萩尾望都『銀の三角』ネタバレ感想
*ネタバレ感想です。現在紙書籍・電子書籍ともに販売あり
『銀の三角』は萩尾SF作品における一大傑作
だが、発売当初初読で私が感じたのは、作者が自分の中へ中へ潜っているかのような作品だということだった。初出が『SFマガジン』であったということも手伝ってか、コアなSFファンではない読者である私はともすれば作者においてきぼりにされるような心細さを感じた。それはしかし、このSF世界が難解だからではなかった。
萩尾さんがこの時期にこの作品を描かねばいられない内的必然に揺り動かされて描かれているために、広く深い作者のインナースペースの中で、読者としての位置をともすれば見失いそうになる心細さではなかったか、と思う。
そして、今になって振り返ると、この作品は萩尾さんの長い漫画家生活にあってまさに階段の踊り場的な作品ではないか、と思われるのである。
ここには萩尾作品の過去と現在がぎゅっと凝縮され、未来に描かれる作品の種さえ内包している。
テーマは「殺され続ける子供の最後の悲鳴で壊れそうになっている世界の修復」
この目的のためにラグトーリンは創作者と同じ位置でさまざまなバリエーションを展開する。マーリーは手足となり、そのバリエを実行して見せる。
殺され続ける子供とは、リザリゾ王の息子、パントーである。
彼の罪は「親の望まぬ形」で生まれた、ただそれだけ。
(望まぬ形の中に「銀の三角」という生殖性の弱い、音楽に特殊な才を見せる種族の形、ということは特筆すべきである。)
そして夜な夜な殺され続け、絶望してあげる最初で最後の声が世界を壊す。
壊れそうになっている世界とはこの時、萩尾さんの創作世界そのものではなかったか、と私は感じたのだった。
80年代のこの時期、漫画家を続けることに対してのご両親との確執は危機的なところにきていた。少女漫画界を席巻し、名を成した後も得られない親の理解。
パントーの絶望は、この時期の萩尾さんの絶望そのものではなかったか。
認めないことで傷つき年老いていくリザリゾ王のように子を認めない親もまた。
音楽は作者の表現世界そのもののアナロジーである
作者は常に、そうした両親との確執による傷を癒す為に更に描き続けてきた。ミューパントーが歌うことをやめなかったように、歌は響き、残り続ける。
自分の内的世界に深く深く潜った先で悲鳴を挙げ続ける子供の声を、音楽(描くこと)で溶かし、絶望で壊れそうになった内的世界の結び目を解くのもまた、描くことにあったのだと思う。
そして、この作品を描き切った時、もう一つ階段を昇る力が生まれた。
ラストは美しく切ない。傷を飲み込み、世界を修復し、死と再生を繰り返すたぐいまれなる創作者が萩尾望都という漫画家なのだ。
しかし、このラストで「なかったことにされたパントー」達は今もまた形を変えて描き続けられる。それは確執を乗り越えた大人の視点でより社会的、普遍的な形になって。
*だいぶ昔に某サイトに挙げてあるテキストを単独で挙げてみました。
だいぶ若書きというか、気張った感じです。