【2回目】輪るピングドラム【徒然なるままに】
2回目を見てきました。バルト9にて。
近所の映画館でも上映していたのですが、ぼんやりしているうちにどんどん上映中のとこが減っていって、焦りました。後編のついでに前編もまた少し上映するかなと思うので、さほど慌ててはいないのですが。。。
私にとってカロリーの高い映画なので、そう毎日通うように見ることはできないかなぁ、という葛藤がある。
しかし、かといって日曜の朝8時、新宿で、ってどんだけだよ。しかもその日は1本しかない。…と思っていたが、各地からこぞってくるのか、ほぼ満員でした。怖いわ…。
以下、2回目視聴で思うことなど。
アニメ→劇場版と、劇場版→アニメではかなり印象が変わる作品ではないかと思いました。後者がどれほどいるのかわかりませんが。
前編は真砂子関係が薄いと感じましたが、それもそのはず、このあたりの構成をがらりと変えてきている。
各自の思惑とそれぞれが抱える秘密が、互いに絡み合うように繋がり、それがだんだんと解けていくのがアニメ版の面白さです。そこをすっ飛ばして、時系列ではなく、キャラクタごとの心情が理解しやすいよう、映画は再構築している。
特に、冠葉周りが顕著で。彼の陽毬への想いというのが、アニメ版では第1話の最後に差し込まれる。前作のウテナでアンシーと暁生の関係を理解している層としては、また兄と妹なのか!?とざわつきました。
真砂子と冠葉の関係も、被害者の会の女の子たちの絡みから、真砂子もその一員のように見える、そうミスリードしている。
実際には、陽毬が実の妹ではなく、真砂子が実の妹である。が、それは前編では明かされていませんから、このあたりが後編でどう料理されるのか楽しみですね。
前編では、だから真砂子の回の前に、冠葉がプレゼントをもらって重たかったものの話を陽毬にしていて、それらがすべて真砂子からの贈り物であったエピソードがあったのですが、映画ではそれがなかったため、晶馬誘拐の下り(「思い出したか!」のとこ)がやや唐突に感じられました。マリオもまだ出てきてないしなぁ。あのへん、初見の人はわかりにくいかもしんない。
またアニメ初期にあった赤い靴の女の子の話も、桃果の日記に記されていたことが省略されたため、あの日記の持つ「不思議さ」が薄れたような気がします。
たぶゆり関係は、この二人が仮面夫婦であることを思うとその白々しさにニコニコしてしまった…。今回、プリクリ様がはっきりと桃果なので、結構重要な立ち位置のような気もするんですけど、どうなんでしょう。
劇場版は、初見の時に、桃果の視点から再構築したのかと考えました。というのも、「ピングドラムとは何か」を中心に、桃果の目的というのが、アニメ版ではふんわりしていたのですよね。
大きなところでは眞悧の企みを阻止すること。ゆえに、多蕗などからは「救世主」と言われてしまうのですが、実際のところ彼女がしようとしていたのは周りの身近な人の幸福とその救いであって、世界をどうこう……というのは壮大過ぎる話のように思います。
仮に、その文脈で「世界」が出てきても、彼女にとっての世界は家族がいて、友達がいて、という自分の大切な人たちとの地続きのものであって、眞悧の言葉のように抽象的なものではない。至って、具体的なもの。
そこはブレないものとして考えると、眞悧の企みを阻止するためにその一端を担った者の子どもたち=冠葉と晶馬を使った、ということか?
このあたりがあまりにも「救世主」然としていて、いまいち飲み込めないのですが(桃果がそのままに「救世主」であるという理解でもいいんだけど)(直接的に妹に働きかけないところが、何とも遠回りのような?)
荻野目桃果という人を、多蕗やゆりは一人の人間として語る。しかし彼らは、彼女に救われた人間なので、そこには多少の「色」が入る。
桃果を桃果のまま、どういう人間だったのかを捉えようとしていたのが、実は妹である荻野目苹果その人だったんじゃないか。
そう考えると、陽毬の作るプリクリワールドで、穴の下に落とされてなお這い上がり、手錠をぶち壊し、肋骨の階段を駆け上り、ペンギン帽子を取り上げ、投げ捨てた荻野目苹果の強さが、やはり強いとしか……。何度見てもあのシーンは爽快である。あれと同じ舞台で、ラストらへんの冠葉との耽美的なシーンがあったとは思えないほど。
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