【初見】劇場版「輪るピングドラム」【パッション】
※Twitterで書き殴っていた、初見のパッションです。興奮を覚えておくために、再掲しときます。
劇場版「輪るピングドラム」を見てきました。考察とかネタバレとかは置いておいて、これだけは言わせてほしい。「大丈夫」な物語だ。これは絶対的に「大丈夫」な物語なんだ、と。感想とかではないです、これはただのパッション!
めちゃくちゃな感情のままに劇場を出てすぐにハイボールとビールを煽りつつ(映画館のある施設でお祭りみたいなことをしていた)。
「きっと何者にもなれない、おまえたちに告げる」が決まり文句であったプリクリ様。桃果の力が憑依した陽毬の本心であったのかもなぁ、と今では思います。アイドルを目指していた彼女の絶望が、ここにある。
しかし、劇場版では桃果その人がプリクリ様の姿となって現れます。本来は10歳で時を止めた少女。どう見ても成長している。16歳くらいかな? そうです。「運命の子ら」と同じ年、メタ的に10年の月日を経て、彼女は成長したのです。
本作における桃果は、多蕗とゆりの視点でも語られる通り、「絶対的な存在」です。「特別な力を持った女の子」。不幸な彼らを救ってくれた存在。
その彼女の成長した姿から、幼い姿になった冠葉と晶馬に告げられる──「きっと何者かになれるおまえたちに告げる」。陽毬プリクリの決まり文句を反転した、それだけの言葉。それだけの、だからこその絶対的な言葉。
ここでもう目の粘膜は潤みました。
あぁ、彼女は彼らを「何者か」にするために、「何者であったのか」を思い出させるために現れたのだ、と。だから、もう絶対的にこの物語は「大丈夫」!
アニメ版では、高倉家を中心に、その要たる陽毬の生存をめぐり、冠葉や晶馬が右往左往する話が前半に配置されている。
よって、物語は全体としてミスリードを含みつつも、「陽毬の生存」に集約したため、実は取りこぼされたテーマや謎がいくつもある。
①桃果の「運命日記」とは、そもそも何だったのか?
②久宝あさみを突き落としたのは誰?
③大人組である多蕗ゆりサイドの思惑は?
④夏芽家サイド、特にマリオ関連はどうなのか?
⑤それぞれの恋愛感情はどう帰結したのか?
おそらく劇場版は①を中心に据えて再構成したのだろうと思われます。
②は劇場版でよりはっきりとわかりやすい形で「夏芽真砂子」の仕業であると明示されました。
③はボリューム上、省略されそうな気がします。が、プリクリ様に扮する桃果が出てきた以上、それはそれで救いはあるでしょう。
④アニメ版でもここは消化不良な部分で、劇場版にまだマリオが出て来ていないことも含め、逆にもう少し後半において夏芽家について掘り返されるのでないでしょうか?(前編の真砂子の活躍、少な過ぎだもんね!
さて、問題は⑤です。
というのも、「陽毬の生存戦略」に物語が終始したため、本作では仄めかされていた冠葉→陽毬、陽毬→晶馬への思いが、かなり蔑ろにされているんですよね。
そこを突き詰めてしまうと「家族が壊れかねない」。
けど、劇場版ではハッキリと、最後にぶち込んでくれました。冠葉の独白の形で「家族の形が壊れても、この想いを止められない」と吐露している。
あぁ、そこを掬ってくれるんですか?──と。
潮干狩りのシーン、アニメ版でその回想は晶馬と陽毬に限られます。そこで、陽毬は晶馬への想いを吐露します。
そのシーンに被せるよう、今回は冠葉が入る。
彼は、陽毬の想いが晶馬にあることすら、知っていたのかもしれない。彼の養子になった経緯を思えば、陽毬もまた養子であった──ならば、そのきっかけは?と考えれば、晶馬との始まりは自ずと知れる。
冠ちゃんが、家族の呪縛から逃れられるのでは?
そのへんをぐるりと考えて、絶対に「大丈夫」と思った。
桃果の日記にある「大切なひと」「永遠」。
そこに、彼女自身は含まれてなかったのかもしれない。だが、確実に妹である苹果、親友である多蕗とゆりはいる。
苹果の想い人が晶馬であるならば、彼を彼女の世界から消えることを、桃果はしない。
ならば!
桃果の願いの中に、妹である苹果、親友としての多蕗とゆりの幸せは絶対に入っているんです。その意味で、苹果→晶馬の意味が効いてくる。
たぶゆり強調しているのは、推しかぷだからってことも強いですけど!
後編のアニメ版でどう処理されるのかは置いておいて、劇場版における桃果の存在を決定付けたのは他ならぬ彼らのエピソードがあったからです。
苹果は、桃果の力を直接は知らない。
多蕗とゆりは、桃果の力を知っている。
さまざまな流れを経て、苹果は多蕗とゆりを信頼している。
だから、彼らが信頼する「姉」の桃果の力も信じている。
荻野目苹果を取り巻く環境において、高倉家は一切の関係がない。
それを繋いだのが、プリクリ様のお告げである。
…そして、プリクリ様の本体って。
というところを、アニメ版は深められぬままに終わってしまった。
それでもあの物語が一つの帰結を示したってのはすごいことだな…。
今回、桃果そのひとが出てきたことによって、もう少し、あの運命日記の意味や、あの作品内にあった恋愛事情を掬ってくれるのではないだろうかと思っています。
というのも、幾原監督って、極上のエンターテイナーなんですよね。
作品を生み出すクリエーターという側面も、強いのですが。
彼は、なんやかんやとファンの声を拾って、作品にそれを還元します。
ウテナは百合作品ではなかった→真っ当に百合(=女の子同士の恋愛)を扱った作品としての、「ユリ熊嵐」。
その結末を受けて、登場人物たちが異世界へ行くこともなく、そのままの世界線で罪を贖い、成長し、元の世界に戻ってきた「さらざんまい」。
ピンドラの後には、この2作品がありました。
これだけでもう救われます。
わかります。
大丈夫。
冠葉も晶馬も、他の世界に行くことはない。
その想いを、諦めることはない。
大丈夫。
絶対に大丈夫な話になる。
この流れを勝手に過大評価して、過呼吸起こすほどには泣いていたわけですが、当たらずとも遠からずかと思っています。
ふえええ、ありがとう、ピングドラム!!!
他にも言いたいことは山ほどあるが。
・冠ちゃん、めっちゃセリフ滑らか。
・真砂子の出番、少な過ぎでは???
・実写とのコラボ演出、流行ってんのかなぁ?
・リサイクルといいつつ、結構細かに書き下ろし、多くない?
とかとか!
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