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【観劇】正三角関係【そんな単純な話じゃない?】

 7/24のソワレにて、観劇。
 普段なら、観劇後にある程度の感動と解釈をもって、「おかわり、いつ行こうかな?」とか考えるのですが(もはや2回見ることが普通になっている)、今回は咀嚼するのにすごく時間がかかりました。おかわりもどうしようかな、と思う始末です。何というか、再考したい箇所がない。
 しかし、8月9日までにはどうにか感想をあげようと思い、箇条書きながら、どうにか感想をしたためました。

その前に、役者さんの感想から。

松本潤
最初、滑舌がちょっと?と思ったけれど、後半に行くに従って、熱をもった良い演技になっていきました。舞台全体を動き回る役どころが多かったですが、さすがの身のこなしで右から左へと動いていてよかった。舞台の仕事も増えるといいですね?

瑛太
松潤、長澤まさみに比べ、シーンが少なかったような? ちょっと噛み気味なのが気になりました。映画で見かけることが多くて、その時の話し方が、日本映画特有のボソボソした感じだったので、今回の舞台起用は不安でしたが、声は届きました。

長澤まさみ
これはもう仕方ないね、彼女の舞台ですよ。野田劇2回目だっけ?
舞台はともかく声の力だと思っていますが、滑舌声量、共に文句なし。それに加え、1人二役になった瞬間、もうずっと釘付けだった。「THE BEE」でもポールダンスやってたっけ? 今回は時間も長くて、本当に魅せてくれました。

さて、本題。

・公演前に、パンフレット冒頭の野田氏の言葉だけ読むのですが、「花火師」って見た瞬間に「題材は原爆だな?」と直感するくらいには、そこに至るまでの時間やプロセスはわかりやすかった。
・むしろ、わかりやすすぎた。そして、なぜ、ロシア?となる。もしかして、そんなに単純な話ではない?
・「原爆」というテーマは、野田劇にはかなり馴染みがある。率直にそれが取り上げられたものではいえば、「オイル」、「パンドラの鐘」が思い浮かぶが、この両者の対抗軸は当然ながら「アメリカ」だった。
・だから、なんで、ロシア?と考えたとき、やっぱりこれはウクライナ戦争批判なんだろうな、と。長期戦が見込まれたときに核爆弾の使用が取り沙汰されたが、それにかこつけてなのかな、と。
・しかし、そう考えると、この太平洋戦争で対アメリカではなく、対ロシアの軸を持って来ることの複雑さ、遠回りさ。これがわかりづらい。このわかりづらさが、元ネタ「カラゾーマフ兄弟」に通じると思って、持ってきたのか。
・そして、これは野田版「オッペンハイマー」なのかな、とか。当時、新型爆弾の開発として、そして冷戦の予兆として、アメリカとロシアが互いに争っていた。そこの資材提供に「岡山の鉱山」が関わっている?
・映画の方を見てないのでわからないが、あの映画を巡り、多くの日本人がかなり非難的な意見を寄せていたのを、私もSNSで見ている。映画館で見ようかな、という気持ちが私も湧かなかった(子供の頃に「怒り地蔵」という、激怖反戦人形劇を見せられたおかげで、実写の原爆投下ものは見られないんです)(ただ風の噂で被害者の様子は一切出なかったという話も聞いているので、見られるかな?)
・というところから、考えて、いや非難しているけど、日本も関わってんよ?(岡山関係のあれそれ)ってことを持ち出して、戦争の責任、人間の原罪とは、みたいなところに持っていきたかったのか。
・わかるけども、同じテーマで「オイル」という作品を知っている身としては、あそこから何十年後かに出てきたテーマが「自罰」的なのは、どうなのだ?と考えてしまった。もちろん、時代を反映していることは重々承知しているし、あの作品にも「自罰」の要素はあったけど。
・ともかく、今回の舞台、客層が「若い」。学校帰りっぽい、おそらく松潤担の、セーラー服のお嬢さんもいたくらい。彼女たちはきっと詳しくは知らないから、どういうことか、帰って調べるかもしれない。それが大事とは思う。
・思うけど、なんでロシア?となったときに、アメリカを吹っ飛ばして、そこへの批判だけで終わらないかが心配。この関係性もまた「三角関係」なのか。
・「若い」というのは年齢的なことだけではなく、その辺に対する意識の差も、かな? この辺のギャップは「フェイクスピア」の時にも感じたけど、事件を知っている層と知らない層ではまるで感じ方が違う。
・印象的だったのが竹槍で戦闘機に挑むシーン。ここで笑いが起きたんだけど、私は笑えなかったよ。だって、現実に日本はそうしてたんだから。そして、2つも爆弾を落とされた。それで、14万人も死んだんだから。
・「原爆」の話題を取り上げるとき、かの国の人々の心に来るのは、広島よりも長崎の話題だそうで。それは、長崎の隠れキリシタンの歴史、原爆でボロボロになった教会の姿が胸を打つからだそう。
・戦争のきっかけに宗教が使われるようになって、それが次第に民主主義というものにすり替わって。けど、根っこの部分では、「同じ神を信仰する」という部分の共感の方が強いらしい。ははっ。
・話を舞台に戻す。どうにも今回の話がしっくり来ないのは、上記のような多重構造と、舞台内での心情がうまくリンクしていないから、のような気がする。
・「Q」はその点、わかりやすかった。人が愛する力を失うほどの戦争の過酷さ(元ネタの「ラーゲリより~」の逆説的な解釈でしたが)。「フェイクスピア」では、本当の悲劇の言葉の重みと、作り物の対比。「兎、波を走る」では(これもわかりやすすぎたが)、元ネタとテーマがうまく噛み合い、その事件の残酷さが強調された。
・最近の新作と、過去の同テーマの作品を併せて考えると……やっぱり、「弱い」と思ってしまった。うまく噛み合っていない気が。
・ロシア批判のための、「カラゾーマフ兄弟」だったのか。だが、「原爆」からロシアへ行くのは、難しいのではないか。「正三角関係」からのミスリードである恋愛模様(だけ)ではない、戦時の国の関係、仕事への情熱。そういったものが複雑に絡み合い、ゆえに描写が全体的に薄く、響くほどの力を持っていないと感じてしまった。
・「響く」点でいえば、役者個人に頼っている、とも感じた。これは脚本の力ではないな、と。彼が、人気役者が演じるから、心を寄せる人がある程度いるという前提で、作られているのではないか。
・舞台は俯瞰で見る人と、その役者を中心に見る人の二種類があると、観劇を重ねるうちに私も分かってきました。特に推し活が叫ばれる昨今、後者がかなり目立つようになってきた。その状況を、うまく取ったといえるかもしれない。
・でも、私は、脚本そのものの強さが見たかったんだよなぁ。役者の強さも大事だけどさぁ。さぁ…。

ということで、ようやくパンフレットや、他の人の感想を読めそうです。そしたら、また感じ方も変わるかな?

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