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【おかわり】兎、波を走る【劇場に座り込んでいるのは誰か】

運良くリセールに当たりまして、おかわりできました。
2回目を見て大正解。前回は席の近さと問題の理解度が足りなかったせいか、思った以上に引き摺り込まれていたようです。今、感想を読み直すと、大変恥ずかしい。
お譲りいただいた席が超良席で、ほどよく舞台から遠く、全体像が眺められ、かつほぼセンター! 演出意図を含め、かなり解像度が上がりました。1回目の時はラスト付近の奥はほぼ見えなかったからねw
そして、前回、うまく受け取れなかった「あなたの話なのよ」(by『オイル』)をちゃんと受け取れた気がします。

今回のお客さん、むしろご年配が多かった? 問題に対して余裕があるせいか、「ちらちら」から「拉致」、「ドヤ号」から「よど号」がわかるとこでなんか軽い笑いすら起きてて、「嘘やろ…?」と思いました。お客さんによって感触が変わるのも観劇の醍醐味ですね。
私も勉強してから臨んだため、かなり素直に感動することができました。素直に泣けました。笑えました。それでいいんだと思えた。それがよかった。


暗号化された脚本

アリスやらAIやらチェーホフやら、モチーフと現実の話がしっちゃかめっちゃかしてて、今回の脚本はかなりわかりにくいです。かつ、取り扱っている問題が現在進行形のものなので(って、いつだって、野田劇には当事者意識が折り込まれていますが)私が距離を持って捉えてしまい、1回目はうまく掴めなかった。しかし、整理して考えると、ストンと入って来る、そんな脚本でした。
2回目なので、初めから「アリス」や「妄想するしかない国」「不条理の国」、「兎」が指すものが具体的にわかって観劇でき、これがとてもよかった。そのままの意味に当てはめても、ストーリーが破綻しない。シナリオ本そのものを手に入れてないので再確認できず確信は薄いのですけど、キーワード自体が暗号化されていると感じました。
特に前半は言葉の意味がわかって見ているとすんなり通る筋なのですが、わからないままに見ると、本当にただの「不条理」を描きたいように見え、その不透明さにストレスすら感じる。この二重構造ゆえに、1回目と2回目の印象がまるで異なり、「おかわり」の価値が非常に高く感じられる作品でした。
例えば、迷子案内所でのアリスの母のふわふわした証言。あれらは、迷子になってからもう幾年も経ち、娘が何歳くらいでどんな姿になっているのかすら、把握できていない。そういうシーンなわけですね。
まだ間に合うので、見たい人は是非! 5時間くらい並べば、確実に座って見られますよ(前回の感想に当日チャレンジがありますので、ご参考にどうぞ〜)

あちらとこちら、その境界線

困ったときの構造分析! ということで、その文法でざっくり本作を考えてみたら、観客へのメッセージがかなり明確になった気がしました。

あちら=不条理の国、妄想するしかない国、朝鮮人民主義共和国(以下、北朝鮮)

こちら=現実、現(うつつ)の国、日本(もとい、あちらの外側)

「こちら」の世界は、さらにその主たる舞台が「遊びの園」という遊園地であり、そこで興行される舞台(非現実の世界)という、入れ子状になっている。

今回、わかりにくいのがこの二つの世界が時に入り混じり、影響しながら、「事実」が判明していく構造にあるところ。そして、最終的にこちら側の世界も仮想現実に覆われるところ。
この意図がわかった(と思った)とき、「ひえええ」となりました。
よど号事件の主犯たちがかの国へ亡命し、やがて彼らを教育者として、工作員たちが育てられる。その件が、一連の拉致事件にも繋がって来る。パンフレットで野田さんがはっきりと「学生運動」を語っていましたが、彼はその当事者ではない。傍観者である。しかし、その時代の当事者として、ああした社会的な動きをそのまま投げっぱなしにした影響というものを考えざるを得ないという。そういうことなわけです。
中盤、元女優ヤネフスマヤ、劇作家2人、そしてシャイロックの4人が、「あちら」側へ行く行かないの話になる。しかし、シャイロックだけは「行かない」と拒み、「こちら」の世界へ残る。彼は「リアリスト」だから。その中にすでに「アリス」がいるから、と。
しかし、彼が残ったその国、その土地で何が起きたかといえば、仮想現実で総合型リゾートを作るだのカジノを作るだのと言い始める。彼のリアルはバーチャルリアリティ=VRに置き換えられる。ここ、ものすごくわかりやすくて、配役からしてシャイロック役の方はかなりお若いんですよね。その彼が、「あちら」の世界のことは「リアルではない」と暗に言いつつ、仮想現実は現実の延長として認識しているという。矛盾がありそうでそうではない、現在の若者の感覚をうまく捉えている。今の若い人は、かなりシームレスにVRの世界を捉えているように思います。私がこうして感想を綴るSNSもまた、そうした世界の一部なのかも。
「あちら」側に捉えられた3人は、やがて「こちら」側へ戻ってきます。しかし、ヤネフスマヤがシャイロックの求愛を受け、VRの世界へ旅立ち、劇作家2人は己の身をAIにしつつ、舞台の結末を変えようと奮闘する。ここに来て、戻ってきた現実、現、うつつの世界は、仮想現実に覆われていく。
終盤、脱兎が38度線の国境を越えるシーンで、その縄を操る兎たち、監視者たちにはVRゴーグルが装着されている。つまり、かの国である「あちら」と、「こちら」の世界はもはや同じではないか、と明示される。
一部メディアは、かの国の現状を、おもしろおかしく報道します。それは「娯楽」として消費されてしまう。それはメディア、主にTVを通した情報だから、笑える。だが、彼らのことを本当に笑えるのか。「あちら」と「こちら」の境界線がもはやない、この国もかの国と変わらないのではないか。
そんなメッセージを、痛烈に受け取ってしまいました。

「新しい戦前」、個人の感触について

話が逸れますが、上記のことに気付いた時、タモリさんの「新しい戦前」という言葉を思い出しました。元は徹子の部屋で出た言葉だったか? それがCM化された? 詳しくないけど、この2人に対話の中でこのワードが出たということが、私にはひどく生々しく感じました。
日本のTV史に残る2人の対談で、出てきたこの言葉。メディアの力を強く感じる2人の、対話。正直、ゾッとしました。
「新しい戦前」──それは顧みれば、こういうことだったのかと分析できるものなんだと思います。たくさんの歴史の中で「戦争」があって、そのたびに「戦前」はあった。それは、自国のことでも、他国のことでもいい。
けど、「当事者」は気付かない。野田氏自身が、「自分は傍観者だった」として、そのあとの影響を思った、「学生運動」のときのように。
パンフレットの対談をはじめ、彼は「速度」のことをとりわけ意識しているように思います。おそらく、この「新しい戦前」も、かなりの速度で消費され、分析され、後の時代に返ってくる。それが、とんでもない事件に繋がったとしても、「当事者」の意識はなく、「傍観者」として処理してしまう可能性の方が高い。私はそんな気がします。いや、もうそれは始まっているのかも?
これは個人の体験ですが、長崎出身の方とお話ししたことがありました。「広島や長崎の人間は世界で唯一の被爆した地域として、平和教育にとても力を入れている。なのに、他県はまるで違う。それが悔しい」と。──これ、世界に出たとき、日本は「唯一の被爆国」となるのですが、実際にはかなり地域差が強い問題意識のように思います。
私は親の影響もあって、おそらく同世代よりは問題意識は高い方だと思うのですが、それでもまだまだ勉強不足だと思うし、拉致問題も含め、心情的に辛いものには目を背けてしまう現状がある。
朧げな情報で申し訳ないのですが、Twitterで次のような場面を見たことがありました。
太平洋戦争についての日本人の責任、その加害性に対する会合に主催側の「若い人の参加が少ない」という嘆きに、若者が「生まれてもいない時代の戦争の責任って言われても困る。だから、老害って言われるんだよ」ってリプライしていました。
私は、それを見て、「それはまぁ、そうなんだけどさあ……」って思って、思うだけで、その先が続けられなかった。「個」の意識が強まる今、その感覚はわかるし、正しいとも思う。だけどさぁ……、の「……」の部分。
こうの史代『夕凪の街 桜の国』は、被爆者の2世、3世を描いた漫画ですが、自身に連なるその意識を、どこまで持ち得るのか、という話なんですけど、広島や長崎(そして、沖縄)以外の地域は、そこが薄くなるんだろうか?と考えたことがあります。「あなたの話なのよ」が、「あなたの(祖父母の)話なのよ」と繋がる方が、当事者意識は当然強く持てる。
ここを肥大化させていくと、「国家」とか「愛国心」とかになっちゃうので、それはそれで戦争へ繋がる感覚だから、忌避する気持ちはあるけども──やっぱ、野田さんの、「僕は傍観者だったけど」のとこは、「傍観者」って、それだけで加害性があるんじゃないか、という感覚は忘れたくないのかも。「いじめ」問題だと、それはもっと明確に言われることで。この感覚は『農業少女』でも指摘されていたと思う(まで、考えると、ここでの多部未華子の起用で、って考え過ぎ?)
さまざまな歴史的な事例に関して、「当事者」よりも、「傍観者」の方が多い。
その責任を問う。問われている。
本当に、私たちは「無関係」なのか?

劇場に座り込んでいるのは誰か

それは観客もですよ。えぇ、間違いなく。
さらっと示されたこれに気付けたから、むしろ主題の母子の物語に集中でき、2回目は素直に泣けました。
序盤から中盤にかけ、学生運動から立ち退き運動の問題に発展していきますけど、「そこから動かない」という運動において、政治的な意味をなすのが座り込みです。
「座ったままで終わるのか」
「別な行動をするのか」
これを詰め寄られている気がしました。
しかし、同時に、前回感じたように、劇作家としての悲哀のようなものも、やはり感じ取ってしまった。観客もそうだけど、劇作家もやはり「劇場に座り込むしかできない」。このやり方でしか、物事を提示できない。
AIに自動筆記されながら、作中の作家たちが嘆く。「歴史が書かせている」。AIは既存の情報を学習し、創作に反映させている。つまり、AIから出てきたものは歴史の集大成。同じことを繰り返す。繰り返しながらも、追うしかない。例え、何年遅れても。話し続けるしかない。
それでも、パンフの対談なんかを読んでいると、根底では信じたいのだと思います。新しいものを生み出せるのは、違う結末を描けるのは、人間でしかない、と。

そして、剥き出しにされるリアル

作中、唯一はっきりとそれとわかるキーワードとして「安明進」の名前が出てきます。彼の亡命によって拉致問題が大きく進展したことや、横田夫妻との面会の様子などはかなり現実に即して描いていた。むしろここを描きたかったのかな、と。
クジラに飲まれて帰れなくなってしまったアリスは、それでもどこかで信じている。クジラにもへその緒がある。私にもある。だから、私の悲痛な言葉を、抵抗を、気持ちをわかってくれるだろう。わかってくれたのなら、伝えてほしい、と。
工作員の人たちも、また体制側の被害者である、というのが、この話の難しさを内包している。
拉致の方法や、彼女が拐われた一連の場面。やたら詳細に当時の手法が演じられます。ここで急に、ファンタジーから現実に引き寄せられる。これは本当に起きたことなのだと突きつけられる。
野田劇ではよく見られる手法ですが、今回、とりわけアリスの「お母さん」が心に迫り、辛くなりました。

最後に、すごく今更な話だが

野田さん、長崎出身だったんですね!?
東京公演、千秋楽は7/30!
最後まで駆け抜けてほしい。


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