五感から伝わってくる情報を認識してる。
でも、体験しているという“自分”というものは、まだない。
ただ、シンプルな感覚だけがある。
<追記メモ>
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